香港映画の黄金時代I

シンポジウム「日本香港映画交流史」

開催日 2002年11月30日(土)
場所 国際交流基金フォーラム
ゲスト 四方田犬彦(明治学院大学教授)
門間貴志(明治学院大学講師)
司会 石坂健治


門間氏による日本香港映画交流史の概略
門間氏のお話を受けた四方田氏のお話
対談
質疑応答

門間氏による日本香港映画交流史の概略

今、日本と香港合作の『香港の夜』を観ていただいて、このあと『香港の星』『ホノルル-東京-香港』と、同じ千葉泰樹監督、尤敏ユーミン、宝田明の共演でシリーズ化していくわけですけれども、なぜ当時このような映画が可能だったのかという背景について、簡単にお話ししたいと思います。パンフレットにだいたい載っておりますので、詳細にお読みいただければわかるかと思いますが、これをふまえてかいつまんだ説明をしたいと思います。

昨夜目黒の台湾料理屋に行きまして、そこの台湾人のおばさんに「明日、宝田明に会うかもしれない」って言ったら、「写真撮ってきてくれ」と言うんですね。「どうして?」って言ったら、「店に貼りたい」。宝田明というのは台湾でもそのくらいすごい人気があって、それは日本の映画が台湾で上映されていたのと、この合作が上映されていたという背景があると思うんです。渋谷に新楽飯店というやはり台湾人がやっている中華料理店がありまして、そこに15年前から通っているんですが、壁に飾ってあるのが尤敏さんのポスターなんですね。尤敏と、樂蒂ロー・ティっていう同じキャセイで活躍していた女優さんの、時代劇風のクラシックな衣装をつけたポスターが貼ってあって、前からこれはいったい誰なんだろうと思っていました。最近これは尤敏だった、これは樂蒂だった、というのがわかって、やはり台湾、香港同時期に人気があったんですね。話を聞くと、小林旭、石原裕次郎、宝田明、その3人の名前をみんな挙げるんです。日本人が香港の映画に出ているというのは、それまで僕もよく知りませんでした。10年ほど前に、私が勤めていました映画館で、『香港の星』のプリントがきれいなものがありまして、上映したことがあります。それで動いている尤敏を初めて見たんですね。それでもうすっかり尤敏にはまってしまったわけですけれども、残念ながら、『香港の夜』と『ホノルル-東京-香港』はヴィデオが出ていない。それで今回の上映のために初めて観ることができたんです。

年表に書きましたが、戦後の香港映画と日本映画は非常に大きなつながりがある。これも僕は最近までよく知らなかったんですけれども、驚くべき濃密さでくっついているわけですね。考えてみますと、戦後の東アジアの映画は、どこの国の映画でも日本との関係は必ずあるんです。それは中国映画、香港映画、台湾映画、あるいは韓国と北朝鮮もそうなんです。もちろん大東亜共栄圏という暗い時代もあるわけですけれども、その前から、あるいは戦争中、そして戦後もその関係が実は全然切れていない。具体的にみますと、中国大陸の場合は、満映の設備を接収してできた東北電影に、多くの日本人スタッフが残って技術を伝えたということがあります。それから朝鮮戦争の際に、その人たちが北朝鮮の映画人を中国へ招いて、北朝鮮の映画を作っているんですね。日本人のスタッフが撮影とか編集をしている。北朝鮮にも中国映画にも、表には出てこないですけれども日本の影響があるわけです。台湾、香港の場合は、戦後も交流があって人材が流れている。韓国の場合は表向きには日本映画は禁止なんですが、今フィルムセンターで60年代の特集をしていますけれども、非常に多くの映画が日本のリメイクという形で技術が流れているわけですね。その中で一番濃密なのは香港ではないかと思いまして、今回特集させていただきました。

香港映画というのは、もともとローカルな広東語の映画という形で始まったわけです。というのは、1930年代の中国映画は上海が中心でありまして、香港は広東語で撮る、上海は北京語で撮る、そういった違いがあったわけです。戦争で日本が負けたあとに共産党と国民党の内戦が起こりまして、上海にいた多くの映画人が香港に移って来たわけです。それで今度は香港映画というものが本格的に始まっていく。その初期に、例えば上海あった新華という会社が1947年に香港に移って映画を作る。他にもいろいろなショウビジネスの人が香港にやってくるわけですが、やはりインフラの点で香港は非常に弱かったわけですね。その新華の社長の張善[王昆]という人がいますけれども、この人は、日本が上海を占領している時期に、日本の国策映画を作っていた中華電影という会社にいた人です。川喜多長政さんがそこにいたわけですけれども、この二人が組んでたくさんの映画を作っていた、そういう関係だったわけです。その張善[王昆]が香港へ行ってから、川喜多さんと再びコネクションを結んで、日本でロケをしたりとかそういった交流が始まってくるわけですね。スタッフの養成のために外国で録音とか現像をする、そのために日本ロケを行うというようなことをしていたわけです。そのへんから、川喜多さんと東宝というラインがあって、香港との関係がまた始まったんだと思うんですけれども、残念ながら張善[王昆]さんは1957年に日本で亡くなってしまって、その関係はいったん途切れるわけです。

50年代、60年代に香港の映画を盛り立てていたのは二つのメジャーな会社、ショウ・ブラザーズとキャセイなんですね。最初はキャセイではなくて名前が幾つか変わるんですけれども、ここでは便宜上キャセイといいます。キャセイとショウ・ブラザーズの二大メジャーがしのぎを削っていく、そういう時代に入っていきます。当時ショウ・ブラザーズとキャセイは全く違いました。ショウ・ブラザーズは、とにかく人材を日本から招くということを徹底して行いました。初期の頃は例えば豊田四郎さんに『白夫人の妖恋』を撮らせたり、溝口健二と『楊貴妃』を作ったりしますけれども、これは合作というより資本提携という形でありまして、内容はもう日本映画なんですね。

ショウ・ブラザーズは技術面を強化するためにその後も日本からスタッフを招いて、その代表格が、知っている人も多いと思うんですけれども、カメラマンの西本正さんですね。彼は、先ほど言いました満映(満洲映画協会)でカメラマンをしていた人ですが、日本に戻って新東宝で映画を撮って、そのあと招かれて香港映画を撮るわけです。彼は、香港にカラー映画とかワイドスクリーンが少なかった頃にそれを教えて、「香港カラー映画の父」と言われているんですけれども、彼の提言によっていろいろな監督が香港に招かれていくわけです。名前を挙げますと、若杉光夫、中平康、島耕二、古川卓巳、松尾昭典。たくさん行くわけですけれども、おもしろいのは、こういう人たちは日本のプログラム・ピクチャーの監督なんです。ショウ・ブラザーズは能率を欲しがったわけですから、そういう人を呼びました。その中で特に貢献したのが井上梅次さんだということが最近知られてきました。

おもしろいのは、日本の監督が行くんですけれども、彼らが撮るのはあくまでも香港映画なわけで、香港の俳優が北京語を喋って香港の話を撮るというのがメインでした。それから、日本人の監督やスタッフの名前はすべて中国語の名前に変えられていますから、普通の香港の人はこれが日本人の映画とは思わない、そういう状況だったわけです。ですが井上梅次さんの場合だけは本名で名前が出ました。というのは、日活の映画がたくさん香港に入っていまして、ショウ・ブラザーズが100本くらい買っていて、井上という名前は知られていたということですね。ですから井上という名前を出すことが逆に宣伝になるということだったと思います。井上さんは、ミュージカル映画、アクション映画をたくさん撮って非常にヒットさせていくわけです。そのミュージカル映画に、日本人の作曲家、服部良一さんが招かれて行く、そして服部さんが葛蘭グレース・チャンの歌を指導する、そんなことがあるわけですけれども、葛蘭という女優に服部さんを紹介したのは実は山口淑子さん、つまり満映にいた李香蘭であったり、それからもちろん服部さんと李香蘭の関係というのも上海時代に遡るわけです。すべて戦前の上海映画のコネクションから香港映画が始まっていくという、そういう過程がありました。そしてショウ・ブラザーズは、70年代の初めまでたくさん日本人を招聘しては留まらせて、力をつけていくわけですね。

それと対照的なのがキャセイ・オーガニゼーション。本当はMP&GIという会社で始まるんですが。これが日本と合作をするんですが、こちらの場合は香港に呼ぶのではなくて、がっぷり組んで合作を作るというスタイルをとりました。その典型がこの宝田さんと尤敏の三部作。そのあとも加山雄三さんとかそういう人を呼んでは合作映画を作ったわけですね。この映画をご覧になっておわかりかと思いますけれども、中国人と日本人のキャスティングが対等といいますか、主従関係にないんですね。例えば尤敏さんは、最後の台詞もそうですが、日本語で言ってもう一回中国語で言うんです。これは多分、非常に重要な台詞の場合は二回言うんですね。日本人の観客にもわからせて、同時に香港の観客にもわからせる。どうでもいいシーンは中国語だけだったり日本語だけだったりして、字幕処理をするんですけれども。お互いの観客というのを尊重しながら作っている、そういう関係だったと思います。多分それはかなりたいへんなことだと思います。単純にショウ・ブラザーズのように監督が撮るよりも、お互いの国民感情といいますか、観客の好みに合わせて、お互いが折衷案を探り合いながら作っていった映画ではないかと思います。特にこの一作目の『香港の夜』の場合は、戦争の過去の問題であるとか、あるいは今観ると残留孤児問題とも絡んできますけれども、日本における中国人蔑視の問題とか、そういう様々な問題を込めて、基本的には『慕情』のリメイクだったんですけれども、かなり複雑なことをしているような気がします。ですからショウ・ブラザーズの、日本人監督を呼んで三月で一本撮るというようなスピード主義とは対照的に、じっくり作っていかざるを得なかったんじゃないかということが想像できます。

このコンビは3本で終わってしまったわけですね。というのは、尤敏さんが結婚して引退してしまったという背景が、こちらのインタビューにも書いてありますけれども。もしそうでなければ、これは5本、6本続いていた可能性があるわけですね。こちらも宝田さんとの対談で出ていましたけれども、この3本の映画を続けてご覧になれば非常によくわかると思うんですが、一本目は初めてのケースとしてかなり緊張感がある。つまりお互いやり方が違うわけですから、いろいろぶつかり合いもあったわけですね。内容も、日本人が最後に死んでしまう悲恋で終わる。二本目の『香港の星』は少し力が抜けて、もうちょっと楽しいメロドラマになっている。でも最後はやっぱり、日本人と中国人は結ばれないで終わっていくんですね。ただ、結ばれるかもしれないという含みをもたせた終わり方なんです。三本目の『ホノルル-東京-香港』はもう完全にコメディになってしまって、最後には結婚してしまうわけです。これは、戦後の日本と中国の関係をもう一度回復させ、友好的なものにするためには、一種の通過儀礼としてなければならない。そのステップを踏んで3本が撮られていった、というようなことをおっしゃっていましたけれども、例えば韓国でもこういうことがあってもよかったんじゃないかとちょっと思いました。

65年というのは日韓の国交が回復した頃ですけれども、その頃に実は合作の話がありました。日本人の原作で『李朝残影』という映画、申相玉シン・サンオク監督が撮りましたけれども、これは最初の日韓合作映画になるはずでした。ですが、韓国では日本の映画を公開できないということで、結局韓国側が単独で作ったんですけれども、これも日本人男性と韓国人女性が恋をする話なんですね。もしこれが合作でできていれば、ひょっとしたら日本と韓国が同じように合作を重ねていって、また違う関係、また違う日韓の映画の道ができていった可能性があるんじゃないかと、今回の映画を観ていてちょっと思いました。

日本と香港との関係は、いったん70年代の前半に途切れてしまいます。というのは、キャセイの社長以下数十名が事故で亡くなってしまって、キャセイの勢いが衰えてくるんですね。ショウ・ブラザーズの方は、どんどん日本から技術を導入して力をつけて、独自の監督もどんどんデビューさせて、もう日本人の監督はいらない、ということになったのではないか。70年代というのは、韓国も日本も香港も、映画が斜陽産業化していく時期に重なっていまして、もう大手が合作を作るような時代ではなくなってしまった、たまたまその時期に重なったからだと思いますけれども。おもしろいのは、80年代の終わり頃から、また日本と香港の関係が深まってくるわけです。これは監督の交流ではなくて、役者の交流に変わってくるんですね。つまり香港側は日本の役者、例えば男性スターとか女性スターを必要とするわけで、それを日本から呼んだ。日本の方はアジアブームという変なものがありまして、「香港で撮ったらなんか楽しいだろう」、それで香港ロケをまた始めていく、そういう状態。ですから非常におもしろいのは、70年代にぽこっと終わりにして、我々若い世代、っていうと変ですけど、は急に香港とかアジアとの交流が始まったように思うわけですけれども、実は50年代、60年代にはこれだけ濃密なアジアとの関係があって、それがすっかり忘れ去られている。ですからこの上映もそうなんですが、こういう映画をどんどんヴィデオ化して観たいなという感じなんです。

ここに分厚いカタログがありますけれども、これは今年の香港映画祭で、今日観てもらったキャセイという会社の特集を、こんな分厚いカタログを作って延々上映していたわけです。これを観て思ったのが、非常に東宝とカラーが似ているということですね。役者のカラーも非常によく似ています。今日も司葉子さんを見ていましたら、香港の林黛リン・ダイみたいだなと逆に思ったりとか、向こうの映画を観ていますと、張揚チャン・ヤンという二枚目スターがいますが、なんとなく東宝の宝田さんとか高島忠夫のような、ふっくらしたお坊ちゃんタイプの美青年という感じがしまして、非常によく似ている。ドラマも似ているんですね。尤敏さんが出ているいくつかの映画を観たんですが、だいたい尤敏さんの役というのは、片親がいないとか孤児とかが非常に多くて、成長してから本当のお母さんが現れて戸惑うとか、そういったホームドラマが多いんです。今日尤敏の叔父さんというか京劇の役者をやっていました王引ワン・インという役者がいますけど、この人がだいたい尤敏さんのお父さんをやるパターンが多いですね。尤敏さんのボーイフレンドは張揚がやる。継母は王莱ワン・ライという役者さんがやる、これは草笛光子さんみたいな感じで。これは日本だったら、山口百恵と宇津井健と三浦友和と草笛光子で大映ドラマみたいな感じなんですけども、非常に構造も似ているんですね。

70年代に日本の映画は香港で全然流行らなかったといいますけれども、逆にテレビドラマが非常にたくさん放映されて、山口百恵のドラマなんかが人気があったというのは、山口百恵が人気があったという以前に、こういうドラマ自体が香港の人にとって受け入れられる素地があったんじゃないかいう気がします。これは遡ればやっぱり50年代から日本と香港が交流して、お互いの映画を観て、ただ日本側は観ていないんですね、香港の映画を。そこが違うんですけれども、かなり同じメンタリティを香港と日本が持っていた。これは歴史の問題ですけれども、中国とか韓国ともし映画の交流があれば、同じような合作シリーズが生まれて、新たな中国人スター、韓国人スターが60年代にもういたんじゃないかという想像をしてしまいます。

最近になってやっと香港の側でも取り上げるようになってきたので、是非とも日本でも、これは第一弾ですけれども、第二、第三弾と、このへんの映画を発掘してほしいなと思いました。簡単ですが、これが大体日本と香港の交流の概略みたいなところです。


門間氏のお話を受けた四方田氏のお話

いろいろ勉強になるようなことをありがとうございました。今門間さんのほうから非常に通時的に歴史的に、香港と日本の映画人の交渉の概略みたいなことを教えていただいたわけなんですけれども、私も今日『香港の夜』は初めて観ました。というのは、それまでに他の2本の映画、これから皆さんがご覧になる映画は観ていましたが、今回のこれは数週間前に東宝の倉庫で発見されたというものですから、何十年ぶりに、日本というか世界中で観ることになったわけです。本当に貴重なものだと思います。

正直言って、本当に感動いたしました。というのは、アメリカのハリウッドが香港を舞台に、アメリカ人の男性と香港人の女性を主人公にしたメロドラマを撮るという、そういうのを私たちはさんざん観てきたわけです。そういうものと比較してみたときに、この『香港の夜』では、日本と香港、日本の男性と香港の女性と日本の女性、その関係のあり方というのが随分違うなという印象をもちました。例えば、今でも香港のイメージを欧米の世界の人たちに与えているのは『スージー・ウォンの世界』という作品ですね。スージー・ウォンという、名前自体がおかしい、中国人にそんな名前の人はいませんが、香港の島の方にある銅鑼灣か灣仔に貧しい娼婦がいて、そこに善意あふれるハンサムなアメリカ人がやってきて、なんとか彼女をこの貧しい不幸な生活から救い出してあげようとする。アメリカには文明というものがあるわけですから、その世界に自分の愛の力で救い出してあげようという「善意の引き上げ」のラブ・ロマンスなんです。そういうものをアメリカ人どころか、ハリウッドを通して世界中の人は観てきたわけで、日本でも観てきたわけです。今でもアメリカのトップレスバーとかへ行くと、東洋系の人が出る店の名前が『スージー・ウォン』だったりするわけですね。

ところが、そういうハリウッドに出てくる香港人の女性、あるいは日本人の女性でもいいんですけれど、必ずこれは一段ランクが落ちるわけです。白人の男の方が優位であって、文明の世界から来て彼女を引き上げてあげる、そういうふうな映画がずっとあってきたわけですね。ところが、この『香港の夜』という作品を観てみますと、全くそういうものを感じないわけです。つまり、同じメロドラマであり、ハリウッドから影響を受けていると、『慕情』にヒントを受けていると聞いていたんですけれども、ここで日本人の宝田明青年と、それから尤敏と司葉子ですが、これは全く対等の、お互いに自分の個人というものをもって存在しているというそういう中で、三種類の言葉を使いながら対等にディスカッションをする。これはやはりハリウッドで作っていたメロドラマとは全く違うわけですね。全く同じレベルでやっている、これは僕は非常に痛快なものを感じました。気持ちがよかったですね。

今、門間先生のほうからキャセイ、つまりMP&GIについて簡単な概略を教えていただいたんですけれども、私も今年の4月に、香港映画祭で大きな特集を組んだときに参加したものなんですが、この映画会社自体の歴史を考えていて、そこに通底しているコスモポリタニズムといったものに非常に関心を持ちました。といいますのは、このキャセイを作った陸運濤という人なんですが、この人のお父さんというのが本当に極貧の出から始まって、南中国、広東からマレイシアに行って、そこで車引きじゃないですけれども、力仕事、肉体労働から始まって財をなして、その人の息子なわけです。お父さんがたくさんの奥さんを作りまして、その一番下に生まれた子供が男の子で、それがこの陸さんという人なんです。この陸さんという人は、実は子供のときからずっとスイスのギムナジウムに行って、そしてイギリスで教育を受ける。オックスフォードかなんかをたしか出ているはずで(注:翌日のシンポジウムによればケンブリッジ)、ずっとヨーロッパの上流階級の中で少年時代を過ごして、そして第二次世界大戦の前に、若き青年実業家としてマレイシア、シンガポールに戻ってくるという、そういう経歴の方なわけです。その人が戦後になって、今度は観光とかいろいろな事業の中で映画産業もやろうではないかということで、このMP&GIが成立するわけです。ですから、幼少時からヨーロッパの上流階級の中にずっといた人であって、間違っても香港の旺角で牛肉麺を食べているというそういう人たち、Mr. Booの世界とは全く縁のない世界で過ごしてきた。だから、ある種非常に育ちのいいコスモポリタニズムというか平等主義みたいなものを持っていたと同時に、アジア人であるからといって卑屈になるというところを全く持っていない。戦争中は、日本がやってきますとインドのカシミールまで疎開をするというそういう生活をしていた人です。

1950年代にこの陸という人が映画産業を始めるときに、一番最初に始めたのはマレイシアでマレイ語の映画を撮ることだったわけです。それも僕は何本か観ましたが、それはおもしろい映画があります。怪奇映画があったりするんですけれども。それともう一方で、少し遅れて1956年からだったと思いますけれども、林黛主演で初めて香港で映画を撮るわけです。それが私たちが今観ているキャセイの一番最初の映画になるわけですが、もうこのときから彼のコスモポリタニズムは発揮されている。というのは、一番最初に林黛という女性を使って撮った映画が『お菊さん』(注:“菊子姑娘”)だったんです。『お菊さん』というのは、ピエール・ロチが明治時代に日本に来まして、お菊さんという人と恋愛をするという、フランス人と日本人の恋愛の話なわけですけれども、それを最初に撮るわけです。これがヒットすることで、「じゃあこんな感じでいこう」ということになって。ですからこのキャセイという映画会社が成り立つときに、初めからこういうコスモポリタニズムがある。それはヨーロッパどころか日本もそして中国も、すべて包含されるようなものだった。

僕はこういうふうにできたキャセイというのは、香港映画の中で非常におもしろい現象だと思います。というのは、ショウ・ブラザーズあるいは70年代のゴールデン・ハーヴェストからずっと現代に至るまで、中国映画、香港映画、特に香港映画のラインには、中国から切り離されているということもあって、非常におもしろい形でナショナリズムが強いですね。このナショナリズムというのは、共産党政権とか台湾とかという公、すなわち国家ではなくて、「天下」というものについてのナショナリズムなわけです。中国人のナショナリズムというのは、韓国人や日本人が考えるような国家に帰属するものではありません。そうではなくて、香港があり台湾があり、あるいは大陸がありニューヨークのチャイナタウンがあり、というふうな中国人が住んでいるところすべてが天下でありまして、天下を考えることがナショナリズムであって、国単位ではありません。香港映画の基本になったのは、そういう天下をめぐるナショナリズムだったわけです。ところがキャセイに関していえば、そういうふうなナショナリズムというものが非常に希薄であって、むしろ陸さんの生まれ育ちから始まるコスモポリタニズムが非常に強くあったんです。僕はこれがキャセイというものの非常におもしろい特徴だったと思います。そして『香港の夜』とか『香港の星』、そういった連作を可能にした基本的なものになったんじゃないかと思います。

香港の歴史をちょっと考えてみますと、1945年のあとで非常に多くの人たちが流入したり出て行ったりして、49年に共産党政権が成立してからは、胡金銓を含めて多くの知識人が亡命してくるわけですね。あるいはあちら側に行ったりするという出入りがすごかったわけですが、基本的にハンドオーヴァーまでの香港を作る体制というものは、67年のあたりで大きな変動を迎えるわけです。1967年に何が起こったかといいますと、66年の文化大革命のあとで、反イギリス闘争、反植民地闘争というのが香港の知識人や学生たちの中にあり、それがある種の暴動まで起こすようになったわけです。それは全世界的にいうと、1968年から69年、72年までに世界中で起こったそういったものの先駆けであったといえるかもしれません。67年に反イギリス植民地主義闘争があったときに、当然中国共産党政権が味方してくれるだろうと思っていたのに、毛澤東はそれを無視して裏切ったわけです。これが大きなトラウマを香港の知識人に残して、例えば許鞍華アン・ホイというような人たちにある種の挫折感を与えたわけですが、それ以前とそれ以後の香港は変わってしまうわけです。その中から香港のナショナリズムは非常に変わって出てきて、広東語映画の興隆までいくわけですが、それ以前の香港、つまり60年代初頭の香港というのは、そういう以前のある種の安全地帯、植民地の中にありながら、コスモポリタニズムに対する基本的な信頼みたいなものがあったわけです。それが映画によく出ているなと思いました。

私も今年4月に行きまして、だいたい20本か30本MP&GIの作品を観たんですけれども、50年代の終わりから60年代のこの会社が作った映画を観ますと、香港の空間の中に、ある種の中心と周辺というものがはっきりと出ていることがわかります。これはまた門間さんがいろいろ細かくおっしゃられると思うんですけれども、まず香港の中心というのは半島の一番先にあるペニンシュラ・ホテルとその前の駐車場なんですね。そのへんの空間、ここに車を乗りつけるところから映画が始まるというのが非常に多いんです。あるいは最後になって、そのへんの宝石屋さんに尤敏が働いているとか、そういうふうにとにかく香港というとペニンシュラ・ホテルの周辺が中心である。あるいはもうひとつ離れたところで、ブルジョア的なリゾートであるリペルス・ベイ。このふたつがある種のブルジョア的なコスモポリタニズムの中心であるわけです。そういう方向があってまわりにいろいろ住宅地があるわけですが、空間的な秩序というのがはっきりしていた時代だった。ですからそこには間違っても、1970年以後の、例えばMr. Boo、許冠文マイケル・ホイが広東語で冗談を言って逞しく生き残る、旺角とか西灣河の世界はないわけです。

我々が見る香港の空間というものが、はっきりとそういうコスモポリタンの二つの極で括られていたということ、その時代に対するノスタルジーが今の香港人にはあると思います。特にハンドオーヴァーのあとで、60年代に対する香港人のノスタルジーは非常に強いと思います。張國榮レスリー・チャン(注:梁家輝レオン・カーファイの間違いであろう)が『もう一度行きたい香港』(注:『もう一度行きたい、あの頃の香港』)という本を出したり、あるいは王家衛ウォン・カーウァイの作品もほとんどが60年代前半を舞台にしているわけですよね(注:2本だけだと思う)。つまり『花様年華』に表れている世界というのは、60年代前半のある種のコスモポリタニズム、つまり67年のriotとかハンドオーヴァーに無関係にあった時代の香港なんです。ですから今日この作品を観たときに、これが王家衛や張國榮が子供の頃に体験していたようなあの頃の香港だったんだなという感じを持ちました。これ自体がまた社会学の対象になると思うんですけれども。

尤敏は1935年生まれなんですけれど、日本でいいますと司葉子さんはたしかもうちょっと年上なんですけど、同じ世代でもうちょっと上になると若尾文子さん、岡田茉莉子。それから山本富士子はもうちょっと上ですけども、やはり日本でも一番すごい女優たちがわーと出てきた時代があって。そして香港でもMP&GIはものすごく女優を大切にしましたから、林黛、林翠リン・ツイ、葛蘭、樂蒂、それから尤敏と、こういった人たちが1930年代前半にずらっと生まれているというのは、やっぱり東アジアにおける女優の時代というのがあって、それを育んだスターシステムというものがあった時代なんだなという感慨を感じました。


対談

■門間:60年代前半は韓国もそうですね。やっぱり女優がたくさん出てきたわけです。尤敏さんは、日本でこの映画が上映された頃に非常に人気がありました。ここに当時のキネマ旬報があるんですが、尤敏さんのインタビューが載っているんですね。おかしいのは、『香港の夜』の撮影がまだ終わっていないんですね。「これから九州に行きます」って言うんですね。柳川へ行ったわけですね、いじめられに行くんですけれども。つまり、映画ができる前からがんがん宣伝してたってことですね。例えば同じ号にですね、これ広告ですね、『大学の若大将』が同時上映だったらしいんですけれども。けっこう東宝としては、鳴り物入りで尤敏を出そうという意図があったと思うんですね。やっぱりインタビューの記事に書いてありますけれども、戦前、戦中の長谷川一夫と李香蘭の大陸三部作、全く同じことはできないわけですけれども、やっぱり第二の李香蘭のような中国人スターができないだろうか。それで尤敏さんが選ばれて、宝田さんと組むという話になったらしいんですけれども。ですからかなり知名度が高くて、映画の仕事をしていましたら、たまたま古い人たちが「尤敏さん、そういえばいたね。どうしているのかね」って言うのは何度か聞いたことがありますね。中学生時代に初めて『香港の星』を観て、「世の中にこんなきれいな女性がいるのか」。「初めて女性の美しさを知ったのが尤敏だった」とか、そういうことを臆面もなく書く人もたくさんいたわけです。かなり李香蘭ショックと似たようなものがひょっとしたらあったのかなという感じなんですけれども。

■四方田:尤敏が65年くらいに日本のスクリーンから消えてしまって、そのあと7年か8年だっけ、ニュー・ミュージックのユーミンが出てきたのって。

■門間:あれは中国人につけてもらったっていうんですね、あだ名を。明らかに尤敏を意識していたんじゃないかと思いますね。

■四方田:なるほどね。函館に尤敏という中華料理屋がありまして。本当にあるんですよ。なんであるんだろうと思っていたんですが、そうだったんですね。北海道にロケに行ったときに尤敏が立ち寄ったかなんかで、それで感動してつけちゃったんじゃないでしょうか。

■門間:『香港の星』のほうですね。『香港の星』では北海道でロケするんですけれども。ロケ地のことをちょっと話しますけれども、やっぱり合作でお金をかなりかけて作っているわけですから、日本側にとっても香港のいろいろなところを見せる観光映画の役割があります。ですからもちろん香港を撮るんだけれど、関係ない澳門まで行かなくてもいいのに澳門に行っちゃうのは、やっぱり近いからというのがありますし。それから香港の人に日本のすべてを見せたい。東京を見せるんだけど、ほかにどこかっていうと、「じゃあ今回は九州にしましょう」と。香港の人は雪をあまり見たことがないですから、「雪があったほうがいいや」って、九州なのに雪を降らしてみたりする。かなり珍しいですよね。『香港の星』になると北海道に行ってスキーをしたりとか、尤敏にスキーをさせたりとか(注:尤敏はスキーはしなかった)、やはり観光映画というのはこういう時期には非常に重要なファクターだったと思います。

■四方田:雪なんですけどね、例えば北京から香港に亡命してきた胡金銓キン・フー監督がいますね。胡金銓監督が「望郷の念忘れ難き」という感じで、やっぱりメロドラマに雪を降らせたりしますね。つまり香港でも50年代なんかですと、舞台をはっきりと香港と指定するのではなくて、上海とも北京とも香港ともつかないような、洋風のブルジョア家庭というふうに設定することが多い。というのは、いつか共産党政権がなくなって、上海へ戻れるんじゃないかという気持ちがまだあった頃ですからね。ですからどこともつかない街に雪が降っていたりする、そういうのがあったと思います。

この映画はさっきの王引が出演しているわけですが、引退した元京劇俳優の、尤敏の育ての親という王引、この王引を見たときには感動しましたね。というのは、王引は60年代には、尤敏のお父さんとか尤敏を育てたいいおじいさんの役で出ているわけですけれども、この人の若い頃を見ているんですね。例えば1943年ですが、“萬世流芳”という阿片戦争の映画を、川喜多長政がプロデュースして上海で撮るわけです。そのときに李香蘭(山口淑子)が、「阿片を吸ってはいけない」というキャンペーン・ソングを歌うという役で、踊り子で歌う小娘として出ているわけです。イギリス人が阿片をいっぱい吸っている阿片窟に行って、一人の女の子が「阿片を吸ってはいけない。阿片を吸ったら背が曲がったり、爪が黒くなったり、ひどいことになるから阿片を吸うのはやめしょう」という歌を歌う場面があるんですね。この映画の李香蘭はきれいです。この映画自体が本当に素晴らしい映画です。いろんな意味で重要な作品ですし、ある意味ではブレヒト的な要素を持っている優れた映画です。もし上海映画のいろいろな監督たちの癖を知っていたら、6人の監督がそれぞれの場面を全く違うように演出しているという意味で、どれが誰かということを考えるだけでも興味の尽きない非常におもしろい作品なんです。この“萬世流芳”の中で、李香蘭の小娘が「阿片を吸うのはやめましょう」とみんなに歌を歌っているときに、イギリス人の夫婦がやってきて、「おまえはなんて歌を歌うんだ」と言って彼女を蹴っ飛ばしたり殴ったりする場面があるんです。そこに「何をするんだ、女の子に」と言って彼女を救って、窓から飛び降りてぱーっと逃げていく美青年がいるんですが、それが王引なんですね。

その王引が、1950年代になりますと、ハリウッドから帰ってきた李香蘭、シャーリー・ヤマグチを香港に迎えるんです。“金瓶梅”の主役に迎えて、監督として“金瓶梅”を撮るんですね。山口さんは自分の自叙伝で、国会議員の頃ですから、“金瓶梅”を削っているんですけれども、私は調べました。ありました。「これでしょう」とパンフレットを見せると、「どうしてこんなもの持ってらっしゃるの? 私もう隠せませんわ」と言って認めましたけれど。もちろん金蓮の役を李香蘭がやるんですけれども、監督は王引なんですね。そのあと王引は何本も映画を撮って、そして60年代には今度は優しいおじいさんの役で尤敏のお父さんをやる。この王引という人については、何の研究書もないわけですよ。偉大な映画人です。こういうふうに東アジアのいろんなところを転々としながら、あるところに必ず大きな足跡を残している。そういう人について、香港でも日本でもそれなりの大きな敬意を払わなきゃいけないんじゃないか。何も映画人といえば、フリッツ・ラングとサミュエル・フラーの亡命のことだけを調べるんじゃなくて、王引をやらなきゃいけないんじゃないか。

あるいは1939年に満映が始まったときに、満洲のローレル&ハーディと言われた劉恩甲という人がいるんですね。こんなデブちゃんです。李香蘭の『ハネムーン・エクスプレス』(注:“蜜月快車”)なんて映画に出てきているんですが、そういう人が戦後になって、MP&GIで必ずお父さんの役かなんかで出てくるんです。やはりローレル&ハーディの役で出てくるんですね。そして葛蘭の映画で義理のお父さんの役をやったりする。そういう満洲から上海を通って香港に行くというような、ある一人のコメディアンの系譜ですね。こういう人の流れというものを見つめないと、東アジアの映画の歴史というものは浮かび上がってこないんじゃないかと思います。

今日の企画を見ていても、本当に素晴らしい映画だと思います。いろんな意味でアプローチができると思うんですけれども、日本映画というのは日本という枠だけで考えていく時代はもう終わっているんですね。香港映画にしてもそうですけれども、ものすごく大きな人間の交流があったわけです。それはヨーロッパで、例えばアラン・ドロンがヴィスコンティの映画に出て、そのあとでアメリカ映画に出てという、そういうレベルで人が動いていたわけです。もうひとつは、マレイと南インドがものすごく交流があった。こういうふうな交流の歴史として考えないと、日本映画のアイデンティティとか香港映画の特質っていうのは出てこないのではないかと。ここに門間先生がいらっしゃるのでお聞きしたいんですけれど、これは日本と香港だけではなくて韓国の映画人も絡んできますね。そこをちょっと教えていただきたい。

■門間:実は調べてみますと、香港映画はいろんなところでロケしています。日本との合作、台湾との合作、そして韓国にもたくさん行っていまして、特にショウ・ブラザーズは韓国からたくさん監督を呼んでいるんですね。誰が呼ばれたかというと、申相玉シン・サンオク、金洙容キム・スヨン、そういった人が香港で合作を作って監督をしているんです。

■四方田:韓国のトップですね。

■門間:トップです。60年代からのヒット・メーカーたちが行っているわけですね。例えば申相玉は、かなりショウ・ブラザーズと組んで映画を作っています。合作なんですね、香港と韓国との合作。その利点としては、申相玉が自分で香港ロケに行ったときに便宜がはかれるとかそういうことだと思うんですが。例えば『香港黄金作戦』というスパイ映画が70年ごろにあったりとか、けっこうあるんですけれど、申プロがらみっていうのが多いんですね。申プロダクションはショウ・ブラザーズと組むことによって、ショウ・ブラザーズの映画の配給権を得るという利点もあったわけです。

■四方田:そこに中平康も当然絡むわけですね。

■門間:絡んでいます。それから韓国の河明中ハ・ミョンジュンがショウ・ブラザーズと契約していたという記事があるんですけれど、これはいったいなんのことかと思ったんですが、どうも合作映画に出ていた。それからツイスト・キムっていう韓国の俳優…。

■四方田:ツイスト・キム!あの『裸足の青春』に出てる…。

■門間:ええ、今、フィルムセンターでやっているやつですが。彼も合作映画で香港に呼ばれて行って。というのは、井上梅次監督の映画に2本出ているんですね。

■四方田:ツイスト・キムは伝説的な俳優で、今でもソウルでツイスト・キムを知っていると言うと、「おまえ日本人なのにどうして?」って言われるんですよ。

■門間:彼は韓国では珍しく英語の芸名で。ほとんどいないんですけれども。井上梅次監督の香港映画に出ているんですね。香港と韓国の合作映画なんです。それから尤敏さんが出ている韓国映画があって、尤敏さんと金振奎キム・ジンギュという…。

■四方田:三船敏郎みたいな…。

■門間:『異国の恋』(注:“異國情鴛”)っていう映画なんですけれど。監督は3人いるんです。共同監督で、日本から若杉光夫、香港から一人、それから韓国は全昌根チョン・チャングンです。この3人の共同監督で、香港人の娘と韓国人の音楽家が恋をするというメロドラマを作って、それはもちろん韓国で上映されているわけです。

■四方田:そこに宝田明が絡んだらすごいですね。

■門間:若杉さんは偽名というか中国名でしょうから、これはあくまで韓国と香港の映画で、日本映画ではない。つまり60年代には日本映画禁止ですから。実は日本は韓国と交流がないように見えて、香港を媒介とした三角貿易をしているということではないかと思います。ただ井上さんの映画もヒットしたらしいですね、韓国で。井上さんの名前はそのまま出てきたはずなんで、それを韓国ではどう処理していたのかちょっとわからないんですが。

■四方田:製作が香港だったらそれは香港映画でしょう。

■門間:でも合作でもですね、80年代でしたか、アメリカの映画でしたけれど日本人の監督で、これが問題になったんですね。ですからそのへんどうしたのかちょっとわからないんですけれど。このへんは韓国にいる人を巻き込んで、合作映画がどんなふうに韓国で観られていたのか知りたいと思うんですけれど。

■四方田:極真カラテの映画なんかは79年に韓国でもやってましたよ。私、金洙容監督が来られたときにいろいろ聞いたんですけれど、やっぱり「香港に行ったときはねえ」と言ってましたね。「香港でも、私は韓国人だから毎日キムチを作って食べていました。日本の奥さんたちが「キムチが食べたい」っていうんで、一生懸命作って、みんなに教えてあげましたよ」って言っていました。映画監督の奥さんとかそういう人なんでしょうね。

■門間:韓国映画とか香港映画とか、個々の歴史だけではわからないことがいっぱいあるんですね。共同で四ヶ国の横軸の映画史をやらなければいけないなという気になっています。

■四方田:やっぱりヨーロッパの場合はね、そういうことはいつもあるわけだし、EUになってからもどんどんどんどん当たり前になっているわけですけれどもね。日本、アジアはこれまでバラバラだったんじゃないかというけれど、そうじゃないわけですね。つまり、90年代になって非常に表面的な形の香港映画ブームっていうのがわーと出てきて、それは歴史的な構想まではいかなかったわけですね。あくまで今やっている映画を輸入して、配給会社がちゃらちゃらやっているというのに終わっていたという。実は60年代にもっと大きな意味で、監督が動いたり女優が動いたりいろいろなことがあったわけで、我々はたまたま知らなかったという感じですね。私も子供の時に『香港クレージー作戦』というのを観ていて、「いつか香港に行きたいなぁ」「香港で100万ドルの夜景を見ながら、植木等みたいに女の子に手を…ああいうことをやりたいなぁ」と思ったら、まぁね、間違ってもそういうことはなさそうですね。

■門間:この映画には出ていないんですけれど、あと2本、『香港の星』と『ホノルル-香港-東京』に出ている林沖リン・チュンという人がいます。この人はやたら合作映画に顔を出すんですね。このあと『香港クレージー作戦』にも出てきますし、日本の戦争映画で中国人の役をやったりしているんですが、日本語ができるから呼ばれているのかなぁと思いまして調べましたら、実は日芸出身だったという…。母親が日本人だったという…。この人も全然省みられないというか、いったい誰だったんだろうと。

■四方田:僕は今日の作品を観て思ったのは、例えば許鞍華ですね。『客途秋恨』という映画があって、「お母さんが日本人で、私はずっと澳門で育った」っていう女の子が日本に来て、しかも九州にやってきて、言葉が通じなくて、っていうそういう映画なんですね。この『客途秋恨』は90年代の初めに撮られた映画なんですけれど、30年前に撮られた『香港の夜』に非常に設定が似ているんですね。澳門と九州というのがね。許鞍華は観ているとしたら8歳の時で、私と同い年ですから、それはどうかと思うんだけれども、やっぱりある意味で物語の定型みたいなものがあるわけであって。僕はそういうものを同時に観て、ニュー・ウェーヴはニュー・ウェーヴ、昔は昔で切っちゃうんじゃなくて、香港人の日本体験、日本理解の文脈というのを作っていかなきゃいけないと思っています。

2003年4月の香港映画祭は、今度はMP&GIのライバルであったショウ・ブラザーズが日本とどう組んでいたかという特集とシンポジウムをやるらしいんで、これも絶対行かなきゃ駄目だと思います。今度も相当おもしろいと思いますね。今年4月に行ったら、尤敏のライバルと言われた葛蘭がもう68歳かなんかで出てきて、サインなんかしてもらっちゃって、写真なんか撮っちゃったりして、もう尤敏は亡くなっちゃったんですけれどね、ああいうことが来年もできるかと思うと本当にすごいですね。今日は大スターの宝田明さんが来られるということで、我々は前座なんですけれども、唯一残念に思うのは宝田さんが出てきてるんなら、香港で日本合作で怪獣映画を撮ってほしかったですね。香港のイギリスの総督府かなんかをつぶしていく、そういう映画を作ってほしかったですね。

■門間:最後に、香港のインターネットを検索していましたら、尤敏のファンクラブのページがたくさん出てまいりまして、「私の大好きな尤敏映画」という投票するページを見つけたんですね。第一位は『月・星・太陽』(注:“星星・月亮・太陽”)ですね。あれが得票率43%でダントツで一位です。で、二位、三位ときて『香港の夜』は第四位なんですね。香港の人も多分観ている人は少ないと思うんですけれども。若い人は観てないと思うんですけれども、四位なんですね。

■四方田:『月・星・太陽』というのは、尤敏を含めて三人の美女が出てくる4時間の映画なんですよね。あれはすごい迫力でしたね。

■門間:あれを今度日本でやりたいですね。

『香港の夜』は第四位だと言いましたけれども、他の映画は『ホノルル-東京-香港』が九位、『香港の星』はずっと下がって十六位。1票しか入らなかったという…。まぁ参考にならないと思いますけれども。

■四方田:今の日本の女優さんも、広末とかね、どんどん香港に出て行ってどんどんがんばってほしいと思います。百恵ちゃんがどうしてあっちに出てくれなかったのかといまだに思いますね。日本にも女優はいるんだぞ。どうも今日は本当にありがとうございました。前座は終わります。


質疑応答

■石坂:配給ということまで考えると、もう少し広い地域までこの香港三部作は行っていたと思うんですが。宝田さんもインタビューの中で、東南アジアからもファンレターがじゃんじゃん来たということを言っているんですが、もっと広く配給されていたんじゃないかということについては?
◆門間:香港電影資料館に行きまして、キャセイが出していた雑誌、“南國電影”というんですけれども、そのバック・ナンバーをずっと見ていましたら、「クアラルンプールで『香港の星』上映」という記事が出ていまして、クアラルンプールの劇場で尤敏と宝田さんが舞台挨拶をしている写真があるんですね。もう人がすごいですね。溢れるぐらい人がいて、看板に“宝田先生、尤敏小姐”と名前が書いてあるわけですね。ですからもう、周潤發チョウ・ユンファ以前に亞州影帝というか、アジアの映画スターは宝田明じゃないかと思います。どんどんこれから再評価していかなきゃいけないんじゃないかと思います。

■観客1:香港三部作のことは、この6ヶ月ほど前にNHKラジオ講座のエッセイの宝田明さんのインタビューで知りました。宝田明さんがこのような俳優さんだったということも初めて知りまして、非常に感動しました。三部のほうは先日木曜日の夜に観たんですけれども、草笛光子さんが英語、中国語をかなり上手に使ってらっしゃって踊ってらっしゃると、宝田さんの話を読んだときに頭に浮かんだのが、水野晴郎さんの『シベリア超特急』の第二部だったんですね。この中にご存じの方もいるかいないかよくわかりませんけれども。カルトでふざけた映画とみる方もいますが、水野さんの映画に対する愛情と、アジアにおける映画人に関係があるような映画なんですね。ですから草笛光子さんもかなり意図的に起用されたのではないかなと。水野晴郎さんもこういった時代のアジア映画のことに非常に関心を持たれているのではないかと。そういうことをお二方とも何かご存じなのかなと思いまして、ちょっとお伺いしたいんですけれども。
◆門間:すみません、それ、観てないんです。ただ、この時期はですね、合作だけじゃないんですけれども、日本人があちらこちらに出てきているケースは非常に多いんですね。お金がかかるから全部合作というわけにはいかなかったんでしょうけれど、日本の役者に中国人の役をやらせるということは普通にあったんだと思います。実にたくさんの方が中国語の台詞を話していますね。
◆観客1:『シベリア超特急』というのは山下大将の推理物なんですけれども、満洲とかシベリアとかあちらのほうを舞台にした、やっぱり大東亜戦争がらみのものがかなりありまして、どうしても満洲の映画関係のことも感じるような映画なので、どこかに何かつながりがあればと思ったんですけれども。
◆四方田:僕が思うのは、日本人の中国、満洲についての映画態度というのは非常に一元的なんですね。ブルジョアのノスタルジーなんです。あなたは日本軍国主義が中国人を何人殺したかご存じですか。何百万人殺しています。そういうことが日本の映画には全然出てこなくて、一方で憲兵の役をやって悦に入っている人間のノスタルジーという、そういう映画を若い者がカルト・ムービーとして楽しんでいるというそのこと自体が非常に問題だと思いますね。僕はそういう「麗しの満洲」みたいな立場に対して非常に危惧を抱いています。私は韓国のテレビ局の従軍慰安婦についてのドキュメンタリーに出演したんですけれども、私が考えているのはね、日本人が恐いというのはどこが恐いかというと、日本人の暴力性とか残虐性じゃないんです。本当に日本人が恐いのは、日本人のセンチメンタリズムなんですよ。感傷性なんです。すべての歴史的な記憶といったものを隠蔽してしまっている、美しい物語にしてしまうということですね。それによって服喪、歴史上の死者を追悼するということを蔑ろにしてしまうという日本人の態度です。それは、『ひめゆりの塔』から始まって『シベリア超特急』に至る、ノスタルジックな感傷的な物語なわけです。僕はそういうもの、日本人が持っているセンチメンタリズムに対する嗜好というものが、日本軍国主義の持っている暴力性よりもさらに凶悪でたちの悪いものだというふうに考えています。

■観客2:当時の香港や東南アジアの対日感情というのは、あまりいいものではなかったと思うんですね。その中で宝田明さんはどうしてそういうふうに人気が出たんだろうと、ちょっと不思議な気がするんですけれども、そのあたり何かありましたら教えていただきたいです。
◆門間:もちろん反日感情は高かったわけで、台湾でも東南アジアでもそうなんですが、それと映画は別だったような気がしますね。はっきりとはわかりませんけれども。とにかく台湾と香港では日本の映画がたくさん上映されていて、それを楽しむ雰囲気はあったみたいですね。同時に反日感情が存在しているという感じだったと思います。ですから宝田さんは、香港の映画に出る前からすでに名前が知られていました。
◆四方田:僕は宝田さんについては聞いたことがないんですが、李香蘭の研究をしていたものですから、ちょうど11年前ですけれども『国際李香蘭シンポジウム』というのが香港であって、日本代表として私が行くわけですね。そのときにどうしても聞きたかったことがあったんです。つまり、李香蘭というのは、あんなふうに日本軍国主義の片翼を担うような『支那の夜』とか『熱砂の誓ひ』とか、『支那の夜』なんて題名からいっても屈辱的な名前ですね、彼らにとっては。そういった映画に出ていた人間が、どうして1950年代に王引の“金瓶梅”とか“一夜風流”とかそういった映画に出てくるのか。しかも李香蘭という名前で。そういうことを聞いたんですね。そしたら香港の新人の映画評論家が言うんですよね、「香港人というのは全然そういうことは気にしていない」。私も困ってしまって今でもずっと考えているんですけれど、「香港自体が、共産党側の人間もいたし、国民党側の人間もいたし、地元の香港人もいたし、イギリス人べったりの人もいたし、あるいは親日派もいたし、いろんな人間の寄り合い所帯であって、言語もいろんな言語が集まっている。ある種の何でもありの状況にあった。そんな中で、北京語がどんな香港人よりもきれいに発音できて、歌が歌えて、美形で、コケットリーがある。そんな人間を使わない手はないだろう。映画というのはそういうもんだよ、先生」と言われて、「なるほど」。「あなたの質問は、まるで中国共産党の人みたいだ」と言われて、困ってしまったことがあります。でも宝田明についても、日本人だからどうのこうのというよりも、背が高くて、中国語と英語ができて、そういうことってプロデューサーとしてまず考えたんじゃないだろうかと思いますね。僕も完璧に答えられるわけじゃないし、今考えているところなんですけれど。これは大きな質問だと思います。
◆門間:宝田さんが中国語が喋れるというのは、かなり大きいファクターだったと思うんですね。このあと尤敏さんは、東宝の『続社長洋行記』という映画に出るんですけれども、それでやっぱり香港のお嬢さんをやるんです。そこで出てくるのは森繁久弥なんですけれども、彼は中国語を喋るんですね、映画の中で。満洲帰りなんですね、社長が。そして尤敏が連れてきた婚約者というのが三船敏郎なんですが、彼は中国人の役で、彼の台詞は全部中国語なんです。二言だけ喋るんですけれども。考えてみれば三船さんは青島出身なんですね。彼も中国語ができる人なんです。
◆四方田:森繁さんだってね…。
◆門間:満洲の放送局にいましたから。この頃の日本映画では、もしかしたら北京語を喋る人というのは何人かは実際に喋る人だったという気がします。

■観客3:パンフレットの一番最後のほうに『新座頭市 破れ!唐人拳』というのがありますけれども、日本版では座頭市が勝つことになっていて、香港版では負けるとありますが、これは実在するんでしょうか。
◆四方田:するする。だから来年やるんですよ。香港版は観ていないんで、これが楽しみで。
◆観客3:座頭市が負けるんですか。
◆四方田:ええ。王羽ジミー・ウォンが勝つんですよ、たしか。
◆門間:もうひとつ66年のところにですね、日活とショウ・ブラザーズが合作した『アジア秘密警察』っていうのがあるんです。主演は浅丘ルリ子、宍戸錠、二谷英明なんですが、香港版は主役が王羽。主役の人だけが差し替えられてしまったという…。これも日本ヴァージョンと香港ヴァージョンがあるということで。
◆四方田:あとね、東アジア以外ではバンコックというのをやりたいですね。つまり60年代には「バンコックハリマオシリーズ」というのが韓国で撮られているわけですよね。日本映画では西部劇アクションはだいたい北海道でやるんですが、韓国映画では満洲かバンコックなんですね。だから韓国人は東アジア全域でアクション映画を撮っているわけで、そういうものと重ね合わせるとかなりいろんなものが出てくると思うんです。
◆門間:でも話きりないですね。

■観客4:60年代までこれだけ生き生きとした合作を日本と香港がやっていたんですけれど、日本において香港映画が認識されるのは李小龍ブルース・リーと『Mr. Boo』ですね。この間断絶みたいなものがあって、その間本当に断絶していたのか、それとも何か脈々と繋がっていて、日本にも香港映画ファンというのはずっといたのか、そのへん何か…。
◆門間:今回の合作映画というのは日本と香港両方でやった映画なんですけれど、ショウ・ブラザーズの映画はほとんど日本でやってないんですね。井上さんが向こうへ行って撮った映画は、日本では最近までほとんど知られていなかった。このあいだ東京国際映画祭で『香港ノクターン』をやりましたけれど、あれが多分初めてのことで。ですから香港映画を観ていたわけでは多分ないと思うんですね。合作として、日本人は香港ロケの映画ぐらいに思っていたんじゃないでしょうか、おそらく。70年代は大手の勢いがなくなって合作をすることはほとんどなくなってしまったわけですけれども、倉田さんみたいな一部の人が香港に単身渡ってがんばっているという状況が70年代。
◆四方田:東映があったじゃない。『ゴルゴ13』。
◆門間:ロケですよね、これは。ロケはしたんですね。60年代の場合は、香港ロケっていっても香港じゃないんです。中国ロケのつもりなんですね。つまり、中国ではロケできませんから、中国的なものは全部台湾と香港が代表しているという感じで。それが欲しかったら、中華街に行くか香港に行くかあるいは台湾に行くかという感じです。それもひょっとしたら、今言った危険なノスタルジックなものかもしれないですけれども。
◆四方田:場合によりますよ。僕は来年『ブルース・リーの少年時代』という本を書く予定なんですけれど、李小龍が世界で最後まで上映できなかったのは日本なんですね。1971年とか72年に、山口淑子さんがパレスチナの難民キャンプに行ったら、みんな李小龍を観ているんです。そのあといろんな人がハワイに行くと、ハワイでもみんな観ていて、「なんだ?」って言うんですね。1974年になって、李小龍が死んだあとに初めて、アメリカで撮った『燃えよドラゴン』が入る。一番駄目な映画なんですけれどね。いかに日本の配給業者が香港映画を馬鹿にしていたかということがわかりますね。世界中で「わぁーっ」とやっているときに、最後まで「李小龍なんて、こんなもんはね」という形で相手にしなかった。それが死んだあとで「わぁーっ」となったときに初めて李小龍の映画を入れるんだけど、それは香港で撮ったちゃんとした李小龍映画ではなくて、アメリカ経由の『燃えよドラゴン』から入れるんですね。あれはなんなんだろうって思いますね。ひとつには李小龍は反日映画ですから、ああいうものを警戒したのかもしれないですけれども。
◆門間:いや、それ以前にやはりアジア映画を見下していましたね。李小龍以前に日本で公開された映画は本当に数少ないですね。
◆四方田:でも本当にね、こんなふうな全く対等な映画を撮ることができていながら、もう一方でどうしてそういう香港映画を馬鹿にするみたいなことが70年代にあったんだろうかと、そのへんはちょっと考えてみたいと思います。
◆門間:そうですね。尤敏さんがこれだけ人気があったんだったら、尤敏さんの主演作を輸入するということがあってもいいですね。ただ客人としてしか接してこなかったのかもしれないですけれども。李小龍が死んだ時に、今村昌平が香港にいたんですよ。ショウ・ブラザーズで脚本を書いていた時期があって。何本か彼は脚本書いているんですね、観たことないですけれども。その頃なんか騒ぎがあって、「何だ?」って言ったら、「俳優が死んだ」。それが誰かというのは知らないんですね、やっぱり。ものすごい騒ぎだったことは憶えているって、一緒に行っていた人は言っています。
◆四方田:李小龍というのは、ベイルートでもパレスチナの難民キャンプでも、もう神様だったり英雄だったり。それから70年代初めにアメリカ合衆国で黒人の権利請願運動があって、「李小龍っていうのは我々の英雄だ」。70年代にチャイニーズ・アメリカンがやっぱり差別撤廃運動をやるんですが、その象徴も李小龍ですね。そういうふうに、本当にヒーローなんですね。中華社会、天下のヒーローなんですけれども、日本ではそういう李小龍の一面は全く知られていなくて、単に「かっこいいヌンチャクの人」で終わっていますね。そういう香港映画の理解の層の薄さみたいなものは、僕は非常に残念に思っています。今の日本でも、新しい香港映画がぱーっと入ってきて、ぱーっと消費されて、今はもう「香港映画ブームは終わった」みたいなことが言われている。ああいう底の薄さでは、いつまでやっても駄目だなと思います。李連杰ジェット・リーが出る『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』だって、ものすごく真面目な映画なんですよね。香港返還の前に、如何に国を超えた天下という概念を敷衍していくかという、ものすごい苦闘みたいなものが徐克ツイ・ハークの中にあるんですけれど、そういうものを日本の評論家は全然理解してあげなかったという感じがします。それはまた別の話ですけれど。


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作成日:2003年1月17日(金)
更新日:2003年1月31日(金)