上海

Shanghai, シャンハイ


大正十五年(この年の十二月に昭和元年と改められた)、西暦一九二六年、私が三十一歳、三千代が二十六歳であった。すべてが都合よくはこんで、予定した通りの金があつまり、そのうえ、谷崎潤一郎から、田漢、郭沫若、謝六逸、欧陽予倩、『大毎』の特派員村田孜郎、内山完造、宮崎議平など、七通の紹介状をもらって、心づよい気持で旅立つことができた。
この旅は、私たち二人の長旅の前奏であり、あとに来る大きな旅の道すじをつくった、私たちにとって意義ふかい旅となるのである。
天蟾舞台 逸夫舞台
村田孜郎は着いた日、私たちを四馬路に案内し、天蟾てんせん舞台の京劇をみせてくれた。内山完造はすぐ前の余慶坊の住居を用意してくれ、始終こまかい世話をやいてくれた。田漢とは、胸襟をひらいて語りあい、湖南の友人たちのパーティに再三誘ってくれた。 田漢寓所 たとえば、往年上海で、田漢や、唐槐秋とあそびあるいて大世界ダースカの屋上へあがったとき、僕は急に便意を催し、田漢にさがしてもらって、くらい納屋のような便所へはいった。便所の中はうすぐらく、あちらこちらに、大きな樽がおいてある。その樽に腰かけて、用をたすのだ。(『絶望の精神史』)
上海での一ヶ月は、国木田夫妻の競馬のおつきあいですぎてしまった。杭州へ旅行したことと、渡欧のかえりの長谷川如是閑と、木間久雄が立寄ったのを歓迎する会に出席したことと、横光利一が来て、旧交をあたためたことぐらいが出来事だった。 横光はいなか者丸出しで、ゼスフィールド公園のローンをあるきながら「高田の馬場とおんなじや」と言ったり、永安公司の支那浴場で、国木田と三人並んで、靴の紐から、帽子、外套、上着、ズボン、シャツ、猿股と、一手をうごかさず脱がせてもらって裸にされながら、「わからんなあ」と首をひねって感心したり、「ブルー・バード」のホールで、ダンサーの静公に踊ってもらいながら、「生れてはじめてや」と、おっかなびっくり屁っぴり腰にしていたのが、愛敬者であった。 大世界 大世界
中山公園 ゼスフィールド公園

こんなうらぶれた心境のときに、長男が生まれた。その長男を、長男の母親の里にあずけて、その母親と二人で上海にわたり、そこを振出しに、七年間にわたる二度めの海外旅行がはじまった。一九二八年のことである。(『絶望の精神史』)

子供を、舅姑のもとにあずけて、長崎から見送る人もなく、上海行の連絡船に乗った。淮山碼頭に着いたとき、相変らず五円しかもっていなかったにも拘らず、僕は、日本を逃れたということだけで、ほっとしていた。(『詩人』)

税関の外に、ながい梶棒の先をぶつけあって、下船の客の出てくるのを待ってひしめきあっている黄[車包]車ワンポツオ苦力もなつかしい。船を下りて三人は黄[車包]車をつらねて走り出した。 黄[車包]車 三輪車
余慶坊一二三 上海の北四川路、余慶坊一二三番地の石丸リカという長崎うまれの婆さんの家の二階の部屋を借りることにした。(『詩人』) 余慶坊 余慶坊入口
私たち三人は、日本人のたまりの虹口、文路をぬけて、北四川路に出ると、北へ、北へ、車を走らせた。日本書店の内山完造さんの店のすじむかいの余慶坊イイチンバンという一劃の入り口で、車を下りた。二筋の路地を、表と裏がむかいあって、支那風な漆喰の二階建長屋がつづいている。入り口には、雑貨屋と、熱湯を沸して槽で売る店とが並んでいた。大きなトランクを交代で曳きずって、路地を入ってゆくと、おなじような頑丈な鉄門を閉した家の四五軒目に、石丸りかという標札が出ていた。 余慶坊 内山書店
内山書店 寒さで耐えられなくなると私たちは、内山書店の奥のたまり場のストーブにからだをあたために出かけた。時によってさまざまな連中がそこに聚っていて、梁山泊の聚議庁であった。時代によって変転があって、聚る顔ぶれは変ったが、呉越同舟、中国人も日本人もこの場だけでは、腹蔵のない意見を闘わせ、互いのこころの流れあえる場になっていた。主人の内山完造は、よい引出し役であり、調停係りであり、偏らざる理解者であって、あまり類のない、たのしいコーナーの提供者でもあった。 内山夫妻の墓
共産党出版物の創造社に、蒋介石政府の役人が踏みこんで、噂をきいて駆けつけてみると、椅子はこわれ、戸棚のものはぶちまけられて、派手派手しい乱暴狼藉のあとだった。責任者の鄭伯奇が呆然としていた。張子平や、茅盾のような花形作家の本はみんな、そこの社から出ていた。 創造社 創造社 奥さんはたしか静枝さんと言ったとおもうが、上海で死に、内山さんじしんは、共産革命後招かれて、北京で死んで、奥さんの埋っている静安寺墓地のおなじ墳墓でいまは眠っている。
横浜橋 バルザックの表現にならえば、二つの胡桃割りのように、魯迅と、郁達夫がつれ立ってあるいている姿を、北四川路の近辺で、どこへいっても私は、よく見かけた。やや背の低い中年の魯迅のそばに、ひょろりとした郁達夫がよりそって、なにかひどくこみいった内証話でもしているように、話しかけると、魯迅は、しきりにうなずいている。蘇州河の河岸っぷちにしゃがんで、魯迅が石で土のうえに図を書いて説明していることもあったし、横浜橋ワンパンジョウのらんかんに郁さんが腰かけて、一時間ほども二人でじっと考えこんでいることもあった。 蘇州河
横浜橋 魯迅寓所 私が、宿にこもっているとき、郁達夫とその若い妻とが、私たちをつれ出して、フランス租界の彼らの寓居にひっぱっていってはじめて麻雀というあそびを教えてくれた。郁はあそび好きで、私のような毒にも薬にもならない相棒が気に入っていた。彼の妻が私の妻とおなじように師範出である親しみもあった。 郁達夫寓居
ガーデン・ブリッジ これから四馬路へのみにゆくという前田河と、私は、花園橋ガーデン・ブリッジの橋のうえで別れた。別れるとき彼は、二百円の一割二十円を、手数料のつもりか、私に手渡した。そのときの私の恰好も、因果なことに、蝙蝠安に似ていた。二十円で心があたたかくなって、肌にふれる夜風がなまぬるく、暖かであった。金と背なか合せの夢が、シャンプーの泡のように、ふつふつとこころのなかにうかんで、散っていった。 黄浦江 郁達夫寓所
花園橋 黄浦江 おそ春のくらい夜は、毒でふくれた蝮の咬みあとのように血ぶくれて、愛情とまぎらわしい殺意が快くうずいた。黄浦江は鱗片にとざされて、なまあたたかく見通しのきかない対岸の浦東プウトンに大長城香煙スリーキャッスルシャンイエンの広告の燈が化膿し坐取っているように眼にうつった。
日本人クラブ跡 上海日本人クラブ 上海へかえってくると、その歳もおし迫ってきて出発を急がねばならなかった。あわてふためいて、上海日本人クラブの二階に画を並べたが、在留邦人も退屈しているとみえて、人があつまり、単価が安いので金高はあつまらないが、それでもこちらの予想にほど近い収穫があった。魯迅や、魯迅が校長をしている神州女学校の女の生徒までが買ってくれた。

明記されていないものは『どくろ杯』からの引用です



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作成日: 1999年8月14日(土)