滿洲超特急
2000年8月14日(星期一)
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8月14日、月曜日。大連。晴れ。 大連賓館[写真1]の宿泊は朝食付きである。メニューはお粥。白粥に小皿のおかずがたくさん付く[写真2]。中華風スクランブル・エッグ、春雨、もやし、胡瓜の漬物、魚…。花巻や油條、豆漿もある。品数の多いのが嬉しいし、なによりバイキングではないのがよい。 外は、昨夜の雨が嘘のような晴天である。午前中は、足の確保のための雑用が待ち受けている。まずは、明日の瀋陽行きの切符を買うため、大連站[da4 lian2 zhan4]へ向かう。途中の天津街[tian1 jin1 jie1]は、かつて大連一の繁華街、浪速町だったところで、今も商店街として賑わっている。 大連站[写真3]前は工事中。駅舎も建て替えられるという話だが、駅舎自体の工事はまだ行われていない。切符売り場は一箇所で、長蛇の列だ。公安がいるせいかマナーは意外によいが、行列は進まない。夜行や長距離だと思うが、希望の切符がとれずねばっている人が多い。時おりダフ屋らしき人が行列の間を回っているが、公安も何も言わないし、買う人もいない。買い終わった人が切符を手に行列の間を抜けてくると、両側の人が遠慮もなしに切符を覗き込んでいる。1時間近く待つと順番がきた。大連始発の列車を選んだためか、席は簡単にとれ、割り込みもなくて少し物足りない。軟座を奮発して87元(=1172.8円)。 次は、民航大廈にある中國國際航空へ行く。途中、大連電視塔や、微笑みかける[登β]小平が見えた[写真4]。帰りの便のリコンファームをした後、大連中國國際旅行社へ。哈爾濱から大連へ戻る寝台の切符を頼むのが目的である。今回の旅行は、大連のほか瀋陽、長春、哈爾濱を訪れる予定で、鉄道での移動が希望だが、切符の手配は全くしてこなかった。切符は乗る駅でしか買えないが、大連→瀋陽、瀋陽→長春、長春→哈爾濱は比較的短距離で、始発列車もあるので自力でとれると思っている。問題なのは、最後の哈爾濱→大連で、この区間は夜行しかない。夜行列車は人気が高く、哈爾濱到着時にはすでに売り切れていると予想される。そこで、中國國際旅行社の大連の支店で手配を頼み、哈爾濱の支店で受け取るという方法を考えたわけである。 日本部へ行き、相談してみる。今からでは無理かもしれないということだが、哈爾濱の支店に連絡してもらい、今後は哈爾濱とやり取りすることになった。考えてみれば、日本から哈爾濱の旅行社にFAXで頼めばよかったのだが、その知恵はまだなかったのである。途中、「旅順に行きたい」という男子大学生(推測)二人が「地球の歩き方」を手にやってきた。 雑用が終わり、喉の渇きを潤す。コンヴィニエンス・ストアは見かけないが、いたるところに路上のキオスクがある。後ろの壁には、常温の缶ジュース類がずらりと並ぶ。「有没有冰的?」と訊ね、冷えた可口可樂コカ・コーラを無事に入手した(3元=40.4円)。ふだんは可樂など飲まないのだが、旅行中は必ず1、2度飲んでしまう。「ビールには早すぎるね」という時の代用物である。 古い住宅が建ち並ぶかつての伏見台を、電気公園の跡地へ向かう。通りの木立が涼しい影をつくり、街歩きが楽しい[写真5]。旧・満鉄中央試験所や旧・大連第一中学校[写真6]などの学校の建物も残っており、いずれも学校として使われている。 電気公園は、1909年に開園した遊園地である。メリーゴーラウンドと夜間のイルミネーションが目玉で、「内地にも無いもの」というのだから日本の遊園地のはしりだろう。「電気公園」という名称[注1]は、満鉄が豊富な電力の供給を誇示するためにつけたもののようだが、いま聞くとレトロな響きがなかなかよい。「電気館」や「電気ブラン」を連想するせいかもしれない。 夏目漱石が大連を訪れたのは1909年で、開園直前の電気公園を馬車から見ている。9月7日の日記には、ひと言「電気公園。」とあり[B344]、電気公園をめぐる満鉄総裁との会話を『満韓ところどころ』[B266]に書いている。よほど気に入ったのか、「彼岸過迄」[B519]でも、姿を消した男に大連で「電気公園の娯楽係り」をさせている。 電気公園は戦後は動物園になったらしいが、それも移転して大連森林動物園となった。跡地は再開発などされずに残っていて、家具の市場のようなものができていた。 続いて旧・連鎖街へ行く[写真7]。連鎖街というのは、大連駅の移転新築を見越して1930年に作られた商店街である。もはや当時のような先端的ショッピング・モールではないが、私好みの建物が残る[写真8]。このあたりには屋台が建ち並び、中国パワーを感じる活気ある場所となっている。 通りすがりの馬家餃子館という店で昼食にする。おばさんの中国語が理解できずに怒られ、こちらの中国語が通じずにまた怒られ、やっとのことで注文をする。牛肉餃子と小菜と大連干[口卑]で18元(=242.6円)。餃子は8個で2元という安さ。 午後は大連森林動物園[da4 lian2 sen1 lin2 dong4 wu4 yuan2]へ行く予定だ。中國といえば熊猫パンダである。「パンダを見ずして中國へ行ったとはいえない」としゃおがん小姐も書いている。今回の旅行では、3つの動物園のパンダ情報を得ているが、最も確からしいのが大連森林動物園である。先施百貨の前から525路の小巴に乗り(2元=26.9円)、郊外にある動物園へ向かう。小巴はトンネルを抜け、高層アパートの建ち並ぶ、いかにも郊外っぽい場所に着く。 動物園は滅法広く、入場料が40元(=539.2円)もする。片道10元(=134.8円)とこれまた高いモノレールに乗って終点まで行くと、やっとそこから動物園が始まる。森林動物園というだけあって木が多く、のんびり歩きながら動物を眺めると楽しそうだ。しかし私たちはひたすらパンダを目指す。幸運にも、パンダはそれほど遠くないところにいた。近くにはレッサーパンダ[写真9]もいる。 屋外でパンダを見られるのがここの売りだが、さすがに真夏は室内にいた[写真10]。1匹だけだが、ぐるぐる動きまわったり、一心不乱に笹を食べたり、全然たれていない。中国でもたれぱんだがのさばってきたので、差別化をはかるためにイメージ・チェンジしたのかもしれないが、上海動物園のパンダとは大違いである。態度の違いは待遇の違いにあるようで、ほどよく空調が効いていそうな立派なパンダ舎である。大切にされているから、毛並みも白くて美しい。上海のパンダは、労働組合か居民委員会に提訴すべきである。 再び小巴で街に戻り、かつて南山麓と呼ばれた住宅地に行く。日本人の住宅や満鉄の社宅が集まっていたところである。日本人が植民地に必ず作っていた神社や本願寺もこのあたりで、東本願寺が今も残り、京劇の劇場になっている。坂道に古い住宅が並び[写真11]、散歩するにはよいところだが、あちこちで工事が行われている[写真12]。どうやら古い住宅を改装して‘日式風情街’をつくるようだ。日本人が建てたものであっても、ここにあるのは西洋建築ばかりで、‘日式’はちょっと違うと思う。 ホテルへ戻る途中、路面電車をたくさん見かける[写真13]。路面電車も1909年の開通だが、なくなって久しい電気公園とは違い、いまも現役で市民の足である。レトロな色合いの電車もあり、派手な広告をつけたものもある。路面電車の走る風景は心をなごませる。 夕食は大連賓館の食堂。今回の「ヤマトホテル宿泊企画」は、「食堂で夕食を食べる」ことも目的のひとつである。一流ホテルだからと、短パンをふつうのパンツに履き替えて行くが、まわりの客を見るかぎり、Tシャツ、短パンでも問題ない。東北料理を食べてみたいと思いつつも、ついつい目は四川料理のメニューへ。水煮牛肉、炒青菜、棒[木垂]島[口卑]酒などで97元(=1307.5円)。 | |
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- [1] 電気公園の名称
- 「電気遊園」となっている文献もある。
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