イエイエ上海 page 8
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7月30日、金曜日。上海。晴れ。
朝食はいつもの屋台街で買った生煎[sheng1 jian1]。これは小龍包を分厚くして焼いたような、丸い鍋貼のようなものである。今日までここで買ったものの中でこれが一番おいしい。ところで私はこれを「なまいり」と呼んでいる。日本語に中国語の単語や固有名詞が混ざる場合、音読みするのが一般的だが、私はこれが好きではない。中国語の音のまま導入するのが基本だが、わからないときは訓読みにすることにしている。音読みでは、音として馴染みのない単語から漢字を想起しにくいし、なんだか味気ない。
上海はかつてキネマの都であった。中国で初めて映画が上映されたのは上海であり、中国で初めての本格的な映画会社が設立されたのも上海である。1930年代には、進歩的、左翼的な映画の秀作が多く製作された。日本の占領後は、軍の後援で中華電影が設立されたが、最高責任者の川喜多長政は「中国人の劇映画は、中国人の俳優と製作スタッフによって、中国人の心情に訴え得る映画のみを作り配給する」[B231]という方針であり、上海電影は中国映画の中心であり続けた。中華人民共和國の成立後に設立された上海電影製片廠は中国第二の規模であり[B310-2]、このことからいえば現在もキネマの都であるが、それに相応しい作品はあまり出ていないように思われる。
地鐵(写真1)で徐家匯[xu2 jia1 hui4]にある聯華影業公司の跡を見に行く。聯華[lian2 hua2]は30年代の代表的な映画会社で、何よりも伝説的女優、阮玲玉[ruan3 ling2 yu4]と、その主演作(“小玩意”“新女性”など)で知られる。關錦鵬の“阮玲玉”(『ロアン・リンユイ 阮玲玉』)の最後にも、聯華の撮影所の跡(1991年)が出てくるが、ここなのかどうかはわからない。
この聯華の撮影所は、1942年に製作会社が中華聯合(中聯)に一元化されると、その第四撮影所となり、1949年には上海電影製片廠の撮影所となった。まさに上海電影史の縮図といえる。しかし、残念ながらすでに上海電影製片廠(写真2)の一部ではなく、マンションか何かの建設現場に変わっていた(写真3)。
バスで靜安寺へ移動。均一料金のバスは、空調なしが1元、空調付きが2元である。「たった1元(=15円)の違い」という見方もできるが、「2倍もする」という見方もできる。2倍払うのはもったいないうえに、この路線は空調なしのみ無軌電車(トロリーバス)(写真4)なので、わざわざ空調付きを見送り、空調なしを待って乗った。ところが、座れないうえに渋滞である。停まっているあいだは微風もない。バスが少し動くと、工事中の窓の外から、砂ぼこりだらけの風が入ってくる。外から見ればキュートな無軌電車も、乗ってしまえばただのバスである。汗と砂にまみれた長い道のりは、「たったの1元」で買える快適のありがたさが身にしみる体験だった。
靜安寺付近も大掛かりな工事中であり、靜安公園などまるごと見当たらなくなっている。張愛玲[zhang1 ai4 ling2]が住んでいたアパートや、毛澤東が1920年に2か月間住んだ家などを見る。郁達夫は、三度目の上海訪問中の金子光晴と親しく付き合った頃、この近くの里弄に住んでいた。ここはなくなってしまったらしく、見つけることができなかった。
中聯の跡などをたどりながら、烏魯木齋緑地(旧・寶昌公園)まで行く。ここには聶耳の像(写真5)が建っている。30年代の音楽家、聶耳[nie4 er3]もまた、上海電影と深い関わりをもつ人である。彼は中華人民共和國の国歌の作曲者として有名だが、この“義勇軍行進曲”は1935年の映画“風雲兒女”(『嵐の中の若者たち』)の主題歌である。聯華では“新女性”の主題歌などを作曲しており、『ロアン・リンユイ 阮玲玉』にも登場する。
聶耳像の前には、彼に敬意を表して、高級公厠が造られている。二階建ての完全個室で、あまりに奇麗なので写真を撮ろうとしたが、管理人が上がってきて失敗した。
衝山路のヴェトナム料理屋で昼食。このあたりは上海の西麻布といった雰囲気で、高いんじゃないかと恐れながら入ったが、やはり174元(=2568円)もかかってしまった。苦瓜肉詰めのスープ(写真6)がおいしかったのが救いである。
汾陽路、桃江路、岳陽路の三叉路に建つプーシキン紀念碑(写真7)を見る。堀田善衛は二代目プーシキン像にまでしか言及していないが、文化大革命で破壊されてしまった二代目に代わり、現在のものが三代目を襲名したらしい。二代目に倣い、「勇ましく眼をつり上げて天の一角を睨みつけている」。
上海には銅像などの像が多い。支配者が変わるたびに同じ場所の銅像が変わったり、このプーシキン像のように壊されては建て直されたりしている。銅像の変遷によって歴史を記述することができるのではないか。プーシキンを見ながら私はそんなことを考えていた。
宋慶齢が戦後住んだ家(入場料8元=118円)や、国民党政府の要人たちの邸宅を見ながら、旧フランス租界の南西部を歩く。最後に、これらの邸宅とは異なる庶民的な里弄を訪ねる。最初の上海訪問中の金子光晴と親しく付き合った頃、田漢が住んでいたところである(写真8)。屋台が並び、人々が行きかい、活気に溢れている。田漢もまた、上海電影と深い関わりをもっている。“義勇軍行進曲”の作詞者として知られる彼は、この“風雲兒女”をはじめ、多くの映画の脚本を手がけている。聯華でも“三個摩登女性”などの脚本を執筆しており、『ロアン・リンユイ 阮玲玉』にも名前が出てくる。
旧フランス租界の中心、霞飛路Avenue Joffre(現・淮海中路)に戻る。黄山茶葉公司で碧螺春、西湖龍井、毛峰を買い込んだ後、燕京酒樓で夕食。はづかしながら、生まれて初めて北京[火考]鴨を食べる。そのものよりも後の湯スープがおいしい。北京のビール、燕京[口卑]酒を見つけて狂喜するも、味はいまひとつ。全部で116元(=1712円)。
帰りの地鐵の中にはパジャマおじさんがいた。
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