満鉄公所
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■夏目漱石:『満韓ところどころ』(「夏目漱石全集7」[B266]
奉天へ行ったら満鉄公所に泊るがいいと、立つ前に是公が教えてくれた。満鉄公所には俳人肋骨がいるはずだから、世話になっても構わないくらいのずるい腹は無論あったのだが、橋本がいっしょなので、多少遠慮した方が紳士だろうという事に相談がいつか一決してしまった。停車場ステーションには宿屋の馬車が迎えに来ていた。……(《四十五》p544)
このほかにこの門から得た経験は、暗い穴倉のなかで、車に突き当りはしまいかと云う心配と、煉瓦に封じ込められた塵埃を一度に頭から浴びると云う苦痛だけであった。余の車屋はこの暗い門の下を潜って、城内の満鉄公所まで、悪辣無双に引いて行った。余は生きた風呂敷包のごとく車の上で浮沈した。(《四十六》pp548-549)
……のみならず満鉄公所へ御馳走を受けに行けば、三鞭シャンパンが現れる。領事館へ挨拶に行けば、英吉利イギリスの王様の写真などが恭々しく飾ってあって、まるで倫敦ロンドンのような気持になる。そうかと思うと、宿の座敷の廊下の向うが白壁で、高い窓から光線が横に這入って来るのは仕方がないが、その窓に嵌めてある障子は、北斎の画いた絵入の三国志に出てくるような唐めいたものである。……(《四十七》pp550-551)
黒い柱が二本立っている。扉も黒く塗ってある。鋲は飯茶碗を伏せたように大きく見える。支那町の真中にこんな大名屋敷に似た門があろうとは思いがけなかった。門を這入るとまた門がある。これは支那流にできていた。それを通り越すと幅一間ほどの三和土が真直に正面まで通っている。もっとも左右共に家続きであるから、四角な箱の中をがらん胴にして、その屋根のない真中を、三和土を辿って突き当る訳になる。肋骨君の説明を聞いて知ったのだが、この突当りが正房で、左右が廂房である。肋骨君はこの正房の一棟に純粋の日本間さえ設けている。ちょっと見たまえと云って案内するから、後に跟いて行くと、思わざる所に玄関があって、次の間が見えて、その奥の座敷には立派な掛物がかかっていた。かと思うと左の廂房の扉を開いてここが支那流の応接間だと云う。なるほど紫檀の椅子ばかり並んでいる。もっとも西洋の客間と違って室の真中は塞いでいない。周囲に行儀よく据えつけてある。これじゃ客が来ても向い合って坐る事はできない訳だから、みんな隣同志で話をする男ばかりでなければならない。中にも正面の二脚は、玉座とも云うべきほどに手数の込んだもので、上に赤い角枕が一つずつ乗せてあった、支那人てえものは呑気なものでね、こうして倚っかかって談判をするんですと肋骨君が教えてくれた。肋骨君は支那通だけあって、支那の事は何でも心得ている。あるとき余に向って、辮髪まで弁護したくらいである。肋骨君の説によると、ああ云うぶくぶくの着物を着て、派出な色の背中へ細い髪を長く垂らしたところは、振え付きたくなるほど好いんだそうだから仕方がない。実際肋骨君が振え付きたくなると云う言葉を使ったには驚いた。今でもこの言葉を考え出しては驚いている。いっぺん汚ない爺さんが泥鰌のような奴をあたじけなく頸筋へ垂らしていたのを見て、ひどく興を覚したせいだろう。
これほどの肋骨君も正房の応接間は西洋流で我慢している。その隣の食堂では西洋料理を御馳走した。それから襯衣シャツ一枚で玉を突く。その様子はけっして支那じゃない。万事橋本から聞いたより倍以上活溌にできているところをもって見ると、振え付きたいは少々言い過ぎたのかも知れない。肋骨君は戦争で右か左かどっちかの足を失くした。ところがそれがどっちだか分らないくらい、自由自在に起ったり坐ったりする。そうして軍人に似合わないような東京弁を使う。どこで生れたか聞いて見たら、神田だと云った。神田じゃそのはずである。要するに肋骨君は支那好であると同時に、もっとも支那に縁の遠い性質の人である。
室は空いてるから来たまえとしきりに云ってくれるので、じゃ帰りに厄介になるかも知れないと云うとすぐ宜しいと快諾したところだけは旨かったが、帰りには夜半の汽車で奉天へ着く時間割だと橋本から聞くや否や、肋骨君はたちまち宿泊を断った。いや、あの汽車じゃ御免だと云う。もう一つの汽車が好いじゃないかと勧めるんだが、プログラムの全権があいにくこっちにないので、やむをえず、そんなら、もし夜半の汽車でなかったら泊めて貰おうと云う条件をつけた。すると肋骨君はまた宜しいと答えた。ところが帰りにはやっぱり予定通夜半着の汽車へ乗ったのでとうとう満鉄公所へは泊まれない事になった。満鉄公所で余の知らない所は寝室だけである。(《四十八》pp551-553)