イエイエ上海 page 4
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7月26日、月曜日。上海。小雨。
昨日みつけた屋台街へ朝食を買いに行く。肉包、生煎、麺。いろいろあって毎日違うものが食べられそうだ。今日は鍋貼(2元=30円)。
虹口[hong2 kou3]/ホンキュウへ向かう。もったいないが、体力の節約のため一駅だけ地鐵に乗る。地上に戻ると、小雨は止んで晴れ間がのぞき始めていた。ディック・ミネが、♪夢の四馬路スマロか、虹口ホンキュウの街か♪と唄った虹口は、かつて「日本租界」とも呼ばれた日本人街だった。最も有名な上海の日本人、内山完造はここに内山書店を構えていたし、金子光晴はここに滞在して『どくろ杯』[B42]の中に様々な描写を残した。魯迅[lu3 xun4]が転居しながら亡くなるまで住んだのもここだし、現在眠っている墓もここにある。上海に来たら見ずには帰れない、日光かナポリかというところである。現在の虹口は、街の雰囲気は変わってしまっているようだが、ところどころ古い建物も残っている。
旧共同租界内では、景林堂Hongkew Methodist Church(現・景靈堂)や、『上海』[B169]に出てくるトルコ風呂のある建物(写真2)などを見る。景林堂(写真1)は、蒋介石[jiang3 jie4 shi2]と宋美齢[song4 mei3 ling2]が結婚式を挙げた教会であり、宋姉妹の父、宋耀如が牧師を務めたこともあったらしい。横光利一は、1928年、上海に1か月滞在し、帰国後に『上海』を書いた。このとき金子光晴は二度目の上海訪問中であり、上海での彼について、『どくろ杯』に「いなか者丸出し」の「愛敬者」と書いている。『上海』の気取った「ハイカラな小説」のイメージとは大きなギャップがあっておもしろい。
旧共同租界を出ると、魯迅公園あたりまでは越界築路と呼ばれた地域だ。実質的には租界の延長だが、租界と華界の勢力関係は複雑であり、それを利用して革命家なども多く住んでいたらしい。昔も今も虹口のメイン・ストリートである四川北路(旧・北四川路)を北上して横浜橋を渡り、金子光晴が滞在した余慶坊、内山書店の跡地、魯迅の住んだ家などを見る。『どくろ杯』に登場する場所の中で、虹口マーケット、新雅茶室、日本人倶楽部などは今はない。
横浜橋[heng2 bang1 qiao2](写真3)は、クリークに架かる短い橋である。何の変哲もない橋だが、『どくろ杯』の横浜橋は、「アナからボル」への転向を巡って苦悩する魯迅と郁達夫[yu4 da2 fu1]の姿とともに、強い印象を残している。橋のたもとには古いアパートがあり、洗濯物の翻る光景はかつての面影を偲ばせるが、その向こうには、ピンク色の新しい高層マンションがそびえ立っている。
余慶坊[yu2 qing4 fang1](写真4)も、変わらずに残っている場所のひとつだ。金子光晴の三度の上海訪問のうち、森三千代を伴った一度目(1926年)と三度目(1928-9年)にここに滞在した。余慶坊は、モノトーンの長屋が幾棟か、路地を挟んで並んだところで、敷地内に一歩入ると、そこは住民だけの世界だ。細い路地は、地面は自転車、頭上は洗濯物で賑わう庶民的な長屋で、住民の往来も頻繁である。金子光晴が滞在した123番地は、どっしりとした黒い木の扉に、青い番地の表示が目立つ。
『どくろ杯』に記された内山書店は、余慶坊の向かい、北四川路魏盛里にあった最初の店である。魯迅が初めて訪れたのもここだが、今は跡形もなくなっていた。1929年に移転して1945年まで続いた店は、もう少し北の、四川北路と山陰路(旧・施高塔路Scott Road)の交わるところにある。現在は、中國工商銀行(写真5)になっているが、壁には、1980年に上海市人民政府が取り付けた次のようなプレートがある。‘上海市紀念地點 内山書店旧址(1929-1945)’。
金子光晴が魯迅と親交を持ったのは、三度目の滞在時だと思われるが、このとき魯迅が住んでいたのは、景雲里という里弄住宅である。ここは余慶坊や魏盛里よりもう少し西の横浜路にあって、魯迅の他にもいろいろな左翼文化人が住んだらしい。余慶坊と似た雰囲気の、庶民的で雑然としたところだ。この後移り住んだラモス・アパート(現・北川公寓)は、内山書店のすぐ近く。ここから山陰路を北上すると、1933年から1936年に亡くなるまで住んだ大陸新邨がある。三階建て、赤煉瓦造りのテラスハウスで、景雲里とは格段の差の立派な家だ。魯迅が住んでいた部分は‘魯迅故居’(写真6)として一般公開されている(4元=71円)。魯迅が使った家具なども置かれた内部を、係員の案内で見学する。直前にやってきたグループは、何かの撮影を行っていた。
『上海時代』[B243]を書いた元・聯合通信(後に同盟通信)上海支局長、松本重治が住んでいたアパート(写真7)などを見ながら、魯迅公園[lu3 xun4 gong1 yuan2](旧・虹口公園)へ。公園なのに有料(1回1元=15円)で、定期券も買える。木立や池のある広大な公園で、木陰では気功をやっている中高年の姿も見られた(写真8)。中には、パジャマに革靴という奇妙な服装のおじさんもいる(写真右)。一般に、上海には服装がきちんとした人が多い。真夏の上海は非常に暑く、短パン姿の人も多いが、皆きちんとソックスを履き、革靴や皮のサンダルを履いている。
魯迅の名前が付されたこの公園には、魯迅の墓(写真9)と魯迅記念館がある。墓の前には椅子に座った巨大な魯迅の像があり、墓碑には毛澤東[mao2 ze2 dong1]による‘魯迅先生之墓’の文字がある。堀田善衛も『上海にて』[B133]に書いているように、このような大仰な祭り上げられ方には、居心地の悪さを感じないわけにはいかない。
公園内にある茶屋に入る。毛峰[mao2 feng1]を飲んで香瓜子(ひまわりの種)をつまみ(34元=502円)、歩き続けの疲れを癒す。薄暗い店内と、赤いポットと、トランプをしながらいつまでもねばっている隣のお客。渋いというか、ひなびたというか、時代遅れというか、そんな感じの茶屋で、なかなか居心地がいい。おいしいお茶と大陸的情緒を味わい、殻むきに熟練する。
公厠に入っていると、突然スコールがやって来た。しばらくトイレの入口で雨宿りして、小降りになった公園を歩き始めると、日本語で話しかけてくるおじさんがいる。いかにも怪しげだが、「妹が日本に行くんだけど」という感じではなく、「こういう街は嫌いですか」などと言いそうでもない。普通話も話せるところを見せつつ、適当にやり過ごす。
華界に出てしばらく歩き、横浜橋で渡ったのと同じクリークに出る。さっきのスコールが嘘のように、すっかりいい天気になっている。どぶ臭い真っ黒なクリークに沿ってしばらく歩くと、八字橋(写真10)が見えてきた。ここは、1932年、1937年の二度の上海事変で激戦地となったところだ。『上海 支那事変後方記録』にも、「かつての陸戦隊の最前線、前の上海事変以来、有名な大銀杏」の解説と共に登場している。『上海』は、陸軍省と海軍省の後援で作られているにもかかわらず、全編に嫌戦感の漂う傑作だ。特に移動撮影が印象的で、クリークを無常感が流れるような映画だった。「有名な大銀杏」はもうないが、目の前の汚いクリークが映画のシーンに重なっていく。
2元(=30円)のエアコンバスで豫園まで一気に南下。行こうと思っていた上海老飯店が工事中だったので、かわりに緑波廊酒樓へ行く。九曲橋の近くにあって、湖心亭などと雰囲気が合うように作られた、きれいなレストランである。西湖蓴菜湯、清蒸鱸魚(スズキ)、宮爆仔鶏丁、蒜茸空心菜などで146元(=2155円)と、なかなか豪華な夕食になった。下から読んでも‘REEB BEER’という、くだらない命名の力波[口卑]酒を飲む。
黄陂路站まで歩き、地鐵で帰る。窓口で前の人がクレームをつけているのをおとなしく待っていたら、次々に横から割り込んで来るので頭にきた。
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