滿洲超特急

2000年8月16日(星期三)

遼寧賓館・食堂 1

8月16日、水曜日。瀋陽。晴れ。

遼寧賓館も朝食付きである。西餐は、トーストに目玉焼きにインスタント・コーヒー。タダなので文句は言えないが、ちょっと寂しい内容である。あまり改装されていない食堂[写真1]はクラシックな雰囲気。朝食後はホテル内を散策するが、ほかの共有スペースもあまり改装されていない。「満洲一美しい階段」[写真2]も残っている。

明後日の長春行きの切符を買いに南站(瀋陽站)へ向かう。自転車が多い。スカーフで顔をすっぽり覆って乗っている中年女性をたくさん見かける。日焼け防止のようでもあるし、砂ぼこり避けのようでもある。覆面強盗みたいで、突然出くわすとかなり怖い。南站[写真3]の切符売場は駅とは別棟にある。あまり混んでいなくて、切符はすぐに手に入った。一階と二階に窓口があったが、何も考えず一階で買ったら硬座だった(28元=377.4円)。

瀋陽は、旧・満鉄附属地と旧・奉天城内という、ふたつの中心を持つ都市である。瀋陽站から中山廣場のあたりがかつての満鉄附属地だ。残っている当時の建物を見て歩く。瀋陽站のまわりは、かつての奉天駅である瀋陽站をはじめとして、フリー・クラシックの赤い建築が建ち並ぶ。奉天駅は、奉天の顔、そして満鉄の顔として造られた大規模な駅舎である。華やかな外観はいかにもそれにふさわしいが、白い石による模様や、ドームやペディメントが多く付され、あまりにも派手である。駅舎と向かい合うように並ぶ、もっとシンプルな建築群のほうが私は好きで、中でも旧・満鉄奉天共同事務所(現・瀋鐵大旅社)[写真4]が気に入った。中山路(旧・昭徳大街→浪速通)を中山廣場へ向かう。奉天駅と大広場を結んでいたこの通りには、旧・奉天日本郵便局や旧・藤田洋行の建物が残っている。

漱石は、1909年9月19日に奉天に到着した。日記[B344]には、「満鉄の附属地に赤煉瓦の構造所々に見ゆ。立派なれどもいまだ点々の感を免かれず。」とある。現在残っている建物は、ほとんどが1910年代以降のものであり、漱石が目にしたものとは異なる。多くの建物が建てられて「点々」ではなくなった時を経て、現在は再び「点々の感」なのがおもしろい。

中山廣場(旧・大広場)を探検する。広場を取り囲む建物は、旧・東洋拓殖奉天支店、旧・横浜正金銀行、旧・奉天ヤマトホテル、旧・奉天警務署、旧・朝鮮銀行、旧・奉天三井ビル。大連と同様、満鉄附属地の中心にふさわしい顔ぶれである。旧・奉天ヤマトホテル(現・遼寧賓館)の白い建物[写真5]がすばらしいが、巨大な広告が建物の上部を覆い隠しているのが興ざめである。広告の中の鄭伊健イーキン・チェンが、広場に君臨しているのも嘆かわしい。香港は中國の一部かもしれないが、中國に来たからには中国スタアを見たいと思う。

この広場は、大連の中山廣場とは違い、緑化されていない石の広場である。まわりを取り囲む西洋建築にはこのほうが似つかわしい。そして圧倒的な存在感で広場に求心力を与えているのが、中央の毛澤東像である。天を仰ぐ毛澤東。彼をとりまく、希望に満ちた兵士たち[写真6]。溢れ出る躍動感。社会主義リアリズムもなかなか悪くない。建築の出来は大連のほうが上だが、広場としての魅力やインパクトは瀋陽が上だと思う。昼間の広場は人影もまばらで、やがてやってきた水撒き車に追い立てられてしまった。

瀋陽のもうひとつの中心、旧・奉天城内に向かって歩く。屋台の並ぶ路地で、“瀋陽中街”という名のアイス・キャンディを買う。素朴なミルク味がおいしく、大きいのにたったの1元(13.5円)。大いに気に入る。八一公園(入場料0.5元=6.7円)では、ペットボトルの水を凍らせて売っている。中学生の頃、タッパーウェアに入れたお茶を凍らせ、学校へ持って行ったのを思い出す。この季節にはとてもいい思いつきで、しかも1本2元(27円)という、良心的な値段が嬉しい。

かつての商埠地にある旧・奉天日本総領事館(現・瀋陽迎賓館)や旧・奉天市公署(現・瀋陽市政府)を見ながら、城内をめざす。城内は思ったより遠く、なかなかたどり着けない。餓死寸前で、昼食を食べる予定の馬燒麥に着く。

馬燒麥は、燒麥が売りのイスラム料理の老舗である。羊肉と香菜の燒麥、茄子の料理、青島[口卑]酒で24.4元(328.9円)。サービスで羊湯が付いた。燒麥[写真7]は、中華料理の燒賣よりも皮が生っぽい感じで、こちらのほうがおいしく、特に香菜入りのがよい。メニューを見て適当に頼んだ茄子の料理[写真8]は感動的においしかった。茹でてざっくり切った茄子を、にんにくや香菜の入ったタレにつけたものである。午前の疲れは、青島[口卑]酒ですべて洗い流した。

瀋陽は、1625年に後金[注1]の都に定められた満洲族の故地である。清朝滅亡後も軍閥の根拠地として栄え、現在に至るまで東北地方の中心都市となっている。大連や哈爾濱といった、ロシアによって建設された都市とは、大きく成り立ちが異なるわけである。城内と呼ばれているのは奉天城の内城の址。満鉄附属地ができたあとも、中国人の都市としての瀋陽/奉天[注2]の中心地であり、現在も瀋陽一の繁華街である。

中でもその中心は、アイス・キャンディの名前にもなっている中街(旧・四平街)[写真9]だ。1920年代頃、ここに多くの中華バロック[注3]の建物が建てられた。当時、城内一の高層建築であった旧・吉順絲房(現・第二百貨商店)[写真10]など、今も残る建物を見る。中華バロックは、これまでにも台北の迪化街などで見ているはずだが、それと意識して見るのは初めて。「憧れの中華バロック」初体験である。

旧・満鉄奉天公所(現・瀋陽市少年兒童圖書館)[注4]などを見ながら、張氏帥府[写真11]へ向かう。奉天の軍閥といえば張作霖だが、張氏帥府はその張作霖と長男の張學良の官邸兼私邸である。現在は張學良舊居陳列館[注5]として公開されている(入場料12元=161.8円)。前には観光バスが並び、入口近くではツアー客の大撮影大会が行われていた。ひとりが写真を撮り始めると、全員が撮り終わるまで進めなくなってしまうようだ。ツアコンもなかなかたいへんそうである。

1914年に建てられた張氏帥府は、広大な伝統的四合院と、大青樓[写真12]などの西洋建築から成っている。張學良が100歳になったのを記念して[注6]“張學良将軍業績展”が開催されており、かなり混雑している。ツアーの様子を観察してみると、かなりじっくりと説明されており、客も真剣に聞いているように見受けられた。西安事件によって中國を救った張學良は、その後つい最近まで軟禁されていたという不運な境遇もあいまって、中國での評価も人気も高い。張作霖、張學良は日本史にも深い関わりをもち、その名も広く知られていると思うが、日本人観光客の姿は全く見当たらない。

夕食の時間まで東亞商業廣場で暇をつぶす。ただっ広くて閑散としたショッピング・センターである。J先生は日頃、私のパンダ好きを馬鹿にしているが、実はかなりのパンダ中毒である。うすうす気づいてはいたが、今日そのことがはっきりした。エスカレータに乗っていると、J先生が「(下の階に)パンダがいた!」と言う。わざわざもう一度下りてみた。ところがそれはただのサッカーボールだったのだ。重症である。

老邊餃子館で夕食。まだ決めないうちに注文を取りに来たので、メニューを見て考えていると、わからないと解釈したらしくて片言の日本語を話す店員を出してきた。こちらは中国語が片言、向こうは日本語が片言なので、立場が入れ替わるだけで、中国語でも日本語でも伝わる内容の程度は同じである。こういう場合、こちらが中国語を話すほうが絶対にいい。乏しい語学力でも言いたいことを伝えようとするほうが、相手のレベルに合わせて話すよりも簡単である。それに、プラスαの技能を見せた側が相手よりも優位に立てる。

苦労して「最低単位は12個」というのを聞き出し、老邊餃子、猪肉餃子、セロリの炒め物、恒大[口卑]酒[写真13]を頼む(49元=660.5円)。店員が‘青島[口卑]酒’と呼ぶものを注文したのだが、瓶のデザインがCoronaそっくりの、「青島で作っている[口卑]酒」だった。

バス(2元=27円)で中山廣場に戻る。広場は昨夜にも増してすごい賑わいで、おばさんたちが揃いのTシャツを着て踊っていた[写真14]。ホテルに帰ってフロントで尋ねたが、予想通り旅行社からの連絡はなかった。

遼寧賓館・階段 2
瀋陽站 3
旧・満鉄奉天共同事務所 4
旧・奉天ヤマトホテル 5
中山廣場 6
燒麥 7
茄子料理 8
中街 9
旧・吉順絲房 10
張氏帥府 11
大青樓 12
恒大[口卑]酒 13
中山廣場 14

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[1] 後金
1644年に関内に進出して北京に遷都し、清となる。
[2] 瀋陽/奉天
瀋陽は日本では奉天と呼ばれていたが、この名が中國側でどの程度使われていたのかについては、明記した文献が見つからないためよくわからない。
[3] 中華バロック
中国人の設計・施工による洋風建築。西洋建築の見た目を真似て造ったもので、細部には中華風の意匠が見られる。
[4] 満鉄奉天公所
1924年に改築されており、漱石が見たものとはかなり異なると思われる。
[5] 張學良舊居陳列館
2002年7月から張氏帥府博物館となり、展示内容も変わったらしい。
[6] 張學良の年齢
1901年6月4日生まれなので、このとき満99歳。100歳というのは数え年だと思われる。残念ながら、この後の2001年10月15日に100歳で亡くなった。


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作成日:2002年12月26日(木)
更新日:2003年2月23日(日)