Tampinはベンチが幾つかあるだけの小さな駅である。Melakaまではバスで50分ということだが、朝の4時過ぎにバスがあるはずもない。ベンチに座ると、早速マレイ人のタクシーの客引きに声をかけられる。彼はけっこう太っていて、友人にいわせると「洪金寶みたい」(私は似ているとは思わない)。私はタクシーが嫌いで、これまで自分の意志で乗ったことはない。タクシーが嫌いだと言うとよく不思議がられるが、お金を払って言いなりになってもらうなんてすごく居心地が悪いものだと思う。
始発のバスを待ってもいいが、今夜(すでに昨夜というべきか)のホテルは日本で払ってあるので無駄にせずにさっさと眠りたいという気もする。洪金寶の言い値はRM40(約¥1800)で、始発のバスは7時だと言う。マレイシア通貨を持っていないと言うと、最初は「マレイシアのお金じゃなきゃ駄目」と言っていたが、上岡龍太郎風の駅長さんに相談して、 S$25(約¥2000)でもいいということになった。RM40はかなりボラれている値段だと思うが、シンガポールで深夜料金で乗ると思えば、多分そんなに高くない。お金がない以上、値切れる可能性は低いし、駅のまわりに両替屋や銀行があるかどうかは怪しい。結局その値段で交渉成立する。彼に地図を見せてホテルの場所を教えると、駅長さんや、なぜか駅にいた人二人とわいわい言って場所を確認していた。
洪金寶と英語で少し話をしたが、話がかみ合わない。
「Tampinは大きい町?」
「ああ、タイまで直通で行ける」
こんな感じ。
5時前に運転手が現れ、「S$30じゃなきゃ駄目だ」と言い出したが、上岡龍太郎氏がとりなしてくれた。彼は洪金寶よりももっと立派な体格で、友人に言わせると「小錦みたい」。
小錦のぼろ車に乗って出発。ほとんど車も通らない道路をびゅんびゅん飛ばす。洪水の影はどこにもない。車の中ではマレイ語のラジオ放送がかかっていて、番組のはじめに‘アッ・サラーム アライクム’と言っていた。これは、アラビア語をかじってすぐに挫折した私が唯一覚えている、「あなたがたの上に平安あれ」という意味のアラビア語(会ったときの「こんにちは」の挨拶として使われる)である。聞くのは初めてなのだが、聞きとれて嬉しい。
何もないところをずっと走り、時おりバンガローのようなものが集まっているところがあり、また何もないところが続く。道路の行き先表示を見ていても、‘Melaca’の文字が見当たらないのが不安だ。それでも疲労には勝てず、時々うとうとしてしまった。街らしいところに入って、かなり突然に、Jl. Tun Sri LanangのHotel Grand Continental Melakaの前に停まった。小錦は1時間から1時間半かかると言ってたけど、飛ばしてくれたおかげで5:40くらいには着いた。
結局、15時間半かけてMelakaに来たことになる。長い旅だった。快晴のシンガポールを出て、雨の形跡のないMelakaに来たのに、途中十時間近くも洪水で足留めされていたなんて、なんだか信じられない。実際、洪水を目にしたのはほんのちょっとの区間だったし、あまり激しい雨にもあっていないし、現実味のない洪水だった。
マラッカは、マレイ語でMelaca、英語でMalacca、華語で馬六甲(Ma3 Liu4 Jia3)と呼ばれている、人口88000人(1980)の都市である。マラッカ海峡に面し、「風の始まり、終わるところ」と形容されてきた。15世紀にイスラム教国マラッカ王国が海上交易の要として栄えた後、1511年からポルトガル、1641年からオランダ、1786年からはイギリスの植民地となった。東南アジアで最初のヨーロッパ植民地であり、マレイシアの歴史上のキーポイントでもあった [ML7] [ML32] 。
Hotel Grand Continental Melaka(大洲酒店)にチェックインする。部屋がキャンセルされていなくてひと安心。ここは、ツイン¥6800/泊で、日本のJHC Worldwide Hotel Coupon Systemで予約できる最も安いホテルだった。ちょっと高すぎるのだが、到着が夕方の予定だったのでとっておいた。部屋はかなり広くてYMCAの2倍くらいあり、浴室も広く、冷蔵庫もあって申し分ないようだ。
シャワーを浴びてベッドに入ると、「終わりよければすべてよし」という気分になった。大変な一日だったが、結局のところ無事にMelakaに着いて私はいまMelakaにいる。外はすでに明るいけれど、一応睡眠はとれそうだし、今日一日のことはすでに旅のよい思い出になりつつある。明日(すでに今日か)に備えてともかく眠ることにする。