TOKYO FILMeX 2006

『三峡好人』Q&A

開催日 2006年11月17日(金)
会場 東京国際フォーラム・ホールC
ゲスト 賈樟柯ジャ・ジャンクー(監督)
趙濤チャオ・タオ(出演者)
司会 林加奈子
北京語-日本語通訳 小坂史子


司会(日本語):こんなにすばらしい映画を作っていただいたことを心からお礼申し上げます。本当にありがとうございます。そして遅ればせですけれども、ヴェネチアでの金獅子賞おめでとうございました。ヴェネチアは趙濤さんも一緒にいらしてたんでしょうか。

趙濤(北京語):一緒に行きました。

司会:9月のヴェネチアのとき、私たちが日本で報道を伺っている限りでは、最初のラインナップには入っていなくて、ぎりぎりになってサプライズ上映という形でコンペで上映されて、結果として金獅子賞を獲られて、すごくあっという間の金獅子賞というイメージがありました。夏の暑い感じを 映画で出していくのはすごく難しいと思うんですが、蒸し暑さというか「うぅー」という感じが本当に伝わってくる映画になっているんですけれども、今年の夏まさに撮影していらっしゃったのでしょうか。さっき何回かに分けたと伺ったんですけれども、そのへんを教えていただけますか。

賈樟柯(北京語):この作品は、去年の9月、撮影する三峡地区が一番暑い夏に製作を始めました。それ以降、前後して三回ほど撮影に出かけています。それはひとつには、撮影の舞台になっている奉節の町は、三峡ダムの工事で人が移住していくんですけれども、その移住の過程、人々が町を去って行く過程を撮っていきたいという意図がありました。撮影するたびに奉節にあるの建物がどんどん少なくなっていくという状況とともに、時間をつないで撮影していきました。林さんからお話のあった5月の撮影というのは、ヒロインの趙濤さんが自分の夫と離婚の話をするシーンです。あそこはいわゆる三峡ダムの中心地で、そこの撮影許可が取れたのが5月だったので、一番最後のシーンを今年の5月に撮りました。

司会:ダムの撮影の許諾を取るのにすごく時間がかかったんですか。

賈樟柯:今年の2月からずっと申請を出していて、許可を貰ったのが5月です。

司会:趙濤さんは、季節が変わっているのに同じ夏を撮るというところに撮影のご苦労があったかと思うんですが、特に大変だったことなど教えていただけますか。

趙濤:季節的な変化は私にとってあまり問題になりませんでした。私の印象では、あの場所は一貫して非常に暑いところです。
◆私にとって辛かったのは、季節の問題よりも撮影場所の環境です。常に家屋を取り壊していたり、家屋が倒壊して非常にたくさんのゴミが出る、そういう撮影環境のほうが私にとって問題でした。そういう状況で撮影していますから、撮影するスタッフが安全に仕事をしていけるかということにいつも気を使いました。

司会:ビルが壊れたりとかそういった環境のことでは、私がとっても好きな忘れられないシーンは、ビルが飛びますよね。あそこのイメージは、脚本の段階からあったんでしょうか。

賈樟柯:実は今回、脚本を書く時間が三日間しかありませんでした。というのは、最初この場所でドキュメンタリーを撮っていたんですが、十日くらい撮っているうちに、ここで劇映画を撮りたいと思いました。すでにドキュメンタリーを撮っていたので、だいたい五日にひとつくらい建物が無くなっていくということがわかっていました。自分の撮りたい景色がどんどん変わっていくのがわかっていたからです。
◆今ご指摘があった建物の件ですが、まず、三峡という場所は僕にとってとても神秘的なところです。林さんのおっしゃった飛んでいってしまったタワーは、移住することを記念するモニュメントのタワーだったんです。ところが、市の政府にお金がなくて、未完成のままそこにほったらかしてありました。最初に見た三峡の美しい景色と非常にそぐわないので、これは飛んでいってほしいと思いました。
◆UFOが飛ぶようなシーンもありましたよね。あれはどうかというと、三峡ダムというのは非常に大々的な工事なので、以前はそれが非常にニュースになったのですが、だんだんそれが沈静化して、みんながあまり興味をもたなくなりました。誰も理解しようともしない、目にもかけないというようなところがあり、僕が三峡へ行ったときも、だんだん寂れていく町の様子が非常に寂しく感じられました。だから、「異星人でも来て、話でもしてくれたらなぁ」という気持ちからUFOを入れました。

司会:町も生きていて町も死んでいって、人も生きていくし変わっていくし…というのが、本当に切実に胸に迫ってくる映画だったと思うんですけれども、みなさんはいかがでしょうか。

観客1(日本語):ヴェネチア映画祭での受賞おめでとうございます。受賞されてからずっと観たかったので、今日観られてとても感動しています。質問は二つあります。劇中、『男たちの挽歌』の歌などが何度か登場しましたが、あれは80年代の映画で、我々日本人からみるとけっこう古い映画ですよね。あれを採用された経緯や意図を教えてください。二つ目は、歌がすごく上手な男の子が二度出てくるんですが、あの歌は本当に彼が歌っているのでしょうか。それから、どういう経緯であの子が登場したのかというのを具体的に教えてください。

賈樟柯:香港映画のお話からお答えします。僕が最初に三峡ダムの近くのこの奉節という町に来たとき、ここにひとつ河があって、その河の埠頭に人が行き交って、渡世人みたいな人々がいたり、人の行き交いや物流の流れから、渡世、すなわち世の中や世間を渡っていくというイメージをすごく受けました。アクション映画や武侠ものでも、たとえば、遠くからはるばる河を越え山を越えて敵討ちに行くというようなものがあります。僕の映画の中では、河を渡って来るのは、自分の感情問題、自分の人生を解決するための男女であるわけですが、そういった流れ者的な渡世感といった感じが、今回の映画で使った“上海灘”の歌に非常にマッチしていました。もうひとつは、自分がMarkだと言っていた、周潤發になりきっている青年が出てきましたが、そういった彼らの持っている渡世感、渡り歩いていくイメージがぴったりだと思ってこの歌を使いました。
◆歌の上手な男の子は、僕たちが仕事で奉節へ行って船を降りた途端に、「どうです、おなかがへっていたらいい食堂があるよ」とか、「今日もし宿屋がなければ、宿屋を紹介しますよ」とか言ってきたんです。「ごめんね。もう宿屋も決まっているし、おなかもすいていない」と言って、「君は何をしているの?」と訊きました。それに対しては、言葉を濁して自分が何をしているか言ってくれなかったんですが、そういうふうに、奉節の町で彼にしょっちゅう出くわしました。客引きみたいな子供ですね。ある日その子がいきなりやって来て、「僕を役者として使ってくれない?」と言いました。それで「君は何ができるの?」と聞くと、「歌が歌えるよ」と言って、歌ってくれたのがあの曲でした。 撮影する段になり、「監督、僕はどうやって演技したらいいの?」と聞くので、「君の最愛の人に歌を歌ってあげてね」と言いました。そうすると、ちょうど自分の彼女が別の町に住んでいて、「じゃあ彼女のために歌う」ということで歌ってくれました。テレビ画面や、旅芸人のような旅をして興行をしている人と同じように、特別な理由はないけれどもそこで歌を歌って、またそこを去っていく。そこで黙々と歌を歌ってまた別れていくという、僕はそういうイメージで捉えています。

観客2(日本語):非常にすばらしい映画で感動しました。二つほど質問させていただきたいんですが、同じように町が壊されていく人を描いた映画に、Pedro Costa(ペドロ・コスタ)監督の『ヴァンダの部屋』という映画があります。監督はこの映画を何かしら意識されたでしょうか。もうひとつは、映像が非常に乾いていて印象的だったんですが、撮影に関して特にこだわったところがあれば伺いたいです。

賈樟柯:先に最初の質問の答えですが、僕はその作品を観たこともありますし、その監督の友人でもあります。しかし、その作品を意識したことは全くありません。
◆撮影についてのご質問ですが、これはHTVで撮っています。フィルムではありません。
◆たしかに町並みが変わってきているということはありますが、三峡ダムの近くに広がる景色は、いわゆる中国の伝統的な絵画によく描かれる山水が残っているところです。たとえ家屋がだんだん無くなっていこうとも、河は残り山はある。そういった中国の絵画的な感じを撮ってみたいということを、撮影に入る前にキャメラマンと相談しました。そのために、巻物が流れるような横移動の撮影をキャメラマンと相談して考えました。仕上げのポストプロダクションの段階でも、色彩的なことを重要視しています。中国の山水画を考えて、少し緑色がかった色彩を足しています。
◆気候に関してですが、三峡ダムのあたりは非常に湿気の高い、蒸し暑い場所でしたので、むしろそういったベタベタ感みたいなほうを僕は意識しました。あんまり暑いところなので、たとえば趙濤さんが、「芝居の中で、扇風機で自分の体を吹かしてみたらどうだろう」というようなことを言ってきて、「本当にそれはいいね」みたいな感じで取り入れたりしました。そういう形で地元の気候の感じを出したつもりです。

司会:撮影監督は、もちろんみなさんよくご存じの余力爲さんです。今回はご来日ではないですが、ここで撮影の余力爲さんに心から拍手を贈りたいと思います。本当に彼でなければできない、あり得ない、すばらしい画を堪能させていただきました。

観客3(日本語):さきほどのご質問の中で、最初はドキュメンタリーとして撮ろうと思っていて、途中から劇映画に変わったというお話を聞きましたが、どんなところで劇映画を撮ろうと思ったのでしょうか。それから、この映画をドキュメンタリー映画として撮ることと劇映画として撮ることとの違いをどういうふうに考えていらっしゃるのかお伺いしたいと思います。

賈樟柯:実際は、ドキュメンタリーを撮るのをやめて劇映画にしたのではなく、二作作っています。今回ヴェネチアには、ひとつはこの劇映画、もうひとつは“東”というドキュメンタリーの二つを出品しています。ドキュメンタリーを十日撮ってから、もうひとつ劇映画を作りたいということで、二作品作りました。
◆“東”というドキュメンタリーは、友人の劉小東という画家が、奉節の町へ行ってそこの老人たちの絵を描くところを、僕がドキュメンタリーとして撮ったものです。その撮影をしているうちに、画家がモデルにしている労働者の人たちに非常に心を動かされました。特に、ドキュメンタリーのラストのほうを撮っているときに、労働者の人たちが煙草を吸って、肩に工具をかつぐのを見て、「あぁ、これから自分が撮ってきた彼らから離れて、自分のうちへ帰って行くんだなぁ」と思いました。そこにはどんな生活が待っていて、彼らはどんな感情問題、精神的な問題を抱えているのだろうなどと考えました。みんなそういう生活をもっているが、おそらく誰もが自分のプライヴェートは守りたいし、人に覗かれたくない。だから劇映画で撮りたいと思ったのがきっかけです。

観客4(日本語):簡単な質問ですが、途中から青いシャツを来た東明さんという人が出てきますが、演じている俳優さんは、たしか“小武”やほかの作品にも出ている俳優さんだと思うんですけれど、どうでしょうか。僕は“小武”から監督の作品を観ていて、来日の際も全部観に来ています。ちょっと太ったような気もするんですけれど、いかがでしょうか。

賈樟柯:そのとおりです。あれは小武そのものです。

観客4:やはり監督と息が合うから演じていらっしゃるんでしょうか。

賈樟柯:今回は、彼のほうから「これをぜひやらせてください」という話がありました。なぜなら、いつも王宏偉さんにやってもらう役は、こそ泥だったり、あまりまっとうではない仕事が多かったですよね。今回はヒロインの夫の友人という役で、考古学をやっていたり、わりとインテリジェントな感じがあるので、ぜひこれをということで。撮影をする前にダイエットをしてもらって、10キロくらい落としてもらっています。王宏偉さんがジョークで言うんですが、今度『小武パート2』を中年の小武でどうでしょう、という話があります。

観客4:あと一点だけ、山西省の物品として酒が有名で、汾酒というのがあるんですが、監督の作品に汾酒が出てこない理由はなんでしょうか。

賈樟柯:今回出しましたよ。「お兄さん」と言っていたところの、あれが汾酒です。

観客4:ちょっと見えなかったですね。

司会:この作品のこれからの中国での展開はどのようになるのか、ちょっと教えていただけますか。

賈樟柯:12月12日から中国で公開します。

司会:じゃあもうすぐの公開ですね。大盛況をお祈りしております。また日本でも、ビターズエンドの配給によって、来年2007年の公開を予定しております。今日の感動をぜひ一人でも多くの方にお伝えいただき、またもう一度ご覧になっていただければと思っております。

註:アンダーラインは、聞き取りが不正確で自信のない部分です。

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作成日:2006年11月21日(火)