大里暮色

1994年4月30日(星期六)


九份へ

4月30日、土曜日。基隆。くもり。

今日は九份と金瓜石に行く予定だ。九份[jiu3 fen4]と金瓜石[jin1 gua1 shi2]は、基隆市の東に位置する台北縣瑞芳鎭にある。九份は『恋恋風塵』と『悲情城市』が、金瓜石は『悲情城市』が撮影された場所だ。

基隆からバスで行けるということしかわかっていなかったので、昨日、バス停を見つけておいた。『心を揺する旅情 台湾の田舎町』に、「九份行きのバス停は、港に面した忠一路にある」とあったが、忠一路を三往復くらいしても見当たらない。ポスト・イットに‘我要去九份’と書いて、別のバスの切符売場のおばさんに恐る恐る差し出すと、意外にも日本語で「あの高い建物の下よ」という答えが返ってきた。上の記述が間違っていたわけではなく、「港に面した」という表現に騙されて忠一路の海側だけを探していたのだ。九份は金瓜石に行く途中にあり、どちらも金瓜石行きのバスで行ける。

バス停には時刻表がないので、近くのベーカリーでパンと牛乳を買って、バスを待ちながら朝食を食べる。9:50ごろの金瓜石行きのバスに乗り、ほとんど身振りで九份までの料金を聞く(NT$30)。途中の瑞芳あたりから人がたくさん乗ってきて満員になった。台灣のバスはアナウンスがないので、降りるバス停がよくわからず、ひとつ手前で降りてしまった[注1]。基隆からの所要時間は1時間くらい。


九份

九份藝術小集

いつのまにか天気がよくなり、陽射しが強くて暑い。バス停近くの雑貨屋の前に「九份の観光案内あります」というようなことが書いてあった。“九份導遊手册”[O16-5]という手作りのパンフレット(NT$30)。九份の地図、見どころの説明、歴史などが書かれている。店のおばさんは、地図のページを開き、言葉もわからない私たちに、今いる場所、中心部への行き方、見どころなどを親切に教えてくれた。バス通りの汽車路から、メインストリートの豎崎路に入る。

九份はかつて金山として栄えた町で、山の斜面に町並みが広がっている。石段の道、豎崎路は、両側に古い建物をそのまま利用したレストランや土産物屋が並び、観光客がとても多い。『悲情城市』のヒットにより観光地化しているとは聞いていたものの、土曜日のせいか若者が多く、まるで竹下通りのような混雑ぶりに驚く。


黄金酒家

『悲情城市』

悲情城市

石段をしばらく上ると、レストラン“悲情城市”の前に出る。ここは、『悲情城市』に黄金酒家という名前で出てくる。文清、寛榮(呉義芳)、寛美たちが林老師、何記者を歓迎する宴会のシーンと、上海ヤクザが文良(高捷)に仕事を持ちかける宴会のシーンだ。映画の宴会は、真ん中に菱形の桟のある両開きの窓をバックに行われていた。2階の正面には、このデザインの窓が3つ並び、いっぱいに開かれている。この店は、撮影当時は麗麗酒家という名前だったが、映画のヒットで悲情城市と変えたらしい。

悲情城市の横には、閉鎖された映画館、昇平大戲院がある。ここで最後に上映された映画は“悲情城市”だったということだ。


石段の風景

『悲情城市』

石段の風景

悲情城市の少し上方から石段を見下ろす風景も、『悲情城市』に出てくる。宴会の途中で文清が焼き鳥を買いに行くシーンと、阿嘉と赤猿とが儲け話の相談をするシーンだ。いずれも夜のシーンで、酒場に灯かりが灯り、着飾った夜の女性たちが歩く、賑やかな歓楽街である。現在は昼の町であり、随分健全になってしまったが、賑わいにおいては映画の中にひけをとらない。

散策しながらあたりをひとまわりし、きらびやかな聖明宮や、五番坑などを見る。あちこちにある石段の、手すりのデザインが美しい。


九份茶坊

九份茶坊

中心部へ戻り、九份茶坊という茶藝館でひと休みする。茶藝館というのは、自分で本格的に中国茶をいれて楽しむ台灣式喫茶店。九份茶坊は、古い建物を利用した渋いお店である。

凍頂烏龍茶とわらび餅色の木の実を注文して(NT$440[注2])席に着く。お茶道具一式と火鉢とやかんが来る。初めてなのでちょっと緊張したが、なんとかそれっぽくいれた。木の実[注3]は干したもので、殼を割ると中にプルーンを小さくしたような実が入っているが、その中にはさらに大きな種があり、あまり食べるところがない。独特の匂いがあり、くせになりそうな味だ。お茶の葉は山ほどあるし、やかんのお湯も足してくれるし、いくらでも長居ができる。とても居心地のよい店だ。


深澳灣の風景

『悲情城市』

深澳灣

九份茶坊のテラスからは、遠く深澳灣が一望できる。

侯孝賢の映画には、繰り返し登場して、その映画を代表するような風景がある。『悲情城市』においては、それは深澳灣を見下ろす風景だ。撮影当時に比べると、新しい建物や電線が増えてしまっているが、少し霞んだ港の風景は、映画と同じ情感をたたえている。


土産物屋のおじいさん

彭園

茶藝館を出るとき、店員に道を訊ねると、近くの土産物屋へ連れて行かれた。ここのおじいさんが、地理に詳しく、非常に流暢な日本語を話すからだ。『恋恋風塵』のロケ地へ行く目印の崙頂路というところがわからないので、その場所や近道を教えてもらう。『映画で歩く台湾』のコピーの写真を見て、これは九份だとか、十分だとかいろいろ話す。日本の本に九份などが載っていることに興味をもったようだ。

午後は金瓜石に行くと言うと、道を教えてくれた。「九份には安くておいしいものがたくさんある」「ぜひ民宿に泊まりなさい」などと勧められる。「ご飯を食べたらまた来なさい」と言われ、行くつもりだったが結局行けなかった。いつかおじいさんにお礼を言えたらいいと思う。


阿遠の家と阿雲の家

『恋恋風塵』

阿遠の家

舊道口牛肉麺という店で昼食を食べ、『恋恋風塵』の「阿遠の家」と「阿雲の家」を探しに行く。これらは、九份國小のある崙頂路から狭い石段を降りた小さな広場にあった。午前中に行った聖明宮の近くだったが、距離を無視した“九份導遊手册”の地図に騙されて汽車路から行ったため、非常に遠かった。

阿遠の家阿雲の家は、外観はほとんど映画の中そのままに残されていた。しかし、阿遠の家には、すでに人は住んでいない。映画の中で子供たちやおじいさん(李天祿)が座っていた玄関の階段は健在だが、上まで上ってみると、中はすでに取り壊されている。おじいさんが孫にご飯を食べさせたり、お父さんが座っていたりした玄関のテラスも、荒れ果てていて足を踏み入れられない。近いうちに取り壊されてしまうのだろう。阿雲の家もけっこう荒れていて、人が住んでいるのかどうかよくわからない。煉瓦でできたおもしろいデザインのテラスは健在だ。

2つの家のある小さな広場は、映画の中では住人たちの共通の庭のような存在であり、ここでいろいろな会話が交わされていた。しかし今は人気がなく静まりかえっている。阿遠の家の階段も、誰もいなくて寂しそうに見えた。


金瓜石へ

中山堂

金瓜石へ向かう。瑞金公路というバス通りに出てひたすら歩く。山あいの道で、だんだん山を上って行く感じだ。30分くらいで金瓜石のバスターミナルに着く。かなり山の上の方である。

金瓜石もかつて金山、銅山として栄えた町だ。しかし、鉱山が閉じられた今、当時の面影はまったくない。


文清の写真館

『悲情城市』

昔日的理髪廳

金瓜石は、『悲情城市』の中で、林家の四男、文清が写真館を開いていたところで、基隆と並ぶ主要な舞台である。バスターミナルから石段を下り、写真館として使われた建物を見に行く。途中には、今では使われていないらしい中山堂や、精錬工場の跡がある。

写真館の建物は、以前は床屋だったということだが、今は廃屋で入口や窓には板が打ちつけられている。板が壊れた部分から中を覗くと、並んでいる床屋の椅子が見えた。

この建物の前の石段の道も映画の中に登場する。大きなお腹の寛美が買い物をする場面では、道に沿ってたくさんの露店が並び賑やかだったが、今は露店の台がいくつか残っているだけだ。人通りもほとんどなく、死んだようにひっそりとしている。


寛美の病院

『悲情城市』

鉱山病院
日本家屋

『悲情場市』で寛美が働いていた病院は、残念ながらすでに取り壊され、瓦礫の山になっているらしい。場所がわからないまま石段を上っていると、後ろから来た地元のおじさんに、おそらく台灣語で声をかけられた。『映画で歩く台湾』のコピーの写真を見せて、英語で場所を訊ねる。おじさんは、ついて来いというジェスチャーをして、石段の途中にある家へ戻り、中学生くらいの娘を呼んだ。この娘さんが途中まで案内してくれて、無事に病院の跡地を見つけることができた。今日は人の親切が身にしみる日だ。

映画の中では、病院の中から入口方向を撮ったショットが多く、開放された入口の向こうには石段が見えていた。病院の瓦礫の山に上ると、やはりこの石段が正面に見える。石段のまわりには、日本家屋が幾つか並んでいたが、どれもすでに廃屋になっていた。

天気は、金瓜石に向かう頃から再び曇ってきている。ここのひっそりとした昼下がりには、薄曇りの天気がとてもよく似合う。まるで時間が止まっているようだ。これは、映画の中の活気のある金瓜石には感じられないものである。

バスターミナルに停まっていたバスで基隆に帰る(NT$34)。



[1] 九份のバス停
正しいバス停は九份站。
あとから考えると、乗客のほとんどは九份に行く観光客だったので、みんなが降りるところで降りるのが正解だった。
[2] 飲食の値段
「/人」「/杯」などの単位がついていない場合は、2人分の合計である。
[3] 木の実
後日、横浜の中華街で売っているのを発見し、龍眼という名前であることがわかった。

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作成日:1997年4月6日(日)
更新日:2004年5月29日(土)