1996年6月11日(星期二)

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華人の政府批判

街の中心部にあるオランダ植民地時代の建物、Stadthuys(スタダイス)やキリスト教会を見た後、セント・ポールの丘に向かう。

ふもとのベンチで休憩していると、華人のおじさんに、
「中国人?」
と英語で話しかけられる。日本人だと言うと、
「華語話せる?」
と聞かれたので、
「少し」
と華語で答えたが、おじさんは華語にはしてくれず、英語のまま話し続ける。
「中華料理食べた?」
「中華料理はいいよ。マレイ料理はまずい」
「マレイ人は馬鹿だ」
「マレイ人は馬鹿なのに、政府はマレイ人ばかり優遇している」
「オフィスを見てごらん、働いてるのはマレイ人ばっかりだから」
「シンガポールには行った?」
「シンガポールはいいよ。平等だからね」……

前述したようにマレイシアは複合民族国家であるが、ブミプトラ政策というマレイ人を優遇する政策をとっており、政府機関への優先雇用や大学への優先入学などが実施されている。裕福な中国系と貧乏なマレイ系の経済格差をなくすことが目的ということだが、イスラム教を国教とし、マレイ語を唯一の公用語とすることと共に、マレイ人主導の国づくりという考え方があるようだ。おじさんは特に裕福そうではなかったし、おそらく一般的な華人の意見なのだと思う。

マラッカ海峡を望む

[St. Paul's Church]
◇St. Paul's Church◇

セント・ポールの丘に登り、St. Paul's Church(セント・ポールの教会)を見る。ここは1521年にポルトガル人によって建てられた教会で、現在は石壁の一部のみが残る廃墟となっている。教会の前には、 Melakaでも布教活動を行ったSt. Francis Xavier(フランシスコ・ザビエル)の像が、海に向かって立っている。

丘の上から、マラッカ海峡(Selat Melaka)を眺める。金子光晴は、おそらくここからだと思われる眺めを、次のように書いている。

マラッカの街は、格別奇もない支那人とその建物のごたごたしている貿易港で、マラッカ王国が南海に覇をとなえていた頃の俤などは、どこにものこっていなかった。十六世紀頃、ポルトガルの商業的、軍事的の東洋の拠点であったので、赤い煉瓦のキリスト教寺院や、城壁のあとがのこっているくらいのものだ。しかし、高い城壁にあがって肉の厚い竜舌蘭の植込み越しに眺める海のながめは、一概にすてがたく、海が浅く、岸壁がないので大船は立寄ることができず、たいていの汽船は沖がかりで、ぱらぱらとふりまかれたようにちらばっている。それがみな帆檣船であったら、古い銅版画のようで数等風情があるかもしれない。([ML22], p177)

ここからの眺めは、建築中のビルなどがところどころに見え、あまり美しいとはいえない。しかし、そうと知ってもまた見に来たくなるような、そんな魅力がここにはある。丘の上から海を眺めていると、なんとはなしに台湾の淡水を思い出す。淡水もまた、いろいろな国の支配を受けてきた歴史がある。

[マラッカ海峡]
◇マラッカ海峡◇

不思議なことだが、ここに来ている観光客は、外国人のほかはほとんどマレイ系の人である。民族衣装の女の子の集団も見かけたので、修学旅行とか遠足で来るのかもしれない。まさかとは思うが、キリスト教がイスラム教に負けたことを確認しに来ているのだろうか。ふもとに並ぶ土産物屋もマレイ人相手のものばかりだ。華人向けのアイドルグッズなどを期待したがそんなものはぜんぜんなくて、アラビア文字を書いた土産物が目につく。おもしろいものでは、ニセモノのドラえもんのぬいぐるみがあった。同じ色だとまずいのか、ピンクや黄色などのド派手な色づかいのものがあちこちで売られていた。

寶山亭(Poh San Teng Temple)

華人墓地Bukit China(ブキッ・チナ)のふもとにある寶山亭(Poh San Teng Temple)に行く。ここは、明からの使者として派遣された鄭和(Cheng Ho)をまつる寺である。

ここも観光客で賑わっているが、さっきとは一転して中国系の人ばかりである。観光バスも停まっていて、大陸や台湾からの観光客のようだ。売店のおにいさんが「おばさん、おばさん」と言っていたのは(私にではない!)、日本語ではなくて台湾語だろうか。ここにも屋台がたくさん出ているが、土産物ではなくいろいろな果物が売られていた。

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更新日: 1999年2月13日(土)