流浪到風櫃
1997年4月28日(星期一)
冬冬が乗る列車
4月28日、月曜日。台北。晴れ。
YMCAをチェックアウト。料金は、シングルがNT$1650(¥7805)、ツインがNT$1870(¥8845)(サーヴィス料込)。海外での1泊の料金として、私が一応の上限としているのが¥3000/人なので、ふたりで泊まってもちょっと高い。しかし、宿泊費が高い台北ではリーズナブルなホテルだと思う。なんといってもロケーションがいいし、これといった問題もなく、従業員の感じも悪くない。
これからしばらく台北を離れ、南へ向かう。今日は、まず列車で苗栗に行き、バスで大湖と銅鑼を訪ね、再び列車で嘉義まで南下するというスケジュールだ。
8時25分の西部幹線山線の列車、莒光41次で苗栗へ向かう。以前も書いたように、西部幹線山線は“冬冬的假期”で冬冬が乗る路線である。冬冬と妹の婷婷(李淑楨)は、叔父さんの昌民(陳博正)とそのガールフレンドの碧雲(林秀玲)と一緒に銅鑼へ向かう。その列車は銅鑼に停車するので、復興號だと思われる。列車の種類が違うせいか、10年以上も経っているせいか、車内のデザインは異なる。西部幹線の列車で南下するシーンは、“海ほおずき”[C1995-23]にもある。
台北車站へ行く途中、先日も行った店で蛋餅と馬拉糕を買って来たので、列車の中で食べる。残念ながら馬拉糕はおいしくなかった。牛乳の代わりに豆乳が入っているらしく匂いが気になるし、馬拉糕独特の風味がない。
叔父さんが乗り遅れる駅
10時19分、苗栗(苗栗縣苗栗市)着。苗栗車站も“冬冬的假期”に出てくる場所だ。苗栗で降りる碧雲を改札口まで送って行った叔父さんは、列車に乗り遅れてしまう。このとき、プラットフォームや地下通路の入口、改札口などが映る。
今日はプラットフォームに警官がいて、降りた客を誘導している。急いで地下通路の入口を撮ろうとしたが、警官に止められ、諦めて改札を出る。これまでプラットフォームで警官など見かけたことはないし、写真を撮っても何も言われたことはない。いったいどうしたのだろうか。
荷物を預ける -なまり体験その2-
苗栗は目的地ではなく、バスで大湖や銅鑼に行くための中継地点である。そこで、まず荷物を預けて身軽になることにする。自強號も時々停まる大きな駅なので、手荷物預かり所くらいありそうなものだが見つからない。駅舎内をうろついているさっきの警官に尋ねると、駅舎の端のほうにある部屋へ案内してくれた。
ここは、列車で送られる荷物を取り扱うところらしい。警官が駅員さんに事情を話すと、預かってくれるらしく書類を書き始めた。なんだかみんなのんびりしていて、警官の説明も長いし、書類を書くのにも時間がかかる。私たちは、「荷物を預けたい」「これから大湖へ行ってまた戻ってくる」「貴重品は入っていない」程度しか話していないのに、何を長々と説明しているのだろうか。
駅員さんが書類を書いている間、警官と話をする。最初の印象はよくなかったが、彼は人当たりのよい、親切な青年だった。しかし北京語での会話は思うように進まない。私たちの北京語のレヴェルにももちろん問題はあるが、彼の台灣なまりがひどく、ほとんど聞き取れないのだ。すでに何日か台灣にいて慣れている私はまだマシだったが、昨夜来たばかりのJ先生は呆然としている。
そのうち、田舎の菅原文太といった風情のおじさんが、バイクで派手に帰ってきた。このおじさんの方が偉いらしく、書類作成を交代。交代する前にまた長々と事情を説明している。駅の隣に新しいホテルができ、オープニングのお祭りをやっていた。爆竹が派手に鳴り響き、煙もうもうの中を獅子舞が踊っていて、非常に賑やかだ。3年前に来たときには、汚い大旅社が数軒しかなく、そこのこわいおばさんに宿泊を断られた苦い思い出がある。いろいろなことが変わっていくらしい。 20分くらいかかって、やっと手続きが終わる。料金はNT$17(¥80)/個。
台灣なまりとは何か
台灣(中華民國)も大陸(中華人民共和國)も、同じ北京語(普通話/華語)が公用語である。しかし、台灣での一般的な発音は、大陸の標準語とは少し異なる。この「台灣の北京語の発音の、大陸の標準とは違う部分」を私は「台灣なまり」と呼んでいる。「なまり」という言葉にはいくぶん侮蔑的な響きがあり、ちょっと失礼な言い方だし、背後に「北京のものが正統」という意識があるように感じられるかもしれない。しかし、私が「なまり」と言うのは、純粋に美しさの観点から「北京式のほうが美しい」と思うからだ。正統かどうかを議論するつもりは全くないし、背後にある国家やイデオロギーを持ち出すつもりもない。
ここで「台灣なまり」と呼んでいる発音上の特徴は、大陸の南部でもみられるもので、大陸内で考えれば「なまり」と言っていいと思う。また、これらの特徴は、彼らの母語である台灣語、福建語、廣東語などの発音の影響によるものなので、その点から言っても「なまり」と呼ぶのはそう間違ってはいないのではないだろうか。大陸との違いは発音だけではなく語彙や語の用法にもあり、両方をひっくるめて台灣華語などとも呼ばれている。また、大陸南部や東南アジアでも使われていることを考えると、「南方なまり」と言ったほうがより正確かもしれない。しかしここでは発音だけを問題にしているし、これは台灣旅行記なので、やはりここでは「台灣なまり」という語を用いたい。
台灣なまりの特徴
台灣なまりの最大の特徴は、そり舌音がないことである。そり舌音というのは、拼音(pinyin)[注1]で[zh][ch][sh][r]と表記する音で、舌先を口の上側につけて出す摩擦音である。台灣なまりでは、[zh][ch][sh]はそれぞれ[z][c][s]と同じ音に、[r]も北京式とは異なる[z]に近いような音になる。 ほかには、説明は省略するが、語尾の儿アル化がないことと軽声が少ないことがある。ただしこれらは、美しさにはさほど関与していないと思う。
私は、台灣なまりを話すことを「すーすー言う」と呼んでいる。というのは、‘すー’という音の割合が非常に多く感じられるからである。日本語の母音で近似すると、[zi][ci][si]という発音も[zu][cu][su]という発音も「う行」になるが、これに[zhi][chi][shi]が加わることで「う行」の音が非常に多くなる。さらに、北京語で最もよく使われる語のひとつに、‘是[shi4]’という、Be動詞や「はい」という肯定の返事を表すものがある。これが、北京式では巻き舌の‘しー’のような音になるのに対して、台灣なまりでは‘すー’となることから、‘すー’という音の頻度は極端に大きくなる。
台灣なまりへの愛と憎しみ
北京語はフランス語と並び、最も美しい言語のひとつだと思う。私の北京語への興味は、音楽と分かちがたく結びついている。マンダリン・ポップスの魅力は、なによりその言葉の響きの美しさにある。その北京語の美しさを構成するもののひとつがそり舌音だ。「すーすー言う」台灣なまりは、残念ながらあまり美しいとはいえない。
私が初めて台灣なまり(この場合は南方なまりであるが)を強烈に体験したのは、私が通っている広東語教室においてだった。私が習っているのは広東語だが、同じクラスには北京語の生徒もいて[注2]、同じ香港人の先生が教えている。ある日先生が、‘這是什麼(これは何ですか)?’[zhe4 shi4 shen2 me]という文を、‘つーすーせんもー’と読むのを聞いて、卒倒しそうになった。絶対にここで北京語は習わないと決めたが、ここで毎週南方なまりを聞かされていることが、私の台灣での会話の助けになっていることもまた事実だ。
私の台灣なまりに対する感情はアンビヴァレントなものである。最初はただ汚い音だと思っていたが、最近では「使いたくはないが、これはこれでなかなか味のあるもの」と思うようになった。そのうち憎しみがすべて愛に変わって、私も「すーすー言う」ようになるかもしれないと思うとちょっと怖い。
大湖へ -ドラえもんとの再会-
駅前のバスターミナルで大湖までの切符を買い(NT$48=¥227)、バスを待っていると、最初に書類を書いてくれた駅員さんがバイクでやってきた。わざわざバイクを止めて切符売場を教えてくれる。すでに買った切符を見せると、今度はバスを探してくれて、「バスはまだ来てないみたいだね」と言う。そこにちょうどバスがやって来る。おじさんは嬉しそうにバスを指さしたが、おじさんのバイクが邪魔なので、バスは非情にもクラクションを鳴らし始めた。おじさんは急いで、しかし笑顔をたやさず去って行った。結果だけをみれば、私たちはおじさんの助けを必要としていなかったわけだが、こういう心遣いは本当に嬉しい。
バスの値段には、冷房車価格と冷房なし価格がある。NT$48は冷房車価格だが、やってきたバスに冷房は入っていなかった。冷房車というのは、「冷房が入っている車」ではなく、「冷房設備がついている車」を指すらしい。
バスは、苗栗の街を抜けるとすぐ山の中へ入る。二度めなのでわかってはいるが、やはり不安になる。そのうち突然どこかの町に出て、ほとんどの乗客は降りてしまった。その町を過ぎると、営業していない苺売りの屋台がたくさんあり、それらの前にいたのは、3年前に見たドラえもんだった。
呉素梅が帰って行く道
大湖(苗栗縣大湖郷)に到着。ここは、“童年往事”が撮影された町である。バスが着いたのは、呉素梅(辛樹芬)がバスから降りてくる青いバスターミナルだ。
すぐ近くの、中正路に面した食堂で昼食を食べる。牛肉麺、水晶餃、台灣啤酒などでNT$120(¥568)。ひとりの間は我慢してきたが、昼食時に飲む啤酒はとてもおいしい。
バスターミナル付近は、阿孝(游安順)の高校時代に登場する。バスで学校から帰ってくる呉素梅を待ちぶせするシーンだ。自転車にまたがった阿孝がつかまっていた店の日除けの支え棒はもうなかったが、ターミナル脇の大きな木は変わらずにあり、真夏のような陽射しの中に、涼しげな影をつくっている。60年代と思われる映画の中では、バスから降りてくる客を待つらしい人力車が列を作っていたが、もちろん実際にはいない。
ターミナル脇の路地を右折する呉素梅を、阿孝は自転車でゆっくりとつけて行く。映画の中で見えていた‘永安接骨所’は、看板の色を赤から黒に変えているものの健在である。このあたりの風景は、映画の中とほとんど変わっていない。
碧雲が働くビリヤード場
大湖は、“冬冬的假期”が撮影された町でもある。3年前にも訪れたビリヤード場と叔父さんの家を見に行く。
ビリヤード場は碧雲が働いていたところで、冬冬が叔父さんに連れられて遊びに行くシーンがある。映画では、ドアや窓ごしに薪が積まれた路地が見えていたので、脇の路地を入ってみる。少し改装されたらしく、ドアはなくなり、路地の風景も変わっていた。
このビリヤード場は、“童年往事”にも鳳山軍人之友社として出てくる。阿孝たちが、副総統の葬儀の日にここで遊んでいて、軍人ともめるシーンだ。今日は平日だというのに、ここでは制服姿の高校生たちが遊んでいる。まるで映画の中の阿孝たちのようだが、最近の高校生はもっとおしゃれだ。たくさんたむろしていて怖いので中を覗けず、映画のシーンとうまく照合させることができなかった。
老街の叔父さんの家
“冬冬的假期”
叔父さんの家は、相変わらず道の下にけなげに建っている。屋根の上には、たくさんの魚がきれいに並べて干されている。映画では、この集落の向こうに一面の田園地帯が広がっていた。叔父さんが匿っていた強盗を見て冬冬が逃げ出すシーンでは、田んぼの畦道を強盗たちが追いかけていた。今では家などが建ってしまい、田園風景を見ることはできない。
阿孝の家
“童年往事” “悲情城市”
“童年往事”の阿孝の家・高雄縣政府宿舎の内部が撮影された旧電信電話局へ行く。ここは、鳳山軍人之友社の外観や“悲情城市”の小上海酒家でもある。
前回訪れたとき、すでに廃屋になり、工事用の鉄板の塀で囲まれていた。今回はもうないだろうと思っていたが、意外にもまだあった。あれから誰もかまっていない様子で、なかば崩れて草木は伸び放題、すっかり廃墟と化している。置かれているのか捨てられているのか、塀の外に籐椅子がひとつある。映画に出てくるものではないが、阿孝の家の中の様子を思い出させ、涙を誘う。台灣では、建物が放置されたまま何年も経てば、たいてい鬼[注3]が宿るというが、ここもそうなのだろうか。隣にあった幼稚園もなくなり、空き地になっていた。
この家は“童年往事”の魅力のひとつであり、観るたびにこんな家に住みたいと思う。日本家屋であるが、私にとっては、台灣の家と聞いて思い浮かぶのはこの家だ。竹の家具や庭の草木に加えて、フィルムに見事に写しとられている暖かな台灣の空気、台灣の光が、日本の家とは違う台灣の家をつくり出している。思い入れのあるこの家が、こうして崩れていくのを見るのは切ない。
ドラえもんの正体
バスターミナルに戻る途中にあった大きな廟の前で、偶然ドラえもんに会う。ドラえもんは片手を挙げて、「やぁ」と挨拶してくれた。私も「やぁ」と挨拶する。
やはりこれはゴミ箱だった。口からゴミを入れるようになっている。身長約90cm、リュックをしょっていたりしてなかなかキュートだが、頭が鳩の糞で汚れていたりもする。走るバスの中からはちらっとしか見えなかったが、思いがけなく対面することができた。
同じドラえもんがあちこちにいることを考えると、地方自治体が設置しているのだと思う。著作権的に違法なものだとは思うが、なかなか趣味のいい自治体である。幼稚園や小学校に設置すると、「ゴミはゴミ箱に捨てましょう」という教育にいいのではないだろうか。
三年後の大湖
3年ぶりに再会した大湖の町は、あまり変わっていなかった。初めてここに来たとき、旧電信電話局がどこにあるのかわからず、ひたすら歩いて探したことを思い出し、いろんな風景がとても懐かしい。
今日の大湖は快晴で、映画の風景よりもコントラストが強い。暑い陽射しが照りつけ、路上に濃い影を落としている。それでも、映画から14年の年月を経てなお、この町は“童年往事”の中の架空の町の雰囲気を色濃く感じさせる。この先もここは、架空の鳳山であり続けるのだろうか。旧電信電話局の鬼のゆくえも気になるし、またドラえもんに会いに来よう。
予期せぬ出来事
1時過ぎのバスで苗栗へ戻る。次の目的地は銅鑼だ。鉄道でも行けるが、本数の都合上バスを利用することにして時刻表を見ると、ちょうどもうすぐ出るバスがある。しかし、切符売場に係員はいないし、バスも来ていない。しばらくしてバスが1台到着し、降りてきた運転手さんが切符売り場に来たが、切符を買おうとしたら追い払われた。ベンチで待っていた客3人は、しばらく運転手さんと言い争っていたが、皆諦めた様子でくつろぎ始めた。事情は全くわからないが、しばらくバスは出そうにない。新たにバスが到着すると、降りてくる人々は皆一様に駅舎に向かって走って行く。朝荷物を預けた部屋のシャッターが閉まり、バスも来なくなった。列車だけは動いている。
何か普通ではない事態が進行しており、すべての活動が停止している。誘拐事件の捜査と関係があるのだろうかとも思うが、何が起こっているのか想像がつかない。2時半まで待っても状況が変わらないので、駅舎へ行ってみることにした。駅舎の前には警官が数人、いかめしい顔で並んでいる。今朝の警官もいたが、厳しい顔をくずさない。ゆっくり歩いていたら走るように言われ、プラットフォームに誘導される。プラットフォームに入って、一瞬目を見張った。多くの人が、捕虜のように腕を頭の後ろで組んでしゃがんでいるように見えたのだ。しかしもちろんそんなことはなく、彼らはただしゃがんでいただけだった。地下通路まで降りると、警官はおらず立っていてもよかったので少し楽だった。
トイレにも行きたいし、食べ物も持っていない。Batang Melakaの夜を思い出し、不安がつのる。反対側のホームに列車が着き、乗客が降りてきたが、彼らも外には出られない。いつまで続くのかと思ったが、3時になるとサイレンを合図にこの事態は終わった。そういえば、2時ごろにもサイレンが鳴ったような気がする。
嘉義へ
1時間以上無駄にしてしまったため、予定を変更する。銅鑼は3年ぶりだし行きたかったが、またこんなことがないとも限らず、いつまでも荷物を預けておけないこと、今夜の宿を予約していないことから、泣く泣く諦める。改札が開くのを待って駅の掲示物を眺めていると、「非常時の避難場所」の地図が目に入った。さっきの地下通路である。ということは、軍事演習だったのだろうか。掲示物には指名手配写真もあったが、今度の誘拐犯のものはまだ貼られていなかった。
3時22分発の復興113次で嘉義へ向かう(NT$227=¥1074)。台灣の地名には、日本の地名や人名と同じものがたくさんある。おそらく、日本統治時代に日本人がつけたのだろう。嘉義に向かう途中には‘田中’という駅があった。小さな駅だが、待ち合わせでしばらく停車した。ホームの柱にある‘田中’と書かれたプレートをよく見ると、日本人観光客の落書きなのか、横に「たなか」と書いてあった。
6時ごろ嘉義(嘉義市)に到着。嘉義市は北回帰線の通る街で、有名な観光地・阿里山への玄関口でもある。駅を出ると客引きに囲まれると聞いていたので、気合いを入れて出て行ったが、客引きなどいなくて少し気が抜ける。
白宮大飯店
駅前の新しくて綺麗そうなホテルを素通りし、隣の白宮大飯店へ行く。ロビーは薄暗く、ちょいと怪しげな雰囲気。英語も日本語も通じないし、クレジット・カードも使えないが、フロントのおじさんは親切そうな人だ。一泊NT$640(¥3027)で、前金で払わされる。部屋はかなり狭く、テレヴィはあるが冷蔵庫はない。目の届かないところには埃が積もっていたりもするが、安いし、一泊だから許すことにする。このホテルの英語名は‘Whitehouse Hotel’というらしい。「おいおい」という感じである。
鶏飯と夜市
嘉義は鶏飯が名物で、中でも有名だという噴水鶏飯に夕食を食べに行く。鶏飯のほか、炒青菜、苦瓜湯を注文してNT$150(¥710)。
鶏飯ときいて海南鶏飯のようなものを期待していたが、全く違うものだった。ご飯の上に細切りの鶏が載っていて、すき焼きのような醤油味である。真っ黄色のたくあんも載っている。おいしいけれどあまりにも刺激のない味だ。普通はテーブルの上に必ずある豆板醤も、この店にはない。炒青菜を頼んだのにレタスの炒め物が来たのにもアタマにきたが、苦瓜湯はとてもおいしかった。苦瓜の料理は沖縄へ行かなければ食べられないと思い込んでいたが、地理的に近い台灣は沖縄との共通点も多いようだ。
これまた嘉義の名物だという文化路の夜市に行く。予想したより規模が小さく、少しがっかりした。歩行者天国ではなく、車は駄目だがバイクは通ってよい。気が抜けないが、夜市の喧噪とバイクの騒音が一体となっているさまは、いかにも台灣らしい光景である。果物屋でマンゴスチンを買う(NT$90=¥426/4個)。食べるのは初めてだが、さすがにフルーツの女王だけあっておいしい。上品な味である。
跑江湖
帰り道、天后宮で媽祖の誕生日のお祭りをやっていた。廟の前には舞台ができていて、おばさんとミニスカートのおねえさんが、台灣語でかけあい漫才みたいなのをやっている。舞台の前は、バイク版ドライブインシアターという感じで、皆バイクにまたがったまま見物している。バイク以外の人がそのまわりを取り巻いているが、見物人の数は多くない。そのうち、ミニスカートのおねえさんが台灣語演歌を唄い出すと、あまりのひどさに帰る客が続出した。近くには布袋戯の舞台も出ていた。誰も観ていなくて気の毒なので少し観てみたが、筋が全くわからない。柳町光男の『旅するパオジャンフー』[C1995-18]というドキュメンタリー映画で、芸を見せた後に薬などを売る、跑江湖パオジャンフーと呼ばれる旅芸人が紹介されていた。彼らも跑江湖なのだろうか。
帰り道の路上では、これから火をつけるらしい、山と積まれた爆竹を見た。
誘拐事件のゆくえ
白宮大飯店のテレヴィは地上波のみだったが、帰ると特別ニュース番組をやっていた。誘拐された白曉燕さんが死体で発見され、事件は最悪の結末となったようだ。やはり現実は“熱帯魚”のようにはいかないのだと思い、暗い気持ちになる。死体発見現場らしき場所の様子と、繰り返し流される、遺体の確認に来た白冰冰さんの映像からそれが推測されるのみで、あいかわらず文字による説明はない。
お風呂は戦場だ
お風呂にはシャワーカーテンもバスマットもなかった。シャワーからお湯が出る角度が極端に広く、バスルーム中に飛び散る。安いから仕方がないと思っていたが、今度はシャワーヘッドがホースから抜けてしまった。抜けないように支えていると、もうお湯が飛び散ることなどにはかまっていられない。
ハプニングの多かった一日の最後を飾るにふさわしく、お風呂は戦場だった。
- [1] 拼音
- 中華人民共和国で制定され、使用されている北京語発音のアルファベット表記。
- [2] 北京語の授業
- ここで教えられているのは、台灣華語ではなく、拼音と簡体字を使った大陸標準の普通話である。
- [3] 鬼
- 日本の幽霊に近いが、少しニュアンスが違うようだ。
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