第10回東京国際映画祭

『山中傳奇』トークショー


日時
1997年11月2日(日)
参加者
張之亮(映画監督)、宇田川幸洋(映画評論家)、司会(市山尚三)、北京語-日本語通訳(小坂史子)
言語
北京語

張之亮の話の概要

胡金銓監督とは、何年か前の東京国際映画祭に共に参加した(宇田川氏註:1992年のことだと思われる)。そのときこのようなステージで胡金銓監督が挨拶されたが、そこで今度は自分が追悼の言葉を述べなければならないことは、とても哀しいことである。

私が胡金銓監督と始めて会ったのは、ロンドンで開かれた映画祭での座談会の席だった。私はまだ2本目を撮ったくらいの新人で、昔から憧れていた胡金銓監督と同じ舞台にいることに興奮して、中央にいる監督のことばかり気になっていたことを覚えている。

胡金銓監督は非常に豊富な知識を持った人で、映画監督というより学者のような雰囲気の人だった。特に明朝については詳しく、本当に学者並みの知識を持っていた。

胡金銓監督は映画監督として順調に来たわけではなく、非常に苦労されている。彼は、香港の大きな会社と仕事をしなかったために、いろいろ苦労した。台湾で撮って大ヒットした「龍門客棧」は、香港ではそれほどヒットしなかった。というのは、その大きな会社がヒットした要因を分析し、香港で公開される前に、自分の会社の監督に似たような作品を撮らせたからである。胡金銓監督は、こういった様々な困難を克服してきた。

近年は、聞こえてくる胡金銓監督の噂はあまり芳しいものではなかった。徐克と撮った「スウォーズマン」では、胡金銓が撮った部分はほとんど残っていないと言われていたし、健康が優れないようだとか、新しい時代についていけないから引退した方がいいとか、そういう噂が多かった。そのようなプレッシャーに負けず、監督は新しい作品の企画を暖め続け、実現の直前に亡くなられてしまったことは本当に残念である。

私は、映画というものは、人が生きていくうえでの反省が含まれているものだと考える。胡金銓監督のように、常にいかに生きるべきかを考え続け、それが映画に加われば、中国語圏、東南アジアの映画はもっとよくなっていくのではないかと思う。

(トークショー終了時の観客の拍手に対して)今日の主役は胡金銓監督の映画である。映画に対して拍手を送ってほしい。


映画人は語る1997年11月2日ドゥ・マゴで逢いましょう'97
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作成日:1997年11月18日(火)
更新日:2004年12月14日(火)