香港映画の黄金時代I

シンポジウム「戦後中華圏映画の黎明〜上海から香港へ」

開催日 2002年12月1日(日)
場所 国際交流基金フォーラム
ゲスト 黄愛玲(香港電影資料館研究主任)
松岡環(映画研究者)
宇田川幸洋(映画評論家)
北京語-日本語通訳 唐捷(注:漢字推定)
司会 石坂健治

<注:途中までしかありません(約1時間分)。>


■石坂:向かって右側の席にいらっしゃるのが黄愛玲さん。黄さんは香港映画の研究者で、長いこと香港国際映画祭で活躍されて、今は香港の、国立のフィルムセンターにあたる香港電影資料館で、主任研究員という形で活躍されている方です。日本側は、「香港映画を語るときにはこの人」という宇田川幸洋さんと、それから、いつもはインド映画のときにいろいろお世話になるんですが、香港映画についてもたいへん詳しい松岡環さん。お三方でセッションをしていただきたいと思います。

■松岡:司会をやらせていただきます松岡環です。こちらにいらっしゃる黄愛玲さんは、先ほど石坂さんが紹介してくださったように、香港の電影資料館、フィルム・アーカイヴでいろんな研究をしていらっしゃいます。今年の4月の香港国際映画祭で、今回特集されている映画会社キャセイの特集上映があって、こういうすごい分厚い“國泰故事(Cathay Story)”という本が出ています。この本を中心になってお作りになったのが黄愛玲さんですね。そのほか映画評論家としても活躍していらして、“戲縁”という映画評論の本も出していらっしゃいます。今日は宇田川さんと黄愛玲さんのキャッチボールのような形でシンポジウムをやっていただいて、私は交通整理役に徹したいと思うんですが、お話に入る前に私のほうから、「今日こういうことをお聞きしたい」ということを皆さまにご説明しておきたいと思います。

今日は三つに分けて黄愛玲さんにお話をお伺いしたいと思うんですが、ひとつは、香港と上海、この両方の映画製作中心地の関係、これについてお伺いしたい。二番目は映画製作会社キャセイそのものについて。それから三番目は、キャセイと対抗する形でショウ・ブラザーズという映画会社があったんですが、今年の東京国際映画祭ではショウ・ブラザーズの特集がありましたけれども、そういう二つの会社の関係、それから今の香港映画にそれがどういう形で受け継がれているか、といったことをお聞きしたいと思います。

ちょっと補足しますと、一番最初の、香港と上海の関係という点については、香港と上海で本格的な劇映画が作られ始めたのが1913年からなんですね。そのあと、皆さま上海映画のことなんかよくご存じでいらっしゃると思うんですが、上海では北京語、今の言い方でいうと普通話、つまり標準語の映画、香港では広東語の映画を中心に製作されていました。特に1937年、蒋介石の国民党政権が、国としての統一をもたせるために一言語ということで、「中国大陸においては北京語の映画を作りなさい」という通達を出してから、上海では国の映画としての北京語の映画、当時イギリス領だった香港においては広東語を中心とする地方語の、つまり中国大陸では作れない映画を作ってきたという点があるんですね。それから戦争が始まって、日本軍が侵略していくわけですが、そうすると、上海の映画人たちが香港に逃れる。それと同時に香港も日本軍に占領されていくという時期があって、戦争が1945年に終わると、上海の方に帰ったりした方もあった。すると今度は、中国国内において国共内戦、国民党と共産党の内戦が始まってくるんですね。そうするとまた上海の人々が香港に逃れる。1949年に中華人民共和国が成立すると、共産党政権を嫌って香港、あるいは香港から台湾に逃れた人もいるし、反対に国の落ち着いた様子を見て上海に帰った人もいる。そういう感じで、上海と香港というのはけっこう行き来があったわけですね。上海の避難地あるいはマザーシップみたいな意味での香港という時期もあった。それがだんだん上海の映画人が香港に定住していって、そして…というお話になるわけですね。そのへんのところを黄愛玲さんに語っていただければと思います。

キャセイという映画会社に関しては、実は私も浅からぬ因縁がありまして…。キャセイは戦後一番最初、マレイ半島で映画製作を始めるんですが、マレイ語の映画を作るんですね。そこにインド人の監督が雇われてきたりしていたもので、私はそういうことを調べていたので、今日こういう席に座っているわけです。キャセイは戦後、マレイ半島においてマレイ語映画を作り始めた。同じようにショウ・ブラザーズもシンガポールでマレイ語映画を作っていたんですが、そのうちキャセイは香港に進出していき、ショウ・ブラザーズも、香港にあったショウ・アンド・サンズという会社の経営があまりうまくないというので、邵逸夫ランラン・ショウが香港に進出していくんですけれども、そういう形でシンガポールでの競争、香港での競争が出てくるわけです。キャセイは社長が陸運濤という人で、この人はスイスの学校に行って、それからケンブリッジを出たものすごいエリートなんですね。そういう人が映画製作の現場を統括していた。キャセイというのは、皆さんもご覧になっておわかりのように、非常に洗練された感じの映画を作っていた。それが香港の人にどういうふうに観られていたのか、というようなことを特にお聞きしたいと思います。

それからさっき言いましたキャセイとショウ・ブラザーズの競争から、やがてキャセイが撤退していって、香港映画の次の時代が始まるわけですが、キャセイの作ってきた映画の記憶みたいなものが今の香港映画にはどういうふうに表れているのか。そういったところを今日は宇田川さんと黄愛玲さんに語っていただきたいと思うんですね。

では、上海と香港の、映画製作地としての両者の関係みたいなところを黄愛玲さん、ちょっとお話しいただけますか。

■黄愛玲(北京語):香港と上海という二つの都市は、いわゆる中国の映画都市といえると思います。簡単にいえば、上海は中原中心というものを代表しているように思います。香港の場合は、とても社交的な環境の中で、商業映画を発展させたといえると思います。この二つの都市は、映画の発展の上で、最初から非常に親密な関係をもっています。1937年頃は上海は中国の映画の中心でした。30年代は中国映画の黄金時代ともいえます。当時の主な映画会社は、まず商業主義的な明星という会社があります。もうひとつ、ショウ・ブラザーズの前身の天一という会社もあります。二つの会社とも、商業を非常に重んじる会社といえます。あともうひとつ、芸術を非常に重んじる会社、聯華があります。聯華の責任者は羅明佑と黎民偉です。二人とも香港の背景をもった人です。30年代の上海においては、商業主義の映画と芸術や精神的なものを重んじる映画、その両者の発展がみられます。当時のトーキー以来の主な言語は北京語です。同時に香港で作られた映画は主に広東語で撮られており、とてもローカルな映画といえます。その市場は香港と広東省あたりを主としています。当時の広東語映画は、中国の広い市場とはあまり関わりをもっていなかったのです。

その後上海の映画人は、徐々に香港に行くことになります。上海の映画人が香港に行く第一の重要な時期は、1933年から34年です。この間、主に天一を中心に、香港へ行って映画を作り始めます。その理由は、当時天一は、上海の他の映画会社に比べて発展する余地が少なかったので、香港に新しい天地を見つけようとしたからです。天一の邵という家族の人たちは、東南アジアと香港あたりで新しい市場を探すわけです。上海の映画人が香港に行く第二期は、だいたい抗日戦争(日中戦争)の頃です。当時多くの映画人は上海に残るのを嫌がっており、結局は香港に行きました。上海の映画人が香港に行く第三期は1945年、戦後です。日中戦争は終わりましたが、共産党と国民党の戦争がまた始まったからです。当時の上海と大陸の状況は安定していなかったので、過渡期としてちょっとの間香港に行くつもりだったと思います。中華人民共和国ができた1949年から50年代の時期は、一部分の人はまた大陸へ戻って、でもほとんどの映画人はやはり香港に残ったままでした。そのときから香港では、北京語の映画と広東語の映画の両方、二つの市場ができたわけです。北京語映画と広東語映画の両方があるという局面は、随分長い間続きました。香港映画において、1950年代の北京語映画と広東語映画両方が現れてきた時期は、とても重要な時期だと思います。

■宇田川:香港に北京語映画の産業ができていく最初の頃には、何本かものすごい大作を作っていますね。日本でも公開された“清朝秘史”とか、“國魂”とか。その2本を観ると、30年代の上海の映画が盛んだった頃にもなかったくらいのスケールでスペクタクルを撮っている。内容的には違いますけれども、ちょっと後の60年代のショウ・ブラザーズの歴史劇スペクタクルにつながるような。こういう超大作を作る資本というのは、みんな上海から流れていったんですか。

■黄愛玲:先ほど挙げていただいた二つの映画、“清朝秘史”と“國魂”は、永華という会社で作られたんですけれども、永華の社長、李祖永は、非常に大きな資本を持った企業家でした。もうひとり李祖永と一緒に仕事をしていた張善[王昆]という人がいます。張善[王昆]は当時の上海において非常に重要な映画人のひとりで、当時の新華とつながりをもっている、日本の華影という会社の管理をする重要な人物でした。彼らは上海から大きな資本を持ってきました。先ほど挙げていただいた二つの映画からもわかるように、彼らの当時の眼差しは、中国という大きなスケールにありました。映画の内容からも、製作のとても厳しい態度からも、当時彼らが持っていた大きさをうかがうことができます。この永華という会社は、香港の映画のその後の発展のために、非常に重要な役割を果たしました。その当時から中国の情勢が非常に不安定になってきて、48年から49年には、香港で作った映画はなかなか大陸で上映することができなくなってしまいました。永華はその後経営が不振になり、50年代の半ば頃にキャセイに売却されました。

■宇田川:永華が鑽石山(Diamond Hill)に建設した撮影所をキャセイが買い取るわけですね。今あの撮影所の跡は、もう更地になっちゃいましたか。あるいは全部壊されてしまいましたか。ゴールデン・ハーヴェストが撮影所を数年前に手放しましたけれど。

■黄愛玲:当時永華は、自分のスタジオで映画を作るだけではなくて、そのスタジオを他の会社にも貸し出していました。当時の永華の多くの人たち、プロデューサーや監督や俳優は、皆、知識人です。当時は非常に特殊な時期で、非常に様々なイデオロギーがありました。作家や俳優たちが、会社の管理部門に賃金の問題を持ち上げたり、そういうこともありました。キャセイは、永華を買い取った後も新しい撮影所を作りました。

■宇田川:新しい撮影所というのは、別の場所にということでしょうか。

■黄愛玲:それは後のゴールデン・ハーヴェストになります。

■宇田川:では永華の撮影所というのは、ゴールデン・ハーヴェストのあそこにあったのとはまた違うものだったのでしょうか。

■黄愛玲:違います。新しい撮影所の場所は鑽石山に近いところです。

■宇田川:永華のを買い取ったというのは、撮影所を買ったわけではなくて、スタッフとかそういうものを買い取ったということですか。それで新しくキャセイが鑽石山のところにスタジオを建てたということですか。

■黄愛玲:撮影所も買い取ったんですが、新しくも作りました。

■宇田川:つまりステージを増やしたということですか。同じ場所にね。

■松岡:撮影所の場所のお話になっちゃったんですが、香港に鑽石山という地下鉄の駅がありまして、そのすぐ近くに斧山道(Hammer Hill Road)という道があって、そこに皆さんも知っていらっしゃると思うんですが、ゴールデン・ハーヴェストという、今香港にある製作会社がスタジオを持っていたんですね。そのスタジオ自体は、ごく最近閉鎖になっちゃったんですが、ゴールデン・ハーヴェストの前はキャセイがそこで映画を作っていて、さらにその前は、今黄愛玲さんが説明してくださった永華という会社が持っていたわけです。その同じ場所でずっと撮影がされていたのかということを、宇田川さんがちょっと聞いてくれました。永華からキャセイ、ゴールデン・ハーヴェストときてこれが今閉鎖になっちゃったというと、もう最後の今の香港映画の流れというところまで見えてきたようなお話になっちゃうんですけれども…。このへんでキャセイのお話を中心にして、その中でまた上海の影響なんかも伺っていくようにしましょうか。

■宇田川:その前に、それにもつながるんですけれども、撮影所の話をもうちょっと続けます。同じ撮影所で撮っているんですけれども、なんとなくゴールデン・ハーヴェストの初期のものよりも、キャセイのほうが豪華な撮影所で撮っているような感じがするんですけれども。あれはやっぱりかける製作費の違いですかね。撮影所自体も、キャセイの時代のほうが広かったような印象を受けるんですけれどもね。実際にはあのゴールデン・ハーヴェストの撮影所ってかなり狭いですよね。

■黄愛玲:キャセイのときの撮影所を見たことがないので、なんとも言えないんですけれども。

キャセイは國泰という名前から電懋という名前になるんですけれども、どのように変わっていったかということをお話しします。キャセイの黄金時代は10年程度です。キャセイの支配人は陸運濤という人なんですけれども、その家族は東南アジアにおり、非常に大家族です。映画は彼らの主な商売ではありませんでした。陸運濤は非常に映画好きだったので、東南アジアでいろいろな劇場を作っていました。それは、非常に現代的で立派な劇場でした。ただその劇場が成り立つには、やはり映画が必要でした。55年に彼らは一人のユダヤ人を香港に行かせて、香港で國際という名前の映画会社を作りました。最初に作った映画は広東語の映画でした。その後は北京語の映画も作るようになりました。そのときに先ほど言った永華という会社を買収しました。1956年に陸運濤は、國際を電懋という名称に変更しました。それと同時に、上海から来た多くの文人たちを雇って仕事をさせました。63年から64年の間に、多くのとてもファッショナブルな映画を作りました。64年に陸運濤は、台湾で飛行機事故に遭って亡くなりますが、65年にシンガポールから新しい支配人がやって来て、電懋という会社の名前を國泰という名前に変更しました。これがずっと続いて、70年には会社が終わることになります。陸運濤が亡くなってからキャセイはだんだん衰えていき、それと同時にショウ・ブラザーズが全盛期を迎えました。

■宇田川:ファッショナブルな作品というふうにお話しされたんですけれども、たしかにキャセイは陸運濤がやっていた電懋(國際電影懋業)という社名の時代がいちばん輝いていた時期だと思います。ただ今日上映されている張愛玲脚本の映画も、ファッショナブルといいますか非常にソフィスティケイトされたコメディだと思うんです。脚本の問題だけではなく、ほかにもキャセイというとすぐに頭に浮かぶのは、『ジューン・ブライド』の主演をしています葛蘭グレース・チャン主演のミュージカル映画です。キャセイというと楽しいミュージカルという感じで。ハリウッドのメジャーでいうと、パラマウントとかMGMみたいなカラーだと思うんですね。ショウ・ブラザーズはどちらかというとフォックスとかワーナー・ブラザーズとか、ちょっと泥臭い感じのカラーですよね。このキャセイの会社のカラーというのは、やっぱり陸運濤という人の個性なんでしょうかね。

■黄愛玲:キャセイのカラーは、陸運濤のカラーと大きな関係をもっていると思います。陸運濤は13歳の時にヨーロッパに渡って、大学はイギリスで歴史とイギリス文学を勉強しました。彼はショウ・ブラザーズの邵逸夫とは違って、完全な商売人ではありませんでした。嗜好も非常に西洋化されており、ほとんど中国語は話しません。しかも国際的な視野を持っており、中産階級的な嗜好を持っていました。彼は本当は、ハリウッドの映画の管理などを真似したかったんです。彼の会社が作った作品というのは、通俗的でありながら泥臭くない、非常に上品です。そして重い悲劇というものもあまり好みませんでした。とても軽い小品の方が多い。さっき見た『恋の行方』のようなものが多いです。あるいは葛蘭が出演した“曼波女郎”(マンボ・ガール)という映画がありますが、このようなものが多いです。

■宇田川:“曼波女郎”という映画は、ミュージカル・シーンがすごくいいですよね。今年、香港国際映画祭の時期とその後も5月、6月と、香港のフィルム・アーカイヴがキャセイの特集上映をやっていて、僕もちょこちょこ見せてもらったんですけれども、やっぱりお客がいっぱい来るのはミュージカル映画とか女優の映画ですね。キャセイでも後期になるとチャンバラ映画もありましたけれども、チャンバラ映画はお客さんが並ばなかったのでびっくりしました。

■黄愛玲:ミュージカルはそれほど多くはなかったですれけれど。ハリウッドのようなミュージカルは、キャセイではそんなに多く作っておりません。そうではなくて、踊ったり歌ったりするシーンをたくさん含んだストーリーの映画が多く作られました。

■宇田川:そうですね。MGMミュージカルみたいなものではないということで、歌謡映画といったほうがいいかもしれないけれども。例えば“四千金”という4人姉妹とお父さんの話なんかも、非常に可愛らしいコメディで、ところどころに歌やちょっとした踊りがはさまったりという作りです。本格的ミュージカルではないんですけれども、ミュージカル的な楽しさというのは十分に盛り込んでありましたね。

■松岡:私なんかは、香港映画っていうとどうしても「男性スターが中心のもの」というイメージがあるんですが、キャセイの黄金時代に女優さんが中心の映画づくりをされたというのは、たまたまなんでしょうか。それとも何か時代背景のようなものがあるんでしょうか。

■黄愛玲:我々の印象の中にあるような「香港映画では男優が主」というのは、だいたい1960年代、70代以後の映画が多いです。それまでは男優ももちろんいますし、女優も多くいました。しかも優れた女優がたくさんいました。例えば30年代には、中国ではとても有名な、阮玲玉という女優がいました。30年代、40年代の中国には、白光や李麗華というような女優がいました。広東語の映画の中にも、多くの優れた女優がいました。キャセイの場合、ほかとちょっと違っているのは、出てくる女優が非常に現代的で、とてもファッショナブルであることです。当時の葛蘭や尤敏は、今見てもまだ非常に現代的な味わいを持っていると思います。その現代性は主に彼女たちのキャラクターにあって、そしてまた彼女たちのファッションにも見ることができます。

■宇田川:たしかに今観ても、女優がみんな非常に魅力的なんですよね。林黛という人はしばらく魅力がわからなくて、「あの眉毛はなんだ」とか思っていたんですけれども、だんだん彼女のモダンさとか、プロポーションの良さとか、当時としては中国人の女優の中にあって非常にファッショナブルな人だったんだろうなというのがわかってきたんですけれども。

■松岡:林黛というのは、さっき観ていただいた『恋の行方』の主演女優です。

■黄愛玲:林黛はとてもおもしろい題材になると思います。キャセイの林黛とショウ・ブラザーズの林黛とは違うものです。私自身はキャセイの林黛のほうが好きです。とても現代的で、生き生きしていて、明るい。キャセイの林黛は現在のもののようです。しかしショウ・ブラザーズの林黛は、とても輝いてはいるんですけれども、現代のものではないです。もちろん時代劇は現代ではないんですが、現代劇に出ていても現代性というものは感じない。このように林黛を通して見ても、キャセイとショウ・ブラザーズのカラーの違いがよくわかります。

■宇田川:たしかに僕は、多分ショウ・ブラザーズのほうから先に観たと思うんですよね。そのせいもあったと思うんですけれども。彼女はキャセイからショウ・ブラザーズに引き抜かれるわけですか。

■黄愛玲:ある時期は両方の映画に出ています。

■宇田川:やっぱり尤敏もショウ・ブラザーズからキャセイに移ってよくなったんでしょうかね。

■黄愛玲:そうです。もうひとつ例を挙げることができます。葉楓です。彼女はキャセイにいたときは非常にセクシーな女優だったんですけれども、ショウ・ブラザーズに移ってからはちょっと暗くなってきました。

■松岡:葉楓というのは、今回は上映がないんですけれども、キャセイではさっき宇田川さんがおっしゃった“四千金”ですとか、“長腿姐姐”(足の長いお姉さん)という映画があります。

■宇田川:彼女のニックネームにもなっているわけですね。すごくプロポーションがいいんです。当時のモダンな女優さんはキャセイに集まっているような感じがしますね。

(食事のためここで退席してしまいました。)



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作成日:2003年1月31日(金)