大里暮色

1994年4月29日(星期五)


基隆へ

基隆港

4月29日、金曜日。台北。くもり。

昨日は雨の一日を台北で過ごした。今日はひとまず台北を引き払い、基隆[ji1 long2]へ移動する予定だ。

基隆は、台北の北東約24kmに位置する、国際貿易港のある港町である。高速バスか鉄道で行けるが、バスの方が便数が多く便利なようだ。台北車站の東の台汽東站というバスターミナルから高速バスに乗り(NT$38)、50分ほどで基隆に着く。

基隆は『悲情城市』の主な舞台である。『悲情城市』は、林という本省人[注1]一家の、光復[注2]から中華人民共和國成立までの4年間の物語である。林家の本家、小上海酒家が基隆の田寮港にあり、長男、文雄(陳松勇)が営む船問屋と妾宅が八斗子港にあるという設定だ。しかし、実際に基隆で撮影が行われたのかどうか、またその場所などもわからないので、今回の予定には入っていない。

基隆に来た目的は、ここを拠点に、『恋恋風塵』と『悲情城市』が撮影された幾つかの小さな町、侯硐、十分、大里、九份、金瓜石をまわるためである。


侯硐へ

侯硐車站月台

今日は、列車で行ける侯硐[Hou4 dong4]、十分[shi2 fen4]、大里[Da4 li3]へ行くことにした。台灣の鉄道は、島の周囲を一周するように走っていて、幾つかの支線がある。侯硐、十分、大里はいずれも駅の名前であり、侯硐と大里は東部幹線の駅、十分は三貂嶺(侯硐の隣)から出ている支線、平溪線の駅である。

駅の時刻表を見て予定をたてる。侯硐は、基隆からそれほど遠くないのだが、実は基隆からの直通列車は少なく、台北からの方が便利なようだ[注3]。これは、基隆が、一周している鉄道から少し飛び出した位置にあり、すべての列車が基隆を通るわけではないためである。基隆発13:35の普通列車で隣の八堵まで行き、東部幹線北廻線の莒光號57次(14:01発)に乗り換えて侯硐まで行くことにした(NT$29)。八堵から侯硐までは急行で、急行は列車の種類によって値段が違う(詳細後述→鉄道について)。列車の本数は非常に少ないので、侯硐、十分、大里と回って基隆に戻るまでの列車を全部決めておく。

八堵で次の列車を待っていると、おばさんに何か訊ねられる。気軽に人に聞くのが一般的なようで、こういうことは初めてではない。台灣の公用語は北京語[注4]であり、日常的には主に台灣語と北京語が使われている。海外に行くときは、多少なりとも現地の言葉を勉強して行くのが私の信条なのだが、今回は残念ながら北京語も台灣語も全くわからない。そのため、切符を買うのにもポスト・イットに書いて出さなければならない。一応4月からテレヴィとラジオの中国語講座を始めてはみたのだが、そり舌音の難しさにとまどっているうちに、旅行の日が来てしまった[注5]。学ぶときにはきちんと基礎からというのもまた、私の信条なのである。しかしながら、せめて「中国語は話せません」とか、「私たちは日本人です」くらいの北京語は覚えておけばよかったと後悔する。

莒光號に乗る。ここからはディーゼル車だ。侯硐は八堵から4つめの駅で、基隆市の東、台北縣瑞芳鎭に位置する。14:20に侯硐到着。このあと十分に移動する列車は15:36なので、1時間ちょっと侯硐で過ごす時間がある。


侯硐

石炭集積場

侯[石同]は、『恋恋風塵』が撮影された場所のひとつである。『恋恋風塵』は、脚本家、呉念眞の少年時代をモデルにした映画で、阿遠ワン(王晶文)という少年の中学時代から兵役を終えるまでの成長の物語である。阿遠と幼なじみの阿雲ホン(辛樹芬)の故郷である鉱山の町の風景の幾つかが、侯硐で撮影されているらしい。

駅から外に出ると、目に映るのは圧倒的な緑の世界だ。侯硐は、かつて炭坑で栄えた町である。閉山したのは比較的最近のことらしいが、繁栄の名残りはどこにも見あたらない、基隆河の両側を山に囲まれた田舎町だ。昼ご飯は、基隆車站前の屋台で買った今川焼風のもの(NT$10/2個)しか食べていないので、すごくおなかがすいている。駅前の小さな広場のまわりには、小さなお店が数軒あるが、適当な食べ物は見つからない。広場には、地元の老人たちが何をするでもなく集まっている。

駅の近くには石炭集積場らしき建物があり、炭坑町の面影を残している。このあたりには人影もなく、忘れ去られてしまったような場所だ。生い茂る草に埋もれてしまっているトロッコのレールの上を歩いてみる。


阿遠と阿雲が渡る吊り橋 [注6]

『恋恋風塵』 [注7]

吊り橋

『恋恋風塵』に出てくる吊り橋を探す。出てくるのは、鉱山で怪我をした阿遠のお父さんが仲間に背負われて渡るシーン(阿遠の夢の中)と、夏休みに帰郷した阿遠と阿雲が家へ向かうシーンだ。

駅のあたりから河を眺めると、左手には橋が、右手にトロッコの鉄橋があるが、吊り橋は見あたらない。左手の橋から向こう岸に渡り、鉄橋の方へ歩く。トロッコの線路に沿って歩くうちに、道は、河沿いをはずれて山の中へ入っていく。薄曇りの天気、緑の匂い、静寂。随分田舎に来たと思うと同時にどこか懐かしい風景だ。山道には、民家もほとんどないのに、たまに檳榔を売る店がある。『友だちのうちはどこ?』[C1987-78]を思わせるような、家に囲まれたガジュマルの木のある広場もあった。

そのうちに、トロッコの線路がトンネル[注8]になっているところに来た。ひどいぬかるみのそのトンネルを抜けると、ふたたび河沿いに出て、そこには、かなりぼろぼろに朽ち果てた吊り橋がかかっていた。映画の中ではちゃんと渡っていたのだが、今はとても渡れそうにない。7年という歳月の長さを改めて感じる。

河に沿って引き返し、別の橋から向こう岸に渡る。駅に戻る途中には、家が建ち並ぶ狭い通りがあった。どうやらここがこの町の中心のようだ。


十分へ

『恋恋風塵』

十分

十分までの切符を買う。J先生が無謀にもポスト・イットなしで買おうとして、見事に失敗した。結局、窓口の窓に字を書いて買う(NT$10)。カタカナ読みで言っても声調が違えばどうしようもないということが身にしみてわかった。

15:36侯[石同]発の平溪線の2両編成のディーゼル車で十分へ向かう。平溪線は侯硐の次の三貂嶺から出ている支線だが、列車の始点は三貂嶺ではなく、侯硐からさらに手前の瑞芳である。『恋恋風塵』でも映る、青い車体に白いラインの入った列車だ。エアコンがないからか、手動のドアを開けたまま走り出す。


『恋恋風塵』冒頭のトンネル

『恋恋風塵』

十分

暗闇の中の小さな点がだんだん大きくなる。どうやらトンネルの出口のようだ……。『恋恋風塵』の印象的なオープニングである。このトンネルが、ここ、平溪線にある。映画では、この最初のトンネルを出た後も、幾つものトンネルを出たり入ったりするのだが、これらのたくさんのトンネルがあるのは、大華と十分の間だ。一番前の運転席の横に陣取って、これらのトンネルを味わう。車内も、細部は多少異なるものの、いかにもローカル線というひなびた雰囲気は、映画の中そのままだ。

15:53ごろ十分着。16:43の列車で侯硐に戻る予定なので、十分では1時間弱の時間がある。


阿遠と阿雲が降りる駅

『恋恋風塵』

十分街
十分街

十分も『恋恋風塵』が撮影されたところだ。十分車站は、阿遠と阿雲の家の最寄り駅に設定されており、駅とそのまわりが映画に出てくる。

『恋恋風塵』を観た人は誰も、十分車站の無人のホームのショットと、中学生の阿遠と阿雲が線路の上を歩いて帰るシーンを、印象深く記憶しているに違いない。私もまず、プラットホームを映画と同じような角度から眺めてみる。屋根付きのホームのたたずまいは、映画の雰囲気そのままだ。

駅員さんがホームで切符を集めていて、乗客はみな改札を通らず、阿遠たちのようにホームから線路に降りて帰っていく。私たちも、同じように線路の上を歩く。両側には小さな店がびっしり並んでいて、これも映画のままの風景だ。のんびりとした田舎町だが、寂れた感じの侯[石同]とは違って活気がある。今日の薄曇りの天気が、この町のちょっとくすんだ色合いに、とてもよく似合っている。

線路の両側に並ぶ店の中には飲食店も幾つかあり、小さな食堂に入る。店のおばさんに勧められた陽春麺[注9]を頼み(NT$20/杯)、やっと食べ物にありつくことができた。陽春麺は白い麺で、白っぽいスープに麺とチンゲン菜が入ったもの。なかなかおいしい。

平溪線は基隆河に沿って走っており、十分車站も基隆河沿いにある。駅の近くには、退院した阿遠のお父さんが家族と一緒に渡る吊り橋がかかっている。こちらの方は比較的新しく、ちゃんと渡ることができた。


大里へ

坑道の入口

次は大里へ行く予定だが、そのためにはいったん侯硐に戻らなければならないため、16:43十分発の平溪線に乗る。侯硐車站で切符を集めていた駅員に身ぶりで頼み、記念に切符を貰った。ちゃんと‘十分-侯硐’と印刷してある、昔ながらの分厚い切符だ。侯硐では、閉鎖された坑道の入口などへ行き、1時間ほど過ごす。

18:03侯硐発の東部幹線宜蘭線の各駅停車で大里へ向かう(NT$27)。ドアを開けたままの入口に立つと、ちょっと恐いけれど涼しくて気持ちがいい。18:42に大里に到着する頃には、あたりはもうすっかり暗くなっていた。大里は、台北縣の南東に位置する宜蘭縣の頭城鎭にある。太平洋に面した、急行などの止まらない小さな駅だ。


文清が佇むプラットホーム

『悲情城市』

大里車站月台

大里車站は、『悲情城市』が撮影された場所のひとつである。映画の終盤で、逮捕が近いと悟った文清(梁朝偉)と寛美(辛樹芬)が、旅支度をし、子供を連れてホームに立ちつくすシーンだ。田舎の小さな駅。走り去る列車。立ちつくすふたり。背後に輝く美しい海。このシーンが哀しげなのは、彼らの厳しい表情のせいだろうか。わずか30秒ほどではあるが、強い印象を残すシーンである。このシーンによって、この小さな駅は、永久に人々の記憶に留まり続けるだろう。

しかし、すでに暗くなったプラットホームには、灯かりもほとんどなく、何も見えない。向こうにあるはずの海は、かすかにその気配を感じさせるだけだ。文清たちが立っていたところの柱のデザインを確認する。


大里暮色

大里車站月台

基隆に戻る列車は19:42までなく、できればここで夕食を食べたい。駅舎を出て階段を上ると、広い道路に出た。そこには、駅前広場や商店街は見あたらない。向こう側に、数軒の民家と食料品店のようなものが、寂しげに建っているばかりだ。時おり車が、スピードを出して通り過ぎていく。

地下道で線路の反対側に渡る。ホームから見ると線路の向こうはすぐ海なのだが、地下道の向こうには集落があった。ここにも小さな食料品店があるだけで、食堂は1軒もない。街灯もほとんどない暗い通りの両側に、小さい家が建ち並んでいる。家のドアや窓は開け放たれており、見るともなしに見ると、どの家も道路に面した部屋に祭壇とテレヴィがある。そこに家族が集まって、食事をしたりテレヴィを見たりしている。電灯の色が妙に赤い。外では、おそらく夕食後のひとときを、おしゃべりをして過ごしている。バドミントンをしている子供たちもいる。車の通らない通りは、広場のような役割を果たしているのだ。

19:42大里発の快速列車で基隆に戻る(NT$45)。八堵で乗り換えて、20:59基隆着。



[1] 本省人
1945年の日本の敗戦以前から台灣に住んでいる中国人を本省人といい、それ以後台灣に渡ってきた人を外省人という。
[2] 光復
1945年の日本の敗戦による台灣の中国(中華民國)復帰。
[3] 基隆→侯硐
基隆からは瑞芳へ行くバスが頻繁にあるので(九份行きと同じバス停)、ここまでバスで行き、そこから列車に乗るのがいいかもしれない。
[4] 北京語
中華人民共和國および台灣の公用語である標準中国語は、日本語では一般に北京語と呼ばれている。中國では普通話、台灣では國語と呼ばれていて、両者は全く同じではない。國語というのは台灣の外では通用しない呼称でもあり、ここでは北京語と呼んでおくことにする。
[5] そり舌音
台灣ではそり舌音ができなくても大丈夫だということはあとで知った。
[6] タイトルからのリンク
タイトルをクリックすると、[as films go by -台灣篇-]の関連するページを別ウィンドウで表示する。以下同様。
[7] 映画名からのリンク
各タイトルの下に、関連する映画名を付す。この部分をクリックすると、同じ映画に関連する次のタイトルにジャンプする。
[8] トロッコのトンネル
このときは気づかなかったが、鉱山事故にあった阿遠のおとうさんを探して、おかあさんたちが走るところがここだと思う。→トロッコのトンネル
[9] 陽春麺
NHK教育テレビの中国語講座で、陽春麺は上海料理だと言っていた。

←4月27日↑大里暮色→4月30日
台灣的暇期しゃおがん旅日記ホームページ
Copyright © 1997-2004 by Oka Mamiko. All rights reserved.
作成日:1997年4月6日(日)
更新日:2004年5月29日(土)