滿鐵総裁公邸(滿洲館)

■夏目漱石:『満韓ところどころ』(「夏目漱石全集7」[B266])

 その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい奇麗なのが二台あった。御者が立派なリヴェリーを着て、光った長靴を穿いて、哈爾賓ハルピン産の肥えた馬の手綱を取って控えていた。佐治さんは、船から河岸へ掛けた橋を渡って、鳴動の中を突き切って、わざわざ余をその奇麗な馬車の傍まで連れて行った。さあ御乗んなさいと勧めながら、すぐ御者台の方へ向いて、総裁の御宅までと注意を与えた。御者はすぐ鞭を執った。車は鳴動の中を揺ぎ出した。(《四》pp444-445)
 門を這入って馬車の輪が砂利の上を二三間軋ったかと思うと、馬は大きな玄関の前へ来て静かに留まった。石段を上って、入口の所に立つや否や、色の白い十四五の給仕が、頑丈な樫の戸を内から開いて、余の顔を見ながら挨拶をした。もう御帰りかと尋ねると、まだでございますと云う。留守では仕方がない。どうしたものだろうと思って、石の上に佇ずんで首を傾けているところへ、後に足音がするようだからふり向くと、先刻鉄嶺丸で知己になった沼田さんである。さあ、どうぞと云われるので、中に入った。沼田さんは先へ立って、ホールの突き当りにある厚い戸を開いた。その戸の中へ首を突っ込んで、室の奥を見渡した時に、こりゃ滅法広いなと思った。数字の観念に乏しい性質だから何畳敷だかとんと要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂のような心持がした。その広い座敷がただ一枚の絨毯で敷きつめられて、四角だけがわずかばかり華やかな織物の色と映り合うために、薄暗く光っている。この大きな絨毯の上に、応接用の椅子と卓テーブルがちょんぼり二所に並べてある。一方の卓と一方の卓とは、まるで隣家の座敷ぐらい離れている。沼田さんは余をその一方に導いて席を与えられた。仰向いて見ると天井がむやみに高い。高いはずである。室の入口には二階がついていて、その二階の手摺から、余の坐っている所が一目に見下されるような構造なんだから、つまるところは、余の頭の上が、一階の天井兼二階の天井である。後に人の説明を聞いて始めて知ったのだが、このだだっ広い応接間は、実は舞踏室で、それを見下している手摺付の二階は、楽隊の楽を奏する所にできているのだそうだ。そんなら、そうと早くから教えてくれれば、安心するものを、断りなしに急に仏様のない本堂へ案内されたものだからまず一番に吃驚した。余は大連滞在中何度となくこの部屋を横切って、是公の書斎へ通ったので、喫驚する事は、最初の一度だけですんだが、通るたんびに、おりもせぬ阿弥陀様を思い出さない事はなかった。
 室を這入って右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。正面に五尺ほどの盆栽を二鉢置いて、横に奇麗な象の置物が据えてある。大きさは豚の子ほどある。これは狸穴の支社の客間で見たものと同じだから、一対を二つに分けたものだろうと思った。そのほかには長い幕の上に、大な額がかかっていた。その左りの端に、小さく南満鉄道会社総裁後藤新平と書いてある。書体から云うと、上海辺で見る看板のような字で、筆画がすこぶる整っている。後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨くなったものだと感心したが、その実感心したのは、後藤さんの揮毫ではなくって、清国皇帝の御筆であった。右の肩に賜うと云う字があるのを見落した上に後藤さんの名前が小さ過ぎるのでつい失礼をしたのである。後藤さんも清国皇帝に逢って、こう小さく呼び棄に書かれちゃたまらない。えらい人からは、滅多に賜わったり何かされない方がいいと思った。
 沼田さんは給仕を呼んで、処々方々へ電話をかけさして、是公の行方を聞き合せてくれたが全く分らない。米国の艦隊が港内に碇泊しているので、驩迎のため、今日はベースボールがあるはずだから、あるいはそれを観に行ってるかも知れないと云う話であった。
 そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけた。じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり大和ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。(《五》pp445-447)
 表へ出るとアカシヤの葉が朗らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れた。ホテルへ帰って行くのだろう。馬の蹄は玄関の前で留まったらしい。是公の家の屋根から突出した細長い塔が、瑠璃色の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝つかせていた。(《六》p449)