■不良番長
午後はフィルムセンターへ『不良番長』を観に行く。「全16作が作られた「不良番長」シリーズの記念すべき第1作」ということだが、予想以上に期待はずれだった。「不良番長」というタイトルからは、せいぜい二十歳くらいの登場人物が期待されるが、主演の梅宮辰夫はすでに「梅宮パパ」の雰囲気になってしまっており、劇中でも三十歳近いという設定だった。この映画の唯一の見どころは南原宏治。前から変だと思っていたが、やはり南原宏治は変である。
今回の「日本映画の発見VI:1960年代(2)」は明日までで、観る予定はこれが最後だ。全部で8本、けっこうレアな作品も観させてもらって、ありがたい特集だった。次はイタリア映画だそうで、しばらく通う頻度は低くなりそうだが、その後70年代をやってくれるのを期待している。
■映画祭をふりかえって
今年は観た本数は少なかったが、ほとんどの作品が満足のいくもので、かなり充実した1週間だった。
コンペの三作も、いずれも期待を裏切らない出来だったが、結果は、『春の日は過ぎゆく』が最優秀芸術貢献賞というわけのわからない賞にかすった以外、いずれも無冠に終わった。賞の大半を『スローガン』と『月の光の下に』が分け合ったわけだが、これらが私の観た作品よりも優れているのならば何も言うことはない。観ていないので何も語る資格はないが、Webで閉会式を見ながら感じたことを書いておきたいと思う。
賞というものは本来、優れた順に並べた一番上に与えられるべきものである。
しかし、実際はそうはなっていないことが多い(審査員のレベルや嗜好の問題は別にしても)。最近の傾向として、映画の良し悪しではなく、テーマのインパクトや社会性が結果に影響していることが多いように思う。また、賞をとることが、その映画や監督や作られた国に与える影響も関係していて、要するに「あげがいのある人にあげる」という感じも否めない。章明監督も、今年の東京について、人民日報に似たようなコメントを残している。
さらに東京の場合、新人が対象であるため、前作(あれば)からの成長度(審査員が観ていればだが)も問われるのではないかと推測される。これに関しては、三監督とも前作が非常に優れていて、すでに自分の世界を築いており、成長著しいというわけではない。一方、『月の光の下に』のSeyyed Reza Mir-Karimiは、前作の『少年と兵士』はイマイチだったので、もし『月の光の下に』が素晴らしかったとすれば、受賞の資格があるのかもしれない。章明、許秦豪、Aktan Abdikalikovが東京に出品してくれたことは嬉しいが、このような観点から見ると、彼らは出すべき映画祭を間違えたといえるかもしれない。
|