イエイエ上海 page 6
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7月28日、水曜日。上海。晴れ。
今日は蘇州へ行く予定である。特別な理由があるわけではない。『蘇州夜曲』が好きだし、『支那の夜』で観た運河の景色は美しかった。金子光晴も訪れているし、上海からなら日帰りで行ける。
蘇州といえば春である。『蘇州夜曲』では、♪水の蘇州の花散る春を〜♪と唄われる。『どくろ杯』では、蘇州の章は『江南水ぬるむ日』と名づけられている。前章の、蘇州旅行を決めるくだりのはじまりはこうだ。
江南の楊柳が煙るように芽ぶきはじめて、春らしい青空の、とろけるような陽ざしの日がつづくようになった。今は真夏、「とけるような陽ざし」の日がつづいている。「江南水わく日」である。会社の同僚が、「『蘇州夜曲』の世界を期待して行ったらきっとがっかりする」と言ったが、もとより『蘇州夜曲』の世界など望むべくもないのだ。
金子光晴が蘇州へ発ったのは上海北站であった。北站は1909年の開業以来上海の中心駅だったが、1987年に上海站ができてこれに取って代わった。したがって私たちは上海站から発つことになる。
7:30発の西安行きの直快(写真1)に乗り込む。私の席にはすでにおばさんが座っていて、強制的に席を替わらされるが、おばさんの本来の席にも別の人が座っていたり、実はおばさんの席はそこではなかったり、騒動の末に通路側の一席に落ち着く。‘硬座’というからには、香港のMTRのようなクッションもない席を想像していたが、ふつうの弾力のあるシートだった。シートの硬さより通路側に肘掛けがないのが心地悪い。
立っている乗客で混雑する通路を、新聞売りや車内販売のカートが頻繁に通る。トイレットペーパーまで売っているのが中国らしい。車窓の景色はろくに見えず、乗客は行儀が悪い。よく言われる「人情にふれる硬座の旅」などとは無縁の1時間15分の後、予定より遅れて蘇州に到着(写真2)。
蘇州は曇っている。改札を出ると、客引きが一斉に寄ってくる。ガイド、タクシー、貸し自転車、ホテル。あちこちで聞こえるカタコトの日本語。上海とは違い、ここは街全体が観光地なのだ。自転車は借りたくなくもなかったが、「ジテンシャ、ジテンシャ」と五月蝿いのでやめた。私は客引きが嫌いだが、日本語を話す客引きはもっと嫌いだ。
まずは帰りの切符を買う。蘇州站の切符売り場には整列のための仕切りがある。ひとつの窓口の前が2列に仕切られ、一方は並ぶために、もう一方は買い終わった人が外へ出るために利用される。割込み対策に感心する暇もなく、出口レーンから割り込もうとする「彼ら」との戦いがはじまる。「さすがだなぁ、きっと来ると思ってたぜ」などと、山本麟一風に呟いている場合ではない。
古都蘇州は見所が多い。とても一日では回りきれないので、『どくろ杯』に出てくる玄妙觀、雙塔、滄浪亭、寒山寺、楓橋、留園にだけ行くつもりだ。まずバスを乗り継いで、郊外の寒山寺[han2 shan1 si4]へ行く。入場料は4元(=59円)。境内は狭く、建物は改装工事中、そのくせ観光客がやたらと多い。大半は香港人か日本人の団体だ。
楓橋へ向かうところの土産物屋街では、どの店からもそっくり同じ日本語が聞こえてくる。「ヤスイヨ」「ミルダケ」「チャイナドレス」。客引きの効果検証においては、「客引きがいるから買わない」客による損失をきちんと計算すべきである。他店との差別化をはかるためにも、一軒だけ客引きをやめてみたらよい。かなり売り上げに貢献できると思うのだが。
蘇州は運河の街である。街中にある運河には、幾つもの太鼓橋が架っている。楓橋[feng1 qiao2](写真3)はそれらと何の変わるところもない。“楓橋夜泊”にうたわれたというだけで、2元(=30円)の入場料が要求される。橋の向こうは庶民的な住宅街で、そちらから来ればタダで渡れるはずだ。家の前に干されている馬桶のさりげなさも心憎い、ちょいと惹かれる町である(写真4)。
バスを待っていると雨が降りはじめた。通りかかったトゥクトゥクのおじさんがしつこく誘う。終始普通話だったせいか、それとも上海出身のF老師に雰囲気が似ているせいか、客引きにありがちないやらしさがない。おそらく「バスは当分来ないよ」とか「ほら、雨も降ってきたし…」とか言っているのだろう、こちらの理解度にはおかまいなしにべらべらと喋る。勝算があるのか単に暇なのか、‘不用’‘不要’を繰り返しても手応えがない。やがてバスがやって来ると、F老師は爽やかに去って行った。
留園[liu2 yuan2]を見学(12元=177円)し、再びバスで觀前街へ。觀前街は道教寺院、玄妙観の門前町。蘇州料理のレストランや老舗の商店が集まるところらしい。ところがこの一帯は工事中。片側通行止めといった生易しいものではない。通りは至るところが掘り起こされ、繁華街などどこにもない。玄妙觀[xuan2 miao4 guan4]にも道がなくて近づけなかった。10月の建国50周年に向けて工事中なのは上海も同じだが、ここ蘇州は想像を絶する壮絶さだ。
水餃のファーストフードで昼食をすませ(13.5元=199円)、雙塔[shuang1 ta3]へ行く。いつのまにか晴れている。入場料は3元(=44円)。名前のとおり、全く同じデザインの塔がふたつ並んでいる(写真5)。金子光晴は「戦後のこの頃、人気者として出てきた双生児姉妹のよう」と書いている。おそらくザ・ピーナッツのことだろうが、私は読むたびリンリン・ランランを連想してしまう。境内には茶屋があり、賑やかな声が聞こえる。覗いてみるとおじいさんばかりであった。
蘇州でのトイレは、行くたびにグレードダウンしていく。寒山寺は和式の個室だったのが、留園で仕切りの低い溝式トイレになり、ここ雙塔では鍵もなくなった。もはやどんなトイレでも何とも思わなくなっている。
並木道の商店街(写真6)や運河沿いの道(写真7)、白壁の間の路地などを歩く。滄浪亭へ到着する頃、ふたたび雨が降りはじめた。
滄浪亭[cang1 lang4 ting2]は、水に姿を映しながら、運河の向こうに凛として立っている(写真8)。派手ではないが、静かな存在感があって美しい。入場料は8元(=118円)。内部は観光客も少なく静かである。庭の東屋に陣取ってトランプをしている若者たちの歓声が、時おり聞こえてくるばかりだ。自然の山野を模した庭園やくねくねした回廊(写真9)を楽しみ、ひなびた茶どころで雨のやむのを待つ。
最後に予定外の北塔[bei3 ta3]へ。入場料7元(=103円)、塔に上るのにさらに5元(=74円)かかる。九層の塔の七層から、蘇州の街を眺める(写真10)。白壁と黒い屋根が独特の光景をかたちづくっているが、美しい眺めというわけでもない。
近くの北塔酒樓という店に入る。中国ビールはなく、唯一正体がわからない“百威”という銘柄を注文。数分後、お盆に載ったビール瓶が近づいてくる。あ、あの赤い色は……。生力San Miguelもあったのに、一生の不覚である。Budweiserなど飲むのは15年ぶりくらいになるだろうか。
料理は、つまみの花生ピーナッツに、家常豆腐と辣子鶏。辣子鶏はカリカリの鶏の唐揚げに唐辛子をふんだんにまぶしたもの。ビールとの組合せは最高で、Budweiserでなければと悔やまれる。合計58元(=856円)。
蘇州の夜は暗く、駅の待合室も暗い(写真11)。南京から来た特快、T5次に乗る(午後8:04発)。今度は軟座で、マラヤ鉄道の2等レベル。なかなか快適である。「中國鐵路は硬座か硬臥に乗らなければならない」という旅行者の掟が存在し、軟座や軟臥に乗るのは後ろめたい。しかし上海まで24元(=354円)で買えるちょっとした快適さ。このくらいの贅沢は許されるだろう。
戻ってきた上海は雨だった。
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