ドゥ・マゴで逢いましょう2004
2004年10月31日(日)
10月31日、日曜日。雨のちくもり。最終日の今日はずっと渋谷の予定。
フェーンチャン~ぼくの恋人 ◇ Fan Chan ◇ My Girl |
映画祭13本目は、アジアの風部門の『フェーンチャン~ぼくの恋人』。オムニバスでもないのに監督が6人という異色のタイ映画。
内容は異色でもなんでもなく、幼なじみの女の子の結婚の知らせを聞いた主人公が、小学校時代の初恋を振り返るもの。たいへんかわいらしくて微笑ましいお話で、主演のふたりもたいへんかわいらしいのだが、要するにそれだけの映画である。そもそも私はお子様のラヴ・ストーリーが苦手だ。『小さな恋のメロディ』もどこがいいのかわからなかった(そういう記憶だけがあって、内容は全くおぼえていないのだが)。子供時代に美しい想い出のある人は琴線にふれるのだと思うが、そうでない人間にとってはあまり胸に迫るものがない。
よかったのは、監督もこだわったというお店が3軒並んだ建物と、スクール・バスでの通学風景。途中の川沿いに一本の木があって、その木によって季節の移り変わりが表現されている。
この映画を観ようと思ったのは、「懐かしい音楽」といったことがどこかに書かれていたからで、勝手に『怪盗ブラック・タイガー』みたいなのを想像していた。ところが実は80年代が舞台で、少なくとも音楽は、レトロな雰囲気とは無縁だった。最近「80年代回顧」がちょっとしたブームだが、80年代というのは、多様化が進んできて皆が共有するイメージみたいなものがなくなり始めた時代だと思うし、個人的には近すぎて懐かしくもなく(年がばれる?)、未知であるがゆえの憧れや幻想も呼び起こさない、要するにあまり回顧したくない年代である。
上映後は、Adisorn Tresirikasem監督、Songyos Sugmakanan監督をゲストに、ティーチ・インが行われた。今年は出てこなくて喜んでいた「映画パーソナリティ」伊藤さとりがついに出た(単に今まで会わなかっただけで、ぬか喜びだったようだ)。某二人の司会者に比べればまだましである。
ティーチ・イン詳細
◇◇◇
昼食は、最後のチャンスなのでドゥ・マゴへ行く。プチ・デジュネを食べるつもりだったが、メニューを見てオムレツや白身魚を頼んでしまう。なかなか来なかったので、全部食べきらないうちに次の会場へ。今回は結局ホット・チョコレートは飲めなかった。
映画祭14本目は、アジアの風部門のクロージング作品、『花咲く春が来れば』。韓国で一番好きな監督、許秦豪の『春の日は過ぎゆく』の脚本に参加しているRyu Jang-Ha(劉長河?)監督の初監督作品。チケットが1枚しかとれなかったのでひとりでの鑑賞となったが、席は本編が始まってもたくさん空いていた。
上映の前にアジア映画賞授賞式がある。この回は、アジア映画賞授賞式→映画上映→ティーチ・インと、休憩なしで続く。アジア映画賞の結果は知りたくても、授賞式は1秒でも短く終わってほしいと願わない人はいない。しかしあいかわらずそのへんの配慮が足りない内容である。例年のごとく、最初の二人の挨拶は不要。貴重な時間を使って挨拶をするなら、ここでしか言えないこと、かつ自分にしか言えないことを言わなければ意味がない。この中身のない挨拶にいちいち英語通訳がつくが、原稿を用意しているのだから、あらかじめ入手して要点だけ訳すべきだと思う(‘Thank you.’だけになりそうだ)。アジア映画賞は『可能なる変化たち』。観ていないので論評できない。審査委員長(@読売新聞)は講評の中で『不可能な変化たち』と何度も言っていた。ちゃんと観たのか疑いたくなる。
やっと『花咲く春が来れば』が始まった。演奏家になる夢がかなわず、恋人とも別れて自暴自棄気味の中年男が、ブラスバンド部の指導をするためにひと冬田舎の中学校へ行き、そこでの生活の中で、人生に対する考え方をちょっとずつ変えていくという話である。田舎といっても、素朴で暖かい、天国のようなところというわけではない。炭鉱で成り立っている町は貧しく、気候は厳しい。当然、人々はいろいろな問題を抱えて生きている。しかしそれらが大げさに語られることはなく、日々の暮らしの中でさりげなく示される。ひと冬のあいだにはいくつかの事件があるが、最も劇的な部分は徹底して描かれず、結果もあからさまには示されない。それでいて、何が起こり、どうなったのかがちゃんとわかる。
ただ、あまり深く心を揺さぶられず、ものすごく心地よく観れてしまうところが気になった。最初のころの主人公は自分で自分を不幸にしている状態だが、そこの描き方がいまひとつで、主人公の心情に否応なしに入り込めないのがその理由だと思う。要するにつかみが足りない。元恋人の女性があまり魅力的に思えなかったのも理由のひとつかもしれない。
上映後は、Ryu Jang-Ha監督をゲストに、ティーチ・インが行われた。質問者が、主人公が癒されるとか、自分も癒されたとか言っていて、ほかにもそういった感想や批評を見かけるが、どうも釈然としない。少なくとも主人公は、癒されたわけではないと思う。もちろん見方はいろいろあるだろうが、問題なのは、自分が感じた具体的な感情を表現する言葉を捜そうとはせずに、安易に流行の言葉に置き換えてしまうという態度、そして抽象的な言葉に置き換えることによって捨象されてしまうものに対する無頓着さである。
ティーチ・イン詳細
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湘南新宿ラインで直帰し、津久井でお好み焼を食べる。家に帰ってWebサイトを見ると、もうとっくに結果が出ている時間なのにまだ更新されておらず、asahi.comで結果を知った。観ていない映画ばかりなので論評はできない。黒澤明賞に激怒する。
今年の映画祭をふりかえって
映画祭をふりかえって、よかった点、悪かった点を簡単にまとめてみたい。
■よかった点
- ● 「アジアの風」のラインナップ
- 「アジアの風」部門のラインナップは悪くなかった。欲をいえば、★★★レベルの作品がなかったのが残念でした。それからFILMeXとの分担の問題かもしれないが、中近東方面が全くなかったのも、少しバランスを欠いているように思う。
- ● 「アジアの風」のカタログ
- 今年は「アジアの風」のカタログが別に作られたが、映画祭のプログラムに比べて内容も充実していたし、中国系の人名の漢字表記もあってよかった。欲をいえば、韓国人の漢字表記とか、原題の充実とか、スタッフ/キャストの充実も望みたい。また、別に作るのではなく、映画祭のプログラムの中に入れてほしい。
- ● 鑑賞の環境
- いろいろな意味で会場には問題があったが、スクリーンの見やすさや椅子の座り心地という面では、これまでよりよかったと思う。
■悪かった点
- ● チケット販売
- Sold outだと言われていた上映でも空席が目立った。チケットが完売すればいいというのではなく、観たいのに観られない人を減らすことも考えてほしい。会場やスケジュールを工夫するほか、招待券をばらまくのをやめる、5分前までに来ない席は当日券を売ってしまう、マスコミ用に最前列を空けておくのをやめるなど、いろいろ工夫の余地はある。また、この機会にしか観られない映画も多いので、その映画をなるべく多くの人に観てもらうという視点ももってほしい。
- ● ティーチ・イン
- ティーチ・インの司会者がさらにひどくなった。タレント的な人を多く起用しているようだが、司会者に求められるのはその場をうまく仕切ることであって、スムーズにしゃべることではない。また、タレント的な人は自分を出そうとしてしまい、無駄なしゃべりが多い。六本木ヒルズでのティーチ・インでは、準備のときに責任者と思われる白っぽいスーツのおじさんがうろうろしていたが、この人がものすごく感じ悪かった。おそらく、観客がまるで見えておらず、「お客様に申し訳ない」という姿勢が微塵も感じられなかったのがその理由だと思う。それから、「写真撮影は禁止」と言うだけでなく、何が問題なのか、なぜマスコミはいいのかを明らかにしてほしい。
- ● 情報公開
- 最初にも書いたように、Webサイトでの情報公開が遅すぎる。重要なのは、見た目のかっこよさや画像ではなく、情報の早さと多さである。公開が遅かったこともあり、チケット発売前夜にはアクセスが集中して非常に重くなっていたが、そういう状況も考慮してテキストだけのページがあるのが望ましい。また、もっとWebサイトを活用して、多くの情報を流してほしい。たとえば、当日券の情報なども、Webサイトで公開されていると便利である。それから、以前は過去の映画祭の作品情報やデイリーニュースが蓄積されていたが、現在は見当たらないようである。映画祭でしか上映されない作品に関しては貴重な情報源であることを認識し、情報を蓄積して提供するという役割も果たしてほしい。
- ● 会場
- スケジューリング時に考慮せざるを得ないこともあり、思ったほど不便ではなかったが、やはり二会場分散はやめてほしい。六本木ヒルズという場所は気に入らないし、飲食可なのも迷惑だ。このページは「ドゥ・マゴで逢いましょう」というタイトルでもあり、やはり東京国際映画祭は渋谷でやるべきだと思う。
- ● 映画祭の理念
- 以前は、「新人監督重視」「アジア重視」といった映画祭の姿勢が、今よりも鮮明に見えていた。だから、いろいろ不満はあっても、毎年積み上げていくことによってだんだんよくなるのではないかという希望をもつことができた。ところがヤングシネマがなくなったあたりから迷走しはじめ、映画祭の理念が見えなくなっている、あるいはなくなっていると感じる。今年に至っては、「黒澤明賞」という意味不明なものが新設され、意味不明な受賞者が発表されたが、これに納得した人は一人もいない。一方で、権威ある映画祭になりたいというあせりが透けて見える。「世界十二大映画祭」だとか「アジアで最大」だとか宣伝しているようだが、そんなことで感心する人はいない。香港とか釜山とか山形とかFILMeXとか、十二大映画祭でもアジア最大でもないけれど、東京より魅力的だと言われている映画祭はたくさんある。そもそも評価や権威といったものは、何十年も積み重ねてやっと得られるものである。理念をもつこと、それを発信し、貫くこと、謙虚に実績を積み上げていくことが重要だと思う。
以上まとめると、
- きちんとした理念をもち、それを発信するような映画祭であってほしい
- マスコミではない一般の観客・映画ファンをもっと大切にしてほしい
ということである。
いろいろと文句を言ったが、自分自身が以前に比べて悪いところに目をつむれなくなっていると感じる。TOKYO FILMeXが比較対象としてあるからかもしれない。しかし、よほどひどくならないかぎりは来年も参加するつもりである。来年もまた、ドゥ・マゴで逢いましょう。
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