- ■観客1(日本語)[→章明]:舞台挨拶で「中国の映画を改革したい」と言われたが、自分の作品を中国映画の中でどのように位置づけているか? 例えば、インディペンデント映画とか、娯楽映画とか、あるいは、位置づけにはこだわらず、自分の作りたい映画を作っているとか。中国はもうすぐWTOに加盟し、ハリウッド映画がどんどん入ってくることになるが、それに対してはどうか?
- ◆章明(北京語):中国映画が置かれている状況は、日本と同じように、だんだん観客が減ってきている。その中でも自分の作品はマイノリティであり、少数の人に観てもらうためのものである。この映画にしても、もっと商業的にも撮れた内容なのだが、できあがった映画はそうはなっていない。自分が映画を撮っているこのような態度が正しいのかどうか、また自分に向いているのかどうかはわからないけれども、自分の思うところにしたがって映画を撮っていきたい。
- ◆いわゆる正当な映画の観点からいえば、私が撮っているような物語や人物は、映画にならない、語られ得ないものである。オーソドックスな中国映画というのは、英雄が登場したり、変化に富んだストーリーであったりするものである。しかし、自分はふつうのありふれた人々を撮りたかった。
- ◆商業的であるか否かにかかわらず、どこの国の監督もそれぞれ関心をもっているもの、撮りたいものがある。ハリウッド映画が入ってきて、その影響を全く受けないとは思わないが、中国映画が大きく変わってしまうことはないだろう。中国文化というのは、非常に独自なものである。過去の歴史の中でも、例えば元など、異民族の支配を受けたことがあったが、その文化を消化して中国文化に取り入れてきた。たとえハリウッド映画が入ってこようと、中国は中国である。
- ■観客2(日本語)[→章明、張雅琳]:日常生活の中で、幸せだと感じるのはどういうときか?
- ◆章明:私の日常生活では、幸せだと思うことは滅多になく、不幸なときが多い。
- ◆自分の生活は、この映画に出てくる警官(イートン)と重なるところがある。彼は本当は別にしたいことがあったけれどできなかった。しかし自分の場合は、だんだんよくなってきてはいる。前作(『沈む街』)を撮ったとき、東京国際映画祭から招待されたにもかかわらず参加できなかった。その後状況が変わってきて、今回は障害もなく参加できたことは幸せである。このように、映画人としての自分にとって状況は好転してきており、最近ではお金を持っている人も増えてきた。しかし、彼らが投資したい映画と自分が撮りたい映画とは異なっていて、そのあたりが自分にとっての今後の課題である。
- ◆張雅琳(北京語):現在のような世の中では、生き続けていけるだけで幸せだと思う。
- ■観客3(日本語)[→章明]:監督は一般に、第6世代の監督とみなされている。第6世代と呼ばれる監督の中には、それぞれ異なる個性をもった監督をひとつにくくるのを嫌がる人もいる。監督は第6世代と呼ばれることについてどう思っているか? また、同世代の他の監督をどう思うか?
- ◆章明:この質問は大きな問題なので、簡単に答えることにする。まず、海外の観客が、中国映画を理解してくれていることに感謝し、嬉しく思う。第何世代という呼び方に満足はしていないが、同じ世代の監督をまとめて呼ぶのには便利な言い方だと思っている。第6世代と呼ばれる監督は10人以上いるが、長所も短所も極端に突出している。それぞれのよさを学びあっていけば、いい世代になると思う。第5世代以前と比較すると、第6世代は、より個人に根ざした作品を撮っているといえる。
- ■観客4(日本語)[→章明]:ヌーヴェルバーグを思わせる映画だった。監督が尊敬したり参考にしている作家とその理由を教えてほしい。
- ◆章明:前作は、日本ではごく少数の人にしか観てもらっていないが、やはりヌーヴェルバーグを思わせると言ってくれた人がある。確かに自分はゴダールなどを観てきて、明らかに影響を受けている。また、あの時代、60〜70年代の映画が非常に好きでもある。
- ■司会者[→張雅琳]:映画初出演の感想を。
- ◆張雅琳:ふだんはテレビの司会者をしている。映画初出演がヒロイン役であったことは光栄だと思う。
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