第14回東京国際映画祭

The Chimp ティーチイン

- 参加者(敬称略) -
ゲスト●Aktan Abdikalikov(監督)
司会●襟川クロ
ロシア語-日本語通訳●児島宏子
日本語-英語通訳●鈴木小百合


■司会者:まず最初に、オーチャードホールの感想を。
◆Aktan Abdikalikov(ロシア語):すばらしいホールである。でも今日来てくれたお客さんのほうがもっと素晴らしい。せっかく文化の日でお休みなのに、この映画を観に来てくれたのだから。

■観客1(日本語):監督の作品は、間やキャラクターの配置が独特である。影響を受けた監督や作品は?
◆Aktan Abdikalikov:映画界では誰からも影響は受けていない。自分の生活や人生そのもの、自分のそれらへの関わりから影響を受けている。自分は美術出身なので、美術の影響もあると思う。
◆誰からも影響を受けていないと言うと野心的に聞こえるかもしれないが、それははじめから監督として出発したわけではないからである。絵をめざしていたので、いろいろな映画を観るようになったのはかなり遅くなってからだった。それで、美術家としての自分の感覚や世界観に基づいて映画を作ることになった。

■観客2(日本語):女性の出るシーンであひるが出てくるが、その意味は?
◆Aktan Abdikalikov:あひるが出てくる理由は自分でもわからない。ただ、あひるはとても美しい家畜なので、このシークエンスに使いたいと思ったのである。実は、バイブルに、あひるがローマを救ったという話があることをあとで知った。あひるがジーナや少女達を救ったのだと思い、うまい偶然だと思った。

■観客3(日本語):鏡が出てくるシーンが多く、鏡に映った映像が美しく使われていた。その演出意図は?
◆Aktan Abdikalikov:鏡はいつも我々と一緒であり、我々の成長をずっと見守っている。我々が鏡に向かうときには、いろいろな精神状態がある。鏡を通して、登場人物の変化や成長を描きたかった。鏡の中には第2の自分がいて、心の中で思ったり経験したりしたことは、鏡の中の自分にも反映される。だから、鏡に向かっているときに、何か問題を解決するきっかけを見つかけられるかもしれない。
◆鏡には様々な形のものがある。普通の鏡には心が映し出される。鏡の破片は覗くのに使われる。鏡を伏せることは、ひとつの運命、死や不幸を連想させる。この映画の中で、父親が鏡を伏せるシーンがあるが、これは自分自身についてもう一度考え直したいという思いの表れからもしれない。また、主人公が鏡の破片でスカートの下を覗いているところを発見した女の子が、「鏡よ鏡、真実を語りなさい」と言うシーンがある。これには、鏡は真実を映し出すものだという考えがある。このように鏡にはいろいろな形があり、鏡に対する考え方もいろいろある。

■観客4(日本語):キルギスの映画を観るのは初めてで、よく知らないので失礼な質問だったら許してほしい。この映画の舞台がよくわからなかったのだが、現代の話なのか少し前の話なのか? また、これはキルギスの一般的な生活なのか、それとも田舎の生活なのか?
◆Aktan Abdikalikov:少しも失礼な質問ではない。この映画の年代を特定しろと言われれば、それは1974年頃である。しかし、その時代そのものではなく、自分の内面にある時間的な感覚をスクリーンに描いた。リアルなキルギスそのものではなく、Aktan世界であると考えてもらいたい。当時のキルギスを借りて登場人物の内面世界を表すことにより、ある雰囲気を作ることをめざした。

■観客4:キルギスでは、一般的にこのような映画が観られているのか、それともアメリカ映画のようなものが一般的なのか?
◆Aktan Abdikalikov:キルギスだけでなく旧ソ連全般だが、ソ連崩壊後にアメリカ映画が押し寄せてきた。自分の映画はそれら大きなものに対するささやかな抵抗であるが、幸いにも首都で2週間上映された。質の悪いアメリカ映画でもヒットしてしまうのは、観る側の責任だと思う。それらはキャンディやチョコレートのようなもので、口に入れたときはとてもおいしいが、食べ過ぎると太ってしまう。もちろん、すべてのアメリカ映画が悪いわけではなく、世界の芸術となっている作品もある。ここで指しているのは、巨大な資本で作られ、興行化されて巨大な資金を生む映画であり、自分はそのようなアメリカ映画には賛同できない。

■観客5(日本語):監督のこれまでの3作品は、自分の若い頃を振り返った、ひとまとまりの私小説のようなものだと思う。今回で完結したわけだが、次のステップとしてどのような作品を撮るつもりなのか?
◆Aktan Abdikalikov:これまでの3部作は自伝的なものであり、プロット、語られる内容や追憶はすべて自分自身のものである。これが完成したということは、自分がそれらから開放されたということであり、私にはそれが必要だった。映画の主人公とともに自分も成長した。主人公はどこかへ去ってしまった。それはシンボリックな意味で、自分の青春時代の思いがどこかに去って行ったということである。
◆今後は今日を描きたい。今、生きているこの世界の社会や政治経済、人々の絶望、喜びや哀しみ。シナリオなしのドキュメンタリー・タッチのものになると思うが、ドキュメンタリーではなく、劇映画にしたいと考えている。

映画人は語る2001年11月3日ドゥ・マゴで逢いましょう2001
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作成日:2001年11月28日(水)
更新日:2004年11月29日(月)