流浪到風櫃

1997年4月29日(星期ニ)


タクシーの客引き

4月29日火曜日。嘉義。快晴。北回帰線の近くだけあって朝から暑い。

今日は、まず、嘉義近郊の竹崎(嘉義縣竹崎郷)という町を訪ね、その後、布袋という港からフェリーで澎湖島へ渡る予定である。近くの小さな食堂で朝食を食べた後、ホテルをチェックアウトして荷物を預ける。竹崎は、“童年往事”のロケ地のひとつだ。阿里山への途中にあり、阿里山森林鐵路が通っている。しかし一日一往復程度しかないので、便数の多いバスを使うことにする。

駅前のバスターミナルには、タクシーの客引きがたくさんいる。彼らの標的は、阿里山へ行く観光客だ。「阿里山?」と言いながら近づいてきて、無視しても言い続け、やっとかわしたと思うと別のがやってくる。バスターミナルにいる限り、彼らからは逃れられない。そこで、「阿里山には行かないよ、竹崎に行く」と答える。すると、時刻表を見て次のバスを調べたり、バスが来ているかどうか探したりしてくれた。実はそんなことはすでに終えていたのだが、煩わしいと思っていた客引きのおじさんの意外な親切が嬉しく、爽やかな気持ちになる。

台灣では、外国人旅行者相手の犯罪やトラブルはあまり聞かない。多くの人が、「土地のことを知らない人が困らないように、いろいろ教えてあげるのは当たり前」と、ごく自然に考えているようにみえる。外国で親切にされるたびに「自分もこのようにありたい」と反省するのだが、日常生活に戻るとなかなか実行できないものだ。


竹崎の灯は遠く

切符売場は閉まっていたので、乗るときに行き先を言ってお金を払う(NT$30=¥142)。いつもは「とりあえず北京式に発音してみる」主義だが、‘竹[Zhu2]’はちょっと発音しにくい。そこで主義を捨てて台灣なまりでいくと、すぐに通じたのでちょっと気をよくしてしまった。こうして少しずつ洗脳され、私も「すーすー言う」人になってしまうのだろうか。ぼろぼろのバスは乗客も少なく、冷房車価格だったのに窓全開だ。

外国でバスに乗って困るのは、「目的地に着いたことをどうやって知るか」ということである。市内のバスは路線図や地図を見ていればある程度わかるし、少し遠いところだと目的地が終点であることが多い。しかし今回は終点ではなく、そのあたりの地理もバスのルートもわからない。嘉義の市街地を離れてしばらくすると、バスは竹崎郷に入ったので、最初に通った町で降りてしまった。ところが、目的地は‘竹崎郷竹崎’で、降りたところは‘竹崎郷灣橋’だった。近くの店のおばさんに聞くと、まだ歩けないほど遠いらしい。仕方なく炎天下で次のバスを待つ。

ほどなくやって来たバスは本物の冷房車で、長距離バスのように立派だ。満員で、運転手さんもきちんと制服を着てすましている。なんだか立派すぎて味気なく、さっきのぼろぼろのバスが懐かしい。広い道をかなり走って再び町に入った。地名を確認する手段としては、バス停の標識と通り沿いの家の住居表示が一般的である。しかしバス停は、しばしば名前が消えていたり、ポールのみだったり、あるいはポールさえもなかったりする。ここでもバス停の名前は読みとれなかったが、住居表示で竹崎であることを確かめて降りた。


ジャンクだけど美味しいもの

ここまでたどり着くのに予想外に疲れたので、仕事の前に泡沫紅茶屋でひと休みする。泡沫紅茶というのは凍奶茶アイス・ミルクティをシェイクしたものだ。泡沫紅茶屋は、泡沫紅茶などのジャンクな飲み物を飲ませるファースト・フード風の簡易な店で、香港の亀ゼリー屋みたいに台灣じゅうでよく見かける。

前から気になっていた珍珠奶茶を飲む(NT$25=¥118/杯)。これは、甘い凍奶茶に、ビー玉大の黒いタピオカが入ったもの。太いストローでタピオカを吸い上げながら飲む。定期的にタピオカを吸い上げないとお茶だけがなくなってしまうという、気力と体力を使う飲み物である。しかしこれはなかなかいける。


阿孝とおばあさんがかき氷を食べるところ

“童年往事”

[踏切]

媽祖のお祭りで賑わうメインストリートを抜け、町はずれの竹崎車站方面へ向かう。

“童年往事”には、阿孝がおばあさん(唐如韞)とかき氷を食べるシーンがある。おそらく阿孝が中学校に入学する前の夏休みだと思う。何度も出てくる、家の近くの小さな橋を渡って出かけて行くと、踏切のある道路が映り、それから踏切ぎわの小さな店で、ふたりがかき氷を食べているシーンになる。このシーンの途中、阿里山森林鐵路の線路のショットが挿入される。これだけのシーンがこの竹崎で撮影されている。

この映画には、快晴や強烈な陽射しのシーンはあまりない。その中にあって、このシーンには強い陽射しが照りつけていて、そこにはまぎれもなく夏休みの空気が漂っている。踏切のある通りはちょっとぐにゃっと曲がっていて、そこに商店があって、向かいに大きな木がある。真夏の昼下がりの一番暑い時間で、町はなかば眠っている。眠くなるような、少し澱んだ空気。このショットを見ると、「あぁ、この感じは知っている」と思う。この道路は拡張されてまっすぐになっていた。おそらくその工事の影響で、まわりの建物や木も、なくなったり変わったりしている。かき氷の店も、それらしき建物もなかった。しかし踏切の向こう側の、おばあさんの後ろにちょっと見えていた小屋はまだあった。映画の中よりも寂れて味気ない風景になり、人の気配も希薄だ。

このかき氷のシーンと、そのあとふたりが青石榴を取るシーンは、この映画の中でも特に好きなところだ。おばあさんと孫が一緒に散歩に出かけ、かき氷を食べ、青石榴を取り、それを投げて遊ぶ。幸福感溢れる光景だが、たぶんふたりの心には大きな隔たりがある。おばあさんの唯一の望みは、大陸へ帰ることだ。彼女はお気に入りの孫である阿孝に「一緒に大陸へ帰ろう」と言う。阿孝は「いやだよ」と素っ気なく答える。幼い頃台灣に来た阿孝には、大陸への郷愁はない。おそらく台灣が故郷だと思っている阿孝にとって、大陸は心情的にも観念的にも遠いところなのだろう。少しボケているおばあさんは、ちょっと歩けば大陸に帰れると思っていて、このかき氷屋で梅江橋の場所を尋ねる。梅江橋というのは、故郷である廣東省梅縣にある橋で、彼女の言葉は客家語だ。かき氷屋のおばあさんと孫娘は、もちろん梅江橋を知らないし、彼女らが話すのは台灣語である。

おばあさんの世代、お父さんやお母さんの世代、阿孝たちの世代。大陸から移住してきた人、前から台灣に住んでいる人……。それぞれがいろんな思いを抱えて生きている。彼らの思いをお互いに理解し、共有していくことは難しい。それはたぶん仕方のないことだ。仕方がないけれど、でもちょっと寂しくて、やるせない。幼い阿孝も、自分が共感できないおばあさんの心情について、無意識にそんなふうに感じていたのではないだろうか。だからこそ、最後のモノローグにあるように、今でも時々考えるのだ。「祖母の大陸へ帰る道は、一緒に青石榴を取ったあの道[注1]なのか」と。生きていくうえで、仕方がないけれど、やっぱりちょっと寂しいこと。そういうものがこの映画にはたくさん詰まっている。


バスの運転手さん -なまり体験その3-

町はずれのバス停で嘉義へ戻るバスを待っていると、通りかかるタクシーが皆停まって、乗らないかと誘う。乗る気は全くないし、言ってることもよくわからないので、ひたすら首を振っていると、数分間しゃべりまくって去っていく。

やって来たのは、冷房のないぼろぼろのバスだ。今度はちゃんと冷房なし価格でNT$25(¥118)。しばらくして他の客が皆降りてしまうと、運転手さんがしきりに私たちを呼ぶ。前へ行くと、バスの行き先表示板を変えさせられる。 作業が終わって、そのまま運転手さんと話す。運転手さんは人のよさそうな明るいおにいさんだ。「どこから来たの?」と聞くので、「東京」と答えると、「東京?えー?日本の東京?」とかなり派手に驚いている。表示板を変えるとき、彼の言うことがほとんどわからず、ジェスチャーで説明してもらったのに、私たちが外国人だとはぜんぜん思っていなかったらしい。

打ち解けた雰囲気になったが、彼の北京語は苗栗の警官に輪をかけてなまっていて、会話がいっこうに進まない。なまっているだけではなく、知らない単語が多すぎる。何度繰り返してもらってもわからず、別の語に言い替えてもらってやっとわかることが何度もあった。なんだか変だと思っていたが、その謎は台灣語の話になったときに解けた。運転手さんが「日本語も英語もわからない」と言った後で、「台灣語は話せる?」と聞くので、「台灣語はぜんぜんわからない」と答えた。すると彼は突然驚いて、「えー、そうなの?台灣語わからないの?」と言って笑っていた。このとき、彼はこれまで台灣語混じりの北京語を話していたことに気づいた。彼が「日本の東京?」と聞いたとき、「東京」のほうは北京語だったが、「日本」のほうは台灣語だった。‘日本’は私がわかる数少ない台灣語なので、聞き取れたのが嬉しく、あまり気に留めていなかったのだ。

台北で聞こえてくる言葉は北京語が多いが、南へ行くほど台灣語が多くなる。嘉義も台灣語が多いし、北部でもちょっと田舎へ行くと台灣語が多くなる。この運転手さんのような両者が混じり合った言葉も何度か耳にした。北京語か台灣語かと区別して考えがちだが、一般に話されている言葉としては、このようにミックスされたものが普通なのかもしれない。

こんな調子で、あまり実のある話はできなかったが、突然彼が日本人と思われる名前を言い、「知っているか?」と聞いた。北京語読みのその名前には聞き覚えがなかったので、「知らない」と答えると、「おまえらそれでも日本人かよ」みたいなことを言われた。そこまで言うならと思い、紙に書いてもらう。芸能人だろうと予想していたが、なんとそれは「池田大作」だった。「知ってる、有名だよ」と言ったら彼は満足そうだった。学会員なのか聞こうと思ったが、そのままバスで「学会」へ連れて行かれたら怖いのでやめた。

嘉義へ入ると道路が渋滞してかなり時間がかかったが、彼のおかげで楽しく過ごすことができた。現在の北京語力では、まともな会話ができるまでの道のりは長そうだが、なまりや台灣語混じりなど、生の言葉ならではの体験を通じて、少しずつではあるが学んでいると感じる。ところで、彼と話していて、新しいなまりパターンを発見した。白宮大飯店のおじさんと話したときも気になっていたが、[F]の音が[H]になるのだ。これは台灣語に[F]の発音がないためだと思われる。


北回帰線の南へ

駅の近くの台南但仔麺の店で昼食を食べる。台南但仔麺、魯蛋、台灣啤酒、炒青菜でNT$112(¥530)。ホテルへ荷物を受け取りに行くと、おじさんは最後まで愛想がよかった。戦場シャワーのことは忘れてあげることにする。

今日が媽祖の誕生日当日なのか、有名な北港の媽祖のお祭りに行くらしく、バスターミナルでは皆、北港行きの切符を買っている。しかし、私たちは布袋行きの切符を買う。バス代がNT$82(¥388)もかかるのでけっこう遠そうだ。冷房設備もないぼろぼろのバスだったが、値段は冷房車である。どうやら実際に来るバスとは関係なく、便によって冷房車価格かどうかが決まっているらしい。

北回帰線標塔を通り過ぎ、ここから北回帰線の南、すなわち熱帯圏となる。「北回帰線」という言葉にはなんとなく人を惹きつける響きがあり、Henry Millerの『北回帰線』[B134]のイメージも加わって、昔から憧れがあった。しかし、バスで標塔を通り過ぎるだけでは、特に実感も感動もない。

そのうち、窓の外から派手な爆竹の音や音楽が聞こえ始めた。お祭りの行列のようだ。獅子舞も出て、とてもにぎやかだ。バスは、通行制限でなかなか進まなかったが、やっとお祭り地帯を抜けると、今度はがんがんとばし始めた。車が揺れるたびに、全開の窓ガラスが激しくガタガタと鳴るが、とても気持ちがいい。台灣の路線バスは渋滞も多いが、混んでいなければとばしてくれるので私は好きだ。事故に遭ったら遭ったとき、死んだら死んだときである。


ラジオと台灣語歌謡

車内には、ラジオががんがんかかっている。3年前に初めて台灣に来たときには、台北市内のバスでも音楽が大音量で流れていたが、そういえば今回はあまり聞かなかった気がする。今流れているのは、おじさんとおばさんのトークの合間に、台灣語歌謡がかかる番組だ。このトークの言語が謎である。知っている単語が頻繁に聞こえ、北京語だなと思っていると、突然まったく聞き取れなくなり、響きも台灣語っぽい、鼻に抜ける感じになる。台灣語だったのかなと思っていると、また知っている単語が聞こえ始める。この繰り返しである。この変わり目が突然で、ポーズなどの認識可能な合図がない。

最近は台灣語の曲も多様化し、ロックやポップスもあって若者にも見直されているが、この番組で流れているのは、従来の演歌っぽい曲ばかりだ。イントロまでそっくりな『津軽海峡冬景色』や、歌詞の音まで似ている『夕焼け小焼け』など、日本のカヴァー曲も多い。音楽の後で、おばさんが「どうもありがとうございましたー」と日本語で言う場面もあった。これはたぶん、田舎のおじさんやおばさんが好んで聴き、都会の若者は見向きもしないような番組だと思うが、コテコテのディープな世界でそそられる。台灣語演歌といえば、テレビでは、ダンサーが曲に合わせて社交ダンスをし、カラオケのように歌詞が出る番組もある。『岸壁の母』でも踊ってしまうのがすごい。朝の、日本でいうワイドショー・タイムに放送しているのに、女性がミニのドレスを着ていたり、ちょっとエッチな踊りがあったり、対象やコンセプトが不明で、見始めるとけっこうハマる。

海に近づいてくると、‘東石’という標識が見られるようになった。東石は、“熱帯魚”の後半の舞台になった漁港で、布袋より少し北、ほぼ北回帰線上に位置している。


澎湖行きのフェリーボート

1時間以上かかってやっと布袋に着く。昼下がりの布袋港は、陽射しが強くて真夏のように暑く、海の匂いがする。人影はほとんどない。

『地球の歩き方'97~'98年版』[O14-97]によれば、布袋から澎湖島の鎖港へのフェリー[注2]は一日三便あり、最終が3時に出る。あまり時間がないが、乗り場がわからないので、近くに見えた警察署のようなところへ行く。前で立ち話をしているおじさんは檳榔を噛んでいて、口の中が真っ赤だ。間近で見るとなかなか迫力がある。彼に尋ねると、「乗り場はあっちだけど、今日はない。飛行機で行きなさい」と言う。明日も明後日もないと言う。もともと毎日出るわけではないのか、何かの事情で今はないのかわからないが、とにかくフェリーはなかった。澎湖島へ行く交通手段の中で、布袋からフェリーというのはおそらく最もマイナーである。ちゃんと乗れるのかどうかは半信半疑だったが、とりあえず布袋に来てみたのだ。

さて、これからどうするかを決めなければならない。予定をなるべく変えないならば嘉義から飛行機ということになるが、そのつもりは全くなかったので、空港の場所も、フライト・スケジュールも、チケットが買える場所も知らない。今日中に便があるかどうかもあやしい[注3]。そんなわけで、先に鉄道で高雄に行き、その後高雄から澎湖島へ行くことに決めた。

実は、先に澎湖島へ行き、その後フェリーで高雄へ行くという行程にはこだわりがあった。澎湖島、高雄は共に侯孝賢の“風櫃來的人”の舞台である。映画では、澎湖島に住んでいる少年たちが家出をし、フェリーで高雄へ働きに行く。澎湖島も高雄も初めてなので、映画と同じ順番で見てみたかったし、彼らと同じように、高雄行きのフェリーに乗ってみたかった。しかし、日程も後半にさしかかり、行くべき場所に確実に行けることのほうが重要だ。飛行機についても調べておかなかったのが悔やまれる。再び台灣語歌謡とバイリンガル・トークのディープな世界に浸りつつ、同じバスで嘉義へ戻る。


高雄へ

莒光5次で高雄へ向かう(NT$191=¥903)。4時32分発の予定だったが、30分くらい遅れて来た。嘉義から高雄までは1時間ほどで、あっという間に着く。高雄車站はかなり大きく、改札に向かう長い地下通路は、品川駅のようだ。

高雄市は、台北に次ぐ台灣第二の大都市である。駅前にたくさんあるホテルの中から、適当に凱得來大飯店(Kind Business Hotel)を選ぶ。ドアの前で、‘請問、有空房間嗎(部屋はありますか)?’と3回練習してから入ったが、入った途端フロントのおじさんに日本語で「日本人の方ですか?」と言われてしまった。部屋は一泊NT$1120(¥5298)。かなり広く、飲用のお湯も出て悪くない。


飛行機の手配

出かけるついでに、フロントで澎湖行きのフェリーについて聞いてみる。さきほどのおじさんはいなかったので、英語の話せるおばさんに尋ねると、‘ferry’という言葉を聞いてすごく変な顔をした。「フェリーの切符なんてそんなものはどこで売ってるのか知らないけど、飛行機のチケットならとってあげますよ」と言う。そこへおじさんが、「私、船、大っ嫌い!揺れるし、すごく時間がかかるし」と、いかにも嫌そうに言いながら登場する。

飛行機を使うつもりは全くなかったが、フェリーの情報がないので、これ以上日程を遅らせずに澎湖島に行くことを最優先として堕落することにした。便を決めるときも、おじさんはいろいろとうるさい。大華航空の便にしようとすると、「その会社は飛行機が小さいから危ない。やめなさい」と言って受けつけてくれない。時刻がほとんど同じ立榮航空にすると、今度はOKが出た。


結婚写真屋

台灣では、いろいろな衣装を着て、ポーズをキメて撮る豪華な結婚写真がかなり一般的である。ホテルの前を通る中山一路には、この婚紗攝影結婚写真屋がずらりと並んでいた。同じ業種の店がひとつのところに集まって○○屋街を形成する伝統的な街づくりが、新しい商売でも行われているのだろうか。それとも、もともとの写真館街が、近年結婚写真屋街に変わったのだろうか。

比較検討して店を決めるためか、店の前に豪華なカタログが置かれており、自由に見ることができる。どれも一目見て赤面するような恥ずかしいもので、あまり店による違いがあるようには見えない。平日だというのにどの店にもけっこう客がいて、店の人と熱心に打ち合わせをしていた。


六合夜市

南部一の賑わいと言われる六合夜市へ行く。予想したほどにぎやかではなく、ちょっとがっかりした。基隆に比べてもぜんぜん負けている。さらに興ざめなことに、日本人の団体旅行客までいた。団体で夜市に来ておもしろいのだろうか。

今回まだ食べていなかった肉圓の屋台へ行く。肉圓は台灣料理で、台灣語で‘ばーわん’と呼ばれている。北京語読みでは通じるような気がしないので、声調がわからないまま適当に「ばーわん」と言ったら通じた。肉圓、魚丸湯などでNT$110(¥520)。次に、愛玉冰と仙草ゼリーの屋台へ行き、愛玉冰を食べる(NT$20=¥95/杯)。お金を払っているときに、男性二人組の客がやってきて仙草ゼリーを注文した。ひとりはものすごく太っていて、仙草ゼリーの皿を受け取った一瞬後には、横に空になった皿が置かれていた。一切れずつスプーンですくって時間をかけて食べるのが、仙草ゼリーの楽しみだと思うのだが。

肉体的には満腹だが、精神的には食べ足りないので、腹ごなしに本屋へ行く。再び夜市に戻り、豆花を食べる(NT$25=¥118/杯)。煮豆入りで幾つか種類があったので、花生ピーナッツにした。でも、黒いタピオカ入りか何も入っていないもののほうが好きだ。果物屋も多く、どこもドリアンを売っている。台北では一度しか見かけなかったが、嘉義や高雄に来てよく見かけるようになった。まだ最盛期ではないせいか、シンガポールのように籠に山盛りというのではない。綺麗に並べて売られていて、いまひとつソソられない。切った西瓜を買い(NT$50=¥237)、ホテルに戻る。

ホテルのお風呂は、見た目は白宮大飯店よりずっと綺麗だったが、やはりシャワーカーテンはなく、広がるシャワーだったので、苦労はあまり変わらなかった。



[1] 青石榴の道
この青石榴の道のロケ地がどこなのかわかっていない。ここはとても好きなシーンで、映画の中でも重要であり、風景的にも美しく、ぜひぜひ行ってみたいところである。ロケ地について何かご存じの方はご一報ください。
[2] 布袋から澎湖島へのフェリー
『地球の歩き方'98〜'99年版』[O14-98]では、「時間は不定なので、現地でそのつどTELで確認すること」という記述に変わっている。
[3] 嘉義から馬公への飛行機
後で入手したフライトスケジュールによれば、嘉義から澎湖島の馬公への便は一日4便、最終が午後2時だった。

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作成日:1998年6月25日(木)
更新日:2004年5月28日(金)