滿洲超特急
2000年8月15日(星期二)
1 |
8月15日、火曜日。大連。晴れ。 朝食後、J先生が哈爾濱の旅行会社に電話する。切符が取れていないどころか全く話が通っておらず、これから手配して明日連絡をくれるそうだ。すでに取れない確率99%である。 チェックアウトして荷物を預ける。まずは大連賓館のある中山廣場を探検。中山廣場は、帝政ロシアの租借地Дальнийダーリニーであったとき、ニコライフスカヤ広場として建設された。まわりに建物が建ち、広場としての体裁が整ったのは、日本の租借地大連となり、大広場と呼ばれるようになってからである。円形の広場を囲んで、今も当時の建物が並ぶ。旧・大連民政署[写真1]、旧・横浜正金銀行、旧・中國銀行、旧・大連ヤマトホテル、旧・関東逓信局[写真2]、旧・大連市役所[写真3]、旧・朝鮮銀行、旧・東洋拓殖ビル。ここが大連の中心であったことがよくわかる顔ぶれである。 広場というものがそもそも日本の街づくりにはほとんどないが、円形広場となるとさらに珍しい。しかし想像していたほど壮観ではない。理由は、広場が広すぎて建物が遠いこと、広場が緑化されていて見通しが悪いこと、建物の後ろに高層ビルが迫っていることである。建築群も、派手な色に化粧直しされていたり、巨大な広告が取り付けられたりしていて、いまひとつ風情がない。 旧・遼東ホテル(大連飯店)[写真4]などを見ながら上海路[shang4 hai3 lu4]を下り、勝利橋[sheng4 li4 qiao2](旧・日本橋)[写真5]を渡る。橋は拡張され、前田松韻設計の欄干はすっかり埋もれている。橋の向こうは「露西亞町」。帝政ロシアによってつくられたДальнийの行政市街である。夏目漱石が訪れた1909年は日本の租借地になって5年目。都市建設の真っ最中であり、まだこの行政市街が大連の中心だった。『満韓ところどころ』にも、滞在した二代目ヤマトホテルをはじめ、多くの場所が描写されている。 ところがこのあたりは、南山麓よりもさらに大規模な工事中である。こちらにはどうやら‘俄式風情街’ができるらしい。建築的にはドイツ風だといわれているのだが。旧・大連倶楽部など、勝利橋に面したあたりは手がつけられていないようだが、露西亞町の中心である団結街[tuan2 jie2 jie1]はすっかり掘り返されている[写真6]。両側の建物はすべて改修中で、どれが化物屋敷なのか、全く判別できない。突き当たりの二代目ヤマトホテルは、幸いにも古ぼけた姿のまま残っていた。少し前まで大連自然博物館で、郭沫若の書いた看板が掛かっている[写真7]。漱石を真似て、「玄関から一直線に日本橋まで続いている」はずの団結街を眺めてみても、空気はちっとも透き徹っていない。すぐ近くにある当時の中村是公宅(満鉄総裁公邸)は、ほとんど改修が終わっていた。 中国では、戦前の建物がほとんど取り壊されずに利用されてきたが、改革開放の波に乗った再開発の動きと、建築を保存しようという動きがともに活発化している。露西亞町や南山麓は、ある時代と強く結びついてつくられた街であり、街並みごと修復・保存されるとしたら、とても価値のあることである。しかしその場合、リアルな生活空間ではなくなってしまい、テーマパークのようになってしまうのではないかという危惧もある。建物は使われて魅力を発揮し、街並みは生活する人がいてこそ活きるものである。保存されることを望む一方、建築は生き物であり、使われて朽ちていき、いつかはなくなるのが自然だとも思う。いろいろな都市が様々な取り組みをしているが、ここがベストだと思えるところはない。笠智衆風に、「建築を保存するっていうのは、難しいもんだにぃ」と呟きたくなる。呟いてみても答えは見つからないのだけれど。 露西亞町の北のはずれにある北海園(旧・北公園)へ行く。パンダの乗り物[写真8]が2台ある。大連では、森林動物園の生パンダだけではなく、パンダというものの待遇がよいようだ。街のあちこちにある工事用の囲いにも、時々さりげなくパンダが描かれている。パンダが冷遇されている中国にあって、嬉しい発見である。 途中まで路面電車を利用して(1元=13.5円)、大連港へ行く。半円形が美しかった大連港候船廳の玄関は、改築されて格好悪くなっている。内部は、『ラストエンペラー』[C1987-23]の撮影が行われたところだ[写真9][写真10]。中国を去るJohnston(Peter O'Toole)と溥儀(尊龍)の別離シーンで、映画の中では天津港である。撮影後に改装されており、古い感じは失われていた。 バスで中山廣場へ戻る(1元=13.5円)。中國銀行のATMが東北唯一のCirrus対応機のような予感がするので、お金を下ろしておくことにする。ところが途中で取り扱い不能になってしまった。ホテルで荷物を受け取り、歩いて大連站へ行く。 軟座には立派な待合室があると聞くが、そんなものは見当たらない。列車番号ごとに区切られた待合所で、立ったまま昼食の包子を食べる。途中の山水樓で買った肉包と菜包で(1元=13.5円/個)、特に肉包がおいしい。改札時間が近づくにつれ、待合所は超満員になってきた。空調がなく、死ぬほど暑い。 瀋陽北行きのK231次(定刻13:40-17:46)は20両編成ぐらいで、軟座は2両[写真11][写真12]。シートは向かい合わせの4人掛けで[写真13]、通路を挟んで隣同士の切符だったが、まわりの調整に巻き込まれて隣の席になった。売る側の配慮が足りないのか、連れの人同士が最初からうまくまとまっていることは滅多にない。最初に来た人が座りたいように座り、次に来た人は否応なしに調整され、最終的にはみんなうまく収まる。気の毒なのは連れのない人で、せっかく窓際の切符を持っていても、余った席に座らされる運命だ。 まわりの乗客は見たところ皆中国人で、荷物が多いのとよく食べるのが特徴だ。大連から瀋陽という比較的短距離の移動にもかかわらず、持ち込んでいる食べ物の量が半端ではない。手が汚れない、食べやすい、かさばらない。これが私の考える持込みおやつの条件だが、そんなのは全く念頭にないらしい。ある母娘は、大量の葡萄やプラムに洗面器や鉢まで持参し、洗面所と席を何度も往復して、洗う、食べるを繰り返している。銀色の袋に入った北京ダックを食べている家族連れもいる。通路の向こうの推定廣東人父娘は、酒も飲まずにスルメを食べつづけている。 前の席は、つつましくココナッツ・ジュースを飲む、感じのよい老夫婦である。私たちが日本人なのはバレバレで、留学生かと聞かれる。一般に、「中国語が多少できる+個人旅行+若い=留学生」というイメージがあるようだ。どこから来たとか、どこへ行くとか、定番の会話をする。 見渡す限り何もない大平原、まっすぐな地平線。そんなものが見られるのかと期待していたが、地平線にはたいてい山があって、時おり集落や林も見えた。それでもこれまでに見た車窓の景色とは異なる雄大さのはずだが、映像情報過多な時代のせいか感動はなかった。 鞍山の後は終点の瀋陽北まで停まらないはずの列車は、その少し前に停車する。たくさんの人が下りて、まわりの人が‘南站’だと教えてくれた。南站というのは瀋陽站の通称のはずで、ここで下りたほうが便利だ。しかし迷っているうちに降りそびれてしまう。ほぼ定刻に終点の‘北站’に着く。約4時間、大連-奉天間が5時間弱のあじあ号よりも速かった。 駅の外は、タクシーやホテルや地図売りのおばさんの客引きが賑やかだ。振り切って南站行きのミニバスに乗る。車掌は豪快なおねえさんで、駅前広場に響き渡る大声で「南站、南站」と呼び込みをしている。少しでも隙間がある間は発車しない決意だ。運転手も負けずにパワフルな運転をする。しかし、車掌が窓から顔を出して、道行く自転車や歩行者を有無を言わさず避けさせ、バスは事故もなく進んでいく。お行儀がよくて物足りなかった大連に比べ、瀋陽[shen3 yang2](遼寧省瀋陽市)はパワフルで熱気がみなぎり、混沌の中にも秩序がある。私はすでにこの街がすっかり気に入っていた。 南站から歩いて中山廣場の遼寧賓館へ。今回の旅行のホテルの手配はJ先生にお願いしていたが、今夜の宿がもれていることが大連に来た後に判明していた。「明日から予約してるんだけど。」「でも今日来ちゃったの? ハッハッハ…」問題なく部屋は確保できた。 遼寧賓館は旧・奉天ヤマトホテル。「ヤマトホテルに泊まろう」シリーズ第二弾である。それほど改装されていないらしい広い部屋は、昔の面影を残していて風格がある[写真14]。「ヤマトホテルで夕食を食べよう」シリーズ第二弾で、夕食はホテルの食堂へ。辣白菜、宮爆鶏丁、マッシュルームときゅうりの炒め物、SNOW[口卑]酒など。84元(932.3円)。 外へ出てみる。明るい照明で照らされた、毛澤東が天を仰ぐ中山廣場は、人で溢れかえっている[写真15]。集団で踊る人々、音楽をかけて社交ダンスをする老人たち。広場のまわりはビーチボールのレンタル屋台でいっぱいで、子供たちはこれを使ってサッカーやバレーボールをしている。バドミントンや羽根蹴りも盛んだ。夕涼みなのか、何もしないでいる人も少なくない。瀋陽の夜は賑やかに更けていく。中山路に24時間オープンのコンヴィニエンス・ストアを発見し、水を買って帰る。 | |
2 | ||
3 | ||
4 | ||
5 | ||
6 | ||
7 | ||
8 | ||
9 | ||
10 | ||
11 | ||
12 | ||
13 | ||
14 | ||
15 |
◆ 大陸的假期 ◆ しゃおがん旅日記 ◆ ホームページ ◆ Copyright © 2002 by Oka Mamiko. All rights reserved. 作成日:2002年8月16日(金) 更新日:2002年12月26日(木) |