Little Indiaを散策する。この辺りは金子光晴と関係が深い。次の文にあるように、彼は最初のシンガポール訪問時、Serangoon Rd.に滞在していたようだ。
翌日は、その大通りをつきあたったところにある租界の大通スラングーン・ロードの中ほどにある大黒屋ホテルの玄関上の二階の、三方の鎧窓がすべて明けはなせるいちばん風通しのいい部屋を新聞社の人から借りてもらった。(『どくろ杯』[SG24], p239)
◇Sri Veeramakaliamman◇ |
大黒屋ホテルの辺りについては、次のような記述もある。
「……矢加部の大黒屋ホテルでくらしていたとき、夕方になると、通りをへだててすぐ前にあるヒンズー教の寺院から、間の抜けた勤行の鐘がひびいてくる。その石壁には、象の鼻をしたヰ"シーヌや、シバの極彩色の瀬戸物の像が置いてあるでしょう。あの寺の正面に水屋があり、斑のないべっこうのような、あめいろをした牛を外からみて、坊主だか、信徒だか、多勢が水で洗ったり、土下座をしたりしているので、どうしてあんなにきれいに牛が透きとおっているのか、不思議なので、境内に二人が二足か三足入ってゆくと、そこにいたヒンズーがこちらにむかって大声をあげて叫ぶのです。……」
(『西ひがし』 [SG25], p111-112)
Serangoon Rd.には、Sri Veeramakaliamman Temple(スリ・ヴィラマカリアマン寺院)、Sri Srinivasa Perumal Temple(スリ・ペルマル寺院)の2つのヒンズー寺院があった。はっきりとはわからないが、他の記述も考え合わせると、大黒屋ホテルがあったのはSri Veeramakaliamman Templeの前ではないかと思う。あたりを見回してみたが、それらしき建物はない。
金子光晴は、この近くにあったらしい娯楽場『新世界』についても書いている。
シンガポールの支那街繁華地、ジャラン・ブッサルの大通りにルナ・パーク式民衆娯楽場がある。「新世界」と名づける。
新世界をめぐる一劃の地域は、瞥見するだけでも国ちがいの風俗の変化が目をたのしませるし、また、しばらくくらしてみるのもおもしろい。
新世界が、あらゆる国々の女が稼ぎ場であるように、新世界のまわりは、その巣である。享楽面ばかりではない。各種各民族の出稼人たちの習慣や、くらしかたのめずらしさがある。
東海岸につづく爪哇人街は軒なみ裳(サロン)店。街なかの回教寺院の玉葱屋根、青い未熟なくだもののにおいとまじりあった腐ったくだもののにおい、動物屋のにおい。……
(『マレー蘭印紀行』 [SG26], p121-122)
◇新世界公園◇ |
アルバート街の縁日人出から、ジャラン・ブッサルにかけて、あらゆる職業階級の支那人が、わめいたり、口穢くやりとりしながら雑鬧しかえしていた。人相観や代書、くすり屋の人寄せ口上、五州大観、四界風景などと文字いかめしく硝子絵でそとをかざりたてた覗きからくり、しっ尾のはえた男、大顱頂(おおあたま)、講釈、琵琶そういうものが、入場料をだして入る「新世界」のなかまで入りこんでいた。……([SG26], p123)
『大世界』という名前のものも出てくる。
日が暮れないうちに、長尾さんが現れ、三人でならんで、ジャラン・ブッサルの大通りを、中華街のゆきづまりになる唯一の娯楽場「大世界」にむかった。道順として、レースコースの長尾さんの家に立寄り、そこで帰ってきた彼女が挨拶するために立寄ると、奥さんが、晩食をつくって待っていた。…… ([SG25], p198)
Jl. Besar、Serangoon Rd.と交差するKichener Rd.に面して、新世界公園(New World Park)という公園がある。ここが『新世界』の跡ではないかと思われるが、ただの草の生えた空地で、中には入れなかった。引用した文章からすると、『大世界』も同じような場所にあったようだ。
最初の引用中に書かれている「爪哇人街」はArab Street、「回教寺院」はSultan Mosque(サルタン・モスク)を指しているのだろうか。