これまでに回ってきた幾つかの都市には、それぞれ共通点もあれば相違点もあった。しかし、ここPinangは、それらのどこにも似ていない街である。この街にも、ほかと同じように活気もあり、喧騒もある。にもかかわらず、他の街では感じなかった独特ののどかさのようなものがこの街を支配している。それは決して単なる地方都市ののどかさ、すなわち田舎であるがゆえののどかさではない。ここには、Pinang独特の雰囲気といったものが、強烈に感じられるのだ。
Pinangでは、マレイシアの他の都市に比べて、異なった文化が混じり合っているように思われる。例えばMelakaの場合、西洋的な部分と中国的な部分は、はっきりと分かれているように感じられた。それらはそれぞれ、別の文化、別の時代、別の歴史を表象しているようで、その間にははっきりと境界がある。私の頭の中には、Melakaについての異なる幾つもの印象があって、全体としてひとつの印象や雰囲気を語るのは難しい。
一方、KLは、急速な近代化、都市化に伴って、それぞれの文化の特色は、混じり合わないままに薄れつつあるという印象である。マレイ的なもの、中国的なもの、インド的なもの、イギリス的なものと、それぞれ異なった印象があるが、それらひとつひとつは強力ではなく、全体としての印象をひとつ挙げるとするなら近代的な都会である。
これらに比べて、Pinangでは、中国的なもの、インド的なもの、イギリス的なもの、マレイ的なものは、決して融合しているわけではないが、個々の特徴を失うことなく無理なく混在し、かつ全体としてひとつの独特の雰囲気を作り出しているように感じられる。
このような印象は、おそらく、植民地時代を通じてイギリスによってもたらされた繁栄とは別に、移民によって独自の繁栄がもたらされてきたこと、独立後も、首都のような国の中心としての重責を担わされることがなく、したがって、急速な近代化を要しなかった、そのような歴史によってかたちづくられてきたものではないだろうか。
このような感想は、Pinangについてそれほど知識があるわけでもない私の、たったの1日半の滞在によるいいかげんなものである。充分な、また正確な説明が難しい私に代わって、『ペナン 都市の歴史』[ML26-1]の中の文章を、最後に引用したいと思う。ここに描写された情景のすべてを見たわけではないけれど、このような光景が、おそらく私の感じたPinangの印象をかたちづくっていると思うからである。
……昔ながらのペナンは見るべきところさえ知っていればまだまだ残っている。
ジョージタウンにそびえる65階建てのオフィスビル「コムター」の足もとで、薄暗い質屋では店の主人が算盤をはじき、屋台の店番はうちわで中華鍋の下の炭火をあおぎ、中国人のトライショーの運転手は自分の車の傘の下で昼寝をし、その背後には、近くのモスクから祈りの声が流れているのであった。歩道では、ビルマ人たちがゴマの種を麻布に広げて日干しをしている、そんな光景が見られるのである。
郊外や田舎のほうでは、潮風の漂う早朝、年配の世代の人びとがガーニードライブを散策し、またおしゃべりにと気軽に集う。ムカ・ヘッドの灯台につづく海岸沿いの道や、ゲルタック・サングルの漁村に向かう海岸線を行くと、椰子の木に縁どられた美しい砂浜を通る。ペナンのあちらこちらではまるで時が止まったように思えるのである。
植民地時代の過去もさまざまな形で姿を現している。百以上もの道にはイギリスの校長や官吏の名前がつけられている。しかし、現在それらは徐々にペナン人で功績のあった人の名にとって変わってきている。由緒あるインド植民地様式の建築物は、本物の植民地時代のセットを探している映画会社に人気がある。観光客はコーンウォリス砦の古い砲台の前で足を止め、プサラ・ラジャ・エドワードを記念する時計台を写真に収める。
ペナンでは、普通では見落としてしまいがちなところにもイギリスの影響がまだ感じられる。フランシス・ライトによる格子状の道路計画がジョージタウンに残っており、イギリスによって築かれたジョージタウンの自治行政はマレーシアの他の市の手本ともなっている。ミッションスクールで英語が使用されているため、ペナンの卒業生たちは、ビジネス、政治において国際的なキャリアに就けるようになった。しかしながら、おそらくもっとも根強い植民地時代の遺産は、万華鏡的な多様性のある島民であろう。人びとは、同じ価値観の下に均質的ではない統一を求めるのであった。(p130-131)