TOKYO FILMeX 2006

『マキシモは花ざかり』Q&A

開催日 2006年11月22日(水)
会場 有楽町朝日ホール
ゲスト Auraeus Solitoアウレウス・ソリト(監督)
司会 市山尚三
英語-日本語通訳 藤岡朝子


《註:最初の監督の挨拶の部分が抜けています。》

司会(日本語):カタログの監督のメッセージを見ましたら、最初はフィリピンの先住民族の映画を作ろうとしていたのが、なかなか製作資金が集まらず、それで頼まれてこの作品を監督したと書かれているんですが、これはどのような経緯での依頼だったのでしょうか。また、どの程度ご自分で脚本等を作られたのかというのをお聞きしたいと思います。

Auraeus Solito(英語):私は以前パラワンの民族についてのドキュメンタリーを撮っており、今度は劇映画を作りたいと思っていました。フィリピンの黄金時代といえると思いますが、ある神話的な時代、かつて私たちの民族はシャーマンの王族として君臨していた時代がありました。その時代の映画を作りたいと思っていましたが、誰もそのような映画に資金を出してくれる人はいませんでした。先住民族の映画祭に呼ばれたとき、先住民族の人が非常に進歩的なゲイの映画を作っていることにびっくりして、このような映画を私も作りたいと思っていたところ、魔法が起こったように、マニラに帰ったらそういう企画を提案されました。まさに窓が開かれて飛べるようにしてもらった感じです。
◆この映画への関わり方は、私の個人的な部分を投入しています。映画の中に描かれている地域はまさに私が育った場所で、今もそこに住んでいます。映画の中の警官の家は、私自身がいま住んでいる家です。

司会:手持ちの映像も多かったので、撮影はかなり小さいカメラで撮られたのではないかと思います。どのような形で撮影をされたのでしょうか。

Auraeus Solito:パナソニックの24Pというシステムでフィルムに変換しているんですが、このようなデジタルカメラは非常に小さいというのが特徴だと思います。ほかのカメラにはない特徴は、いろんなところに入り込めるということです。もし35ミリのカメラなら家が倒壊するような大騒動になってしまうんですが、カメラが小さいおかげで目立たない。それから、この映画にはスターは登場しない。近所の人たちはみんな私の友だちです。洗濯をしている人たちやマフィアのギャングの親分も私の友だちですので、撮影は非常にうまく進みました。

観客1(日本語):フィリピンの現在の姿がとてもリアルに描かれていて、よい作品だと思いました。質問が二つあるんですけれども、ひとつ目は、マキシのような子供にとって、教育の機会や就労の機会などの社会的な支援体制はどうなっているのでしょうか。もうひとつは、監督の作風は、古典的な撮影技法をしっかりと身につけたうえで、確信犯的に冒険をしているような印象を受けました。たとえばラストシーンは、『第三の男』を思い出させるようなよく考えられたシーンだと思います。この作品は、それほど多くない資金で、少ないスタッフで作られているように思えるんですけれども、どのような点で最も苦労されたのでしょうか。

Auraeus Solito:製作自体には特に困難はありませんでした。スタッフと近所の人たちもたいへん協力的に進めることができ、十三日間で撮影を終えました。
◆教育の機会というご質問ですが、フィリピンでは基礎教育を行う公的な学校があります。非常に小さい金額ですが、生徒はお金を払わなければなりません。非常に残念なことですが、これが払えない貧しい人たちもいます。こういうこと自体もひとつの戦いであるような貧しい人たちがいます。それから、教師の中でもあまりよくない行いをする人がいます。たとえば、食べ物を作ってそれを子供たちに売ったりするようなことです。生徒同様、教師も貧しいということだと思います。私の次の作品は、公立高校についての映画を考えています。
◆映画の作風が古典的な手法をとっているというご質問ですが、私の母がたいへんな映画ファンで、子供の頃からすばらしい映画をたくさん観てきました。70年代はフィリピン映画の黄金時代で、一生懸命列に並んで映画を観に行った想い出があります。その時代のフィリピンには、大作映画やすばらしい作品がありました。
◆『第三の男』は、マキシがよく行くDVDの劇場がありますが、あそこでみんなが観ているのは『第三の男』だという想定が脚本の中にありました。それにかけて最後のシーンをあのように演出したんですが、残念ながら『第三の男』は権利料が高くて払えなかったので、映画の中には『第三の男』は出てきません。
◆フィリピンでは海賊版が大変盛んですが、それはある意味でフィリピン人に大きな機会を与えることになりました。黒澤明やKieslowski(キエシロフスキ)といったアート系の映画が、路上でたったの1ドルで買えるので、貧しい人たちの中でも『第三の男』を観ている人はたくさんいます。そういう意味で、フィリピンに世界の映画がやってきたのは海賊版のおかげです。海賊版を支持しているわけではありませんが、安く買えるのならば、人々が文化を平等に享受することができるのではないかと思います。

観客2(日本語):たいへんすばらしい映画をありがとうございました。抑制された色調がすごくきれいでした。それから、少年の成長がすごく鮮やかに描かれていたと思います。質問なんですが、脚本がMichiko Yamamoto(ミチコ・ヤマモト)という日本系の名前の方なんですけれども、どういう方なのでしょうか。また、脚本は何語で書かれていたのでしょうか。それともうひとつ、沖縄にたびたびいらっしゃっているようですが、映画のお仕事で沖縄を題材にして何か撮られる予定はありますか。

Auraeus Solito:Michiko Yamamotoさんというのは、半分フィリピン人、半分日本人の方で、そういう意味では、日本のミニマリズムとフィリピンの活気の両方を一人の脚本家に取り入れたような方だと思います。“Magnifico”という映画の脚本を書いており、その映画はフィリピンで賞を総嘗めしたほか、ベルリンでも受賞しています。彼女が今回の脚本の資金を得たのはRaymond Lee(レイモンド・リー)というプロデューサーのおかげであり、彼が監督として私を指名しました。それは私にとってたいへん幸運な機会でした。
◆昨夜カラオケを歌い過ぎて、声がちょっと潰れてしまっています。すみません。山形ドキュメンタリー映画祭でドキュメンタリーが上映されたおかげで助成金を得て、沖縄の比嘉豊光さんという写真家で映像作家の方と交流をもつことができました。2003年の山形のあと、沖縄で私のドキュメンタリーの作品が上映されて、沖縄に滞在する機会を得ました。沖縄へ行ってみたら、非常にウマが合うことにびっくりして、今年も四ヶ月滞在することになりました。沖縄のいろいろな儀式を私が知っているパラワンの儀式と比較して研究しています。それは表層的な部分かもしれませんが、絶対に数年のうちに映画を作りたいと思っています。

司会:“Magnifico”というのは、記憶が間違っていなければアジアフォーカス福岡映画祭で上映されたと思います。そのときの邦題が何だったかはちょっと憶えていないんですが。《註:2003年のアジアフォーカス福岡映画祭で『マグニフィコ』のタイトルで上映されている。》

観客3(日本語):たいへん楽しませていただきました。キャスティングについてなんですけれども、特にマキシがとても魅力的な男の子だったんですが、どのようにしてキャスティングされたのか教えてください。

Auraeus Solito:100人の少年たちをオーディションをしました。また、バレーボールをするゲイのギャングのグループが街を闊歩しているんですが、その子たちにも声をかけました。しかし、本当のゲイの人たちに演技をさせると、テレビ番組の見過ぎで過剰演技になってしまって、気に入りませんでした。たまたまほかの作品のオーディションで、ヒップホップを踊る双子の兄弟がいたので、その子たちに「ちょっと女の子の演技をしてみて」と言ったんです。双子のマキシじゃない子のほうが女性的だったんですが、マキシのほうがいいと思いました。だから、彼は本当はゲイではなくてヒップホップの子なんです。彼のお母さんはキリスト教の牧師さんです。マキシ役の子は脚本を読んだらやりたがらなくて、もうひとりの女の子っぽいほうの子がやりたいと言っていたんですが、マキシが母親に説得されて引き受けることになりました。

司会:ビクトルをやった方も非常にいい俳優だと思ったんですけれども、この方はプロの俳優なんでしょうか。

Auraeus Solito:ビクトル役の彼は、ボディショットモデルという肉体派の体を見せる男性のミスコンみたいなコンテストで優勝した人です。そのあと大きな映画スタジオと契約をすることになって、ニュースターとして売り出す予定になっていました。私は、若手の新しく俳優になった人のアクティング・コーチをすることになり、新人たちと一緒にワークショップをやりましたが、彼の演技がすばらしいと思いました。彼の演技を見るとみんなが涙を流すほどなので、私は「私のメリル・ストリープ」と呼んでいました。「私が初の長篇を撮るときはぜひ君を俳優にするから」と言っていたところ、今回うまくその機会が回ってきました。非常に抑制されたいい演技をしてくれたと思います。

観客4(日本語):スラム街の映画は今まで何回も観てきたんですけれども、たいてい悲劇で終わって絶望的な気分になったり、運命論的なトーンを感じさせたり、暗い感じで終わったんですが、そういうのとは異種の感じを受けました。ホモセクシャルの主人公は、善悪二元論的なもの、あるいは復讐の連鎖みたいなものからの逸脱といったものを示していると思ったんですけれども、そういった関係があってゲイの設定にしたのでしょうか。

Auraeus Solito:フィリピンでは、歴史的にバイセクシャルというか、両性具有の人々が先住民の中でシャーマン的な役割を果たしてきたんです。古代においては、ある種の英雄の立場であり、最も高い精神的な位相とつながるコネクションをもっているとみなされていました。スペイン人による植民地化によって初めて、両性具有や同性愛が悪とみなされるようになりました。ゲイであるということは罪であり、悪であり、地獄に落ちると考え方が植民地化によってやってきました。私はこれを現代に置き換えて描いたといえるかもしれません。つまり、フィリピンには汚職や貧困といったいろいろな問題がありますが、そこにこの少年がある種の純真みたいなものを表しています。私が描いたこのコミュニティは、非常に貧しいけれども、心は決して貧しくはありませんでした。《註:最後にもう一文ありましたが、聞き取れませんでした。》

註:アンダーラインは、聞き取りが不正確で自信のない部分です。

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作成日:2006年12月4日(月)