流浪到風櫃

1997年5月1日(星期四)


チケットの手配

5月1日木曜日。馬公。晴れ。

あまりおいしくないホテルの朝食を食べ、飛行機のチケットを買いに出かける。馬公に旅行代理店は山ほどあるが、どこもスタッフ3、4人の小規模なものだ。主な仕事は、台灣本島への航空券の手配と、近くの島への飛行機やフェリー、ツアーの手配など。

菊島旅行社という店に入る。明日の台北行きがほしいとの希望を伝えると、紙に名前を書くように言われる。書いた名前を見た途端、それまでふつうに応対していたお店の人たちのあいだに動揺が走った。流暢な北京語を話したわけでもないのに、台灣人だと思い込んでいたらしい。調べてもらったが、結局、明日の便はすべて客滿満席。「朝から空港へ行って後補キャンセル待ちしなさい」とのこと。キャンセル待ちをすれば乗れるものなのかいささか不安だが、あまり深刻ではない雰囲気なので、後補に賭けることにする。ちなみに英語は‘cancel’すら通じなかった。


風櫃東站へ

“風櫃來的人”

今日の主な予定は風櫃を訪ねること。風櫃は、“風櫃來的人”の主な舞台のひとつで、今回の旅行のハイライトだ。澎湖島の西側を占める馬公市は、「C」を左右逆にしたような形をしており、馬公中心部はその左上端に、風櫃はその左下端に位置している。つまり、直線距離にすれば近いのだが、陸上を移動するには逆C字をたどってぐるっとまわらなければならない。

“風櫃來的人”は、バス停の標識のアップで始まる。朝日ワンテーママガジン「侯孝賢-ホウ・シャオシエン」[B51]の『映画で歩く台湾』という記事に、このバス停は風櫃の手前の‘青灣’だと書いてあった[注1]。バスターミナルで風櫃行きのバスに乗り、青灣までの料金を払う(NT$24=¥114)。運転手さんが到着を教えてくれたのは、軍事施設らしきもののほかは何もないところ。彼が怪訝な顔をしたのも頷ける。

実は、このあたりのバス停の標識には、そのバス停の名前と次のバス停の名前が書いてある。ファースト・ショットの標識は、上に‘風櫃東站’、下に‘青灣’と書いてある。つまり、このバス停は風櫃東站で、次のバス停が青灣ということらしい。文字数が異なるとはいえ、‘青灣’のほうが2.5倍くらいの大きな文字で書かれているのだから、誤解するのも無理はない。しかたなく風櫃東站まで歩く。


風櫃東站

“風櫃來的人”

風櫃東站の標識は、映画のままの古びた姿で、海岸通りに立っていた。澎湖島まで来るのにも、風櫃まで来るのにも、ずいぶん苦労したが、来たかいがあったと思う。バス停の向きは、映画とは逆でポールが陸側である。映画では、風櫃方面が青灣に、青灣方面が風櫃になってしまっている。陸を向いているほうが見栄えがいいと思って、侯孝賢が動かしたのだろうか。

“風櫃來的人”の冒頭は、阿清たちが遊んでいるシーンである。学校にも行かず定職にもつかず、ぶらぶらしている彼らの日常とともに、このバス停のまわりの場所が紹介される。バス停の前にあった彼らのたまり場のビリヤード場は、建て替えられてふつうの家になっていた。友人が入っていると思って、他人にジュースをかけてしまうバス停横のトイレは、あとかたもなくなくなっていた。そしてバス停のある通りは、一部拡幅されて立派になり、海沿いには高いコンクリートの塀ができていた。通りからは、もはやほとんど海を見ることができない。

それでも、変わらず残っている家もあり、このあたりの雰囲気はそれほど変わっていない。バス停の前から風櫃方面を眺めた光景には、今でも映画の中の風櫃の空気が感じられる。


黄色い服の女の子が歩いているところ

“風櫃來的人”

通りから少し入ると、白い石造りの小屋が並んでいる。黄色い服を着た小さい女の子が歩いていた場所だ。白い家のせいなのだろうか。悲しいシーンでもないのにどこかもの哀しく、夏の光景なのにどこか寒々しく、何気ないショットなのになぜか心に残る。ほとんど変わっていないこの場所は、映画のもの哀しい気分を連れてくるようだ。


阿清が海を見つめる廟

“風櫃來的人”

喉がカラカラだが、あたりには全く店がない。風櫃に向かって歩く。風櫃國小の前まで来ると、バスの終点‘風櫃’があった。ポールだけで標識もないが、ちょうどバスがUターンしていたのでそれとわかった。小学校があれば店もある。向かいの雑貨屋で、水を買って生き返る。

実は風櫃は、四角い岩が並んだ風櫃洞で有名な観光地である。波しぶきと波の音が名物だ。風櫃洞のまわりは、潮干狩りや釣りをしている人でけっこう賑わっている。店や屋台もあるが、食堂はない。

さらに島の先端の方に進むと、鎭南宮という小さな廟があった。“風櫃來的人”に二度登場する廟だ。なかでも父親の葬式のため帰省した阿清が、ここに座ってひとりで海を見つめるシーンが印象に残っている。廟は建て直されてカラフルになっていた。けれども、何もないところにぽつんと廟があるのも、丸く島が見えている景色も、映画の中と同じだ。


阿清の家

“風櫃來的人”

さらに歩いて、阿清の家を見つける。実際の民家で、人が住んでいるようだ。きれいに塗り替えられていて、映画とは印象が異なる。しかし、家の門や家族が食事をしていた隣との間の路地、家から見える景色など、映画とほとんど変わらない。

風櫃洞の周辺に戻る。土産物屋さんで、台灣啤酒(NT$30=¥142)と葉葉蛋[注2](NT$7.5=¥33/個)を買い、空腹を少しだけ満たす。葉葉蛋というのは、烏龍茶の葉で卵を煮込んだもの。便利商店では必ず売られていて、煮込んでいる光景と独特の匂いは、台灣を象徴するもののひとつだ。初めて食べたが、なかなかおいしい。さらに屋台で芋のアイスクリーム、芋冰(NT$10=¥47/個)を買う。


流れて風櫃

風櫃は、白い町である。強風にさらされてさらに白っぽくなった石造りの家々は、いい感じに古びていて趣きがある。けれどもどこか寂しい、荒涼とした風景だ。“風櫃來的人”のイメージが、実際以上にそのように思わせるのだろうか。荒涼とした風景や、寄せる波や風の音は、少年たちの不安や焦燥感、閉塞感の心象風景でもあった。Vivaldiの『冬』の、もの哀しくも甘いメロディが、風景の上に重なる。

海風に吹かれながら海岸通りを歩いていると、ふいに「こんなところまで来てしまった」と思う。「地の果て」、そんな言葉が頭に浮かぶ。なんとかここを抜け出して、台北や高雄へ行きたいと思っていた風櫃の少年たちの気持ちが、私にそのように思わせるのだろうか。それとも、軍事演習に阻まれたり船に乗り損ねたりしたここまでの苦労や、帰りのチケットが手に入らない不安のせいだろうか。


馬公港

“風櫃來的人”

バスで馬公へ戻り(NT$30=¥142/人)、馬公港へ行く。ちょうど高雄からフェリーが来たので、大勢の出迎えの人たちに混じって、船客が降りてくるのを見る。馬公港は、“風櫃來的人”で、家出した阿清たち3人がフェリーに乗るところだが、様子はかなり変わっているようだ。フェリー自体ももちろん異なっている。

港近くの古い街を散歩していると、団体に遭遇した。台灣本島からと思われる、中年客のツアー。ガイドの説明も台灣語だ。


『有楽町で逢いましょう』

‘木瓜牛奶’の看板を出したファーストフード風軽食店で、法國土司フレンチトースト(NT$30=¥142)と木瓜牛奶(NT$50=¥237)を食べる。高雄牛乳大王ではないけれど、やっと木瓜牛奶にありつけた。

店にはフランク永井がかかっている。世界の果てで、『有楽町で逢いましょう』を聴く。カンカンカンカンカン(カンカン)♪


馬公散策

馬公を散策する。魚市場から觀音亭に向かう途中、ぐねぐねした通りに塀のある家が並んでいて、なかなか風情のある景色だと思った。ところがこれは風俗店だった。そのあとは、広大な道路に沿って軍の施設が並ぶ、怖い地域がずっと続く。

觀音亭は公園のようなところで、観光客が大勢いた。一見するときれいに思われたトイレは、すべての個室の便器の外に巨大な落とし物がある。さすがに利用できず、急いで退散する。

夕食は、昨日、混んでいたので目をつけておいた燒肉飯の店に行く。今日も混んでいたが、なんとか席を確保。燒肉飯、青菜、台灣啤酒でNT$170(¥804)。

今夜もシャワーは潮辛かった。



[1] バス停
本当は‘青港’と記述されていたが、‘青灣’の誤りだと思われる。
[2] 葉葉蛋
一般には‘茶葉蛋’と言うようだが、この店では葉葉蛋と書かれていた。

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作成日:2004年7月30日(金)
更新日:2004年10月3日(日)