TOKYO FILMeX 2004

『プロミスト・ランド』Q&A

開催日 2004年11月27日(土)
会場 有楽町朝日ホール
ゲスト Amos Gitai(監督)
Marie-Jose Sanselme(脚本)
司会 市山尚三
英語-日本語通訳 藤原敏史


司会(日本語):監督にはさきほどお話しいただいた1ので、Sanselmeさんにひと言ご挨拶をいただきたいと思います。

Marie-Jose Sanselme(英語):こんばんは。この『プロミスト・ランド』という映画は、Amos Gitaiの大きなプロジェクトの一部です。この中には、昨年『アリラ』をご覧になった方も多いと思いますが、『アリラ』の中で、外国人の労働者がイスラエル社会でどういう位置に置かれているのかということを扱っている部分があったことを憶えている方もいると思います。この『プロミスト・ランド』も、『アリラ』と同様に、ふたつの対立しあう民族の間で、そのどちらにも属さない人々がどういう位置に置かれているかという問題を扱った映画でもあるのです。

観客1(英語):Roseが水上のクラブから出て行くところで、日本の国旗とイタリアの国旗が映るんですが、その二つの旗を選んだ理由は何でしょうか。

Amos Gitai(英語):もちろん二つの国へのオマージュです。本当の意味でのオマージュかどうかはわかりませんが。

観客1:ロシアや東ヨーロッパからやってくる売春婦という問題は、日本にもありますしイタリアにもあります。そのことも考えたと思いますがいかがでしょうか。

Amos Gitai:おっしゃるとおりだと思います。だからこそ、自分だけではなく、日本の映画監督あるいはイタリアの映画監督にも、ぜひこの主題で映画を作ってもらいたいと思います。

観客2(英語):この映画のキャスティングは非常に国際的で、Hanna Schygulla、Rosamund Pike、Anne Parillaudといった女優が出ています。外国人の女優とコミュニケーションをとるときに、何か難しいことはあったでしょうか。

Amos Gitai:この『プロミスト・ランド』は、Marie-Joseもちょっと言いましたが、三部作の第一部として構想されています。その三部作のすべての作品で、人々が国境、境界を越えていくというテーマを扱うことになります。今や境界というのはかなり崩壊していると思いますが、映画作家や音楽を作る人が国境を越えて世界中に出て行く一方で、犯罪組織もまた国境を越えて行っています。この映画で取り上げたようなネットワークは、その地域の人だけが参加しているものではなく、国境を越えて世界中に広がっているものです。長い間、イスラエル人とパレスチナ人の俳優を使った映画を撮ってきましたが、この作品ではあえて、ヨーロッパの重要な3人の女優に出演してもらうことにしました。3人ともこの映画のエッセンスを非常によく理解してくれたことは、私にとってたいへん嬉しいことでした。たとえば娼婦たちを競りにかけるシーンで、自分たちの存在感をもって立ち上がってきてくれました。

観客3(英語):こんにちは。あなたの映画にたいへん感動しました。自分自身が女性たちのひとりになったような気がしました。とても強い映画だと思います。もちろん私には、彼女たちが体験したことや彼女たちの気持ちは想像することしかできないのですが、その中でRoseという人物の気持ちに関して、彼女がどこから来たのか映画の中では明かされていないので、そのへんについて説明していただけないでしょうか。

Amos Gitai:Roseというのは、私たちと同じ側にいる人間だと思います。彼女は最初は覗き屋として彼女たちを見ていますが、より興味をもって、結局自分でクラブに行くわけですね。そのクラブでDianaという女性が話しかけてきて、彼女に助けてもらいたいという気持ちを伝えようとする。最初RoseはDianaに対して、ちょうど私たちが乞食に声をかけられたときと同じ態度をとります。つまり「私には関係ない」と言って関係を切ろうとします。しかし彼女の心の中に何かが残って、彼女たちと一緒に旅をすることを決意するんだろうと思います。

観客4(日本語):事実に基づいて作られた映画だと思うんですが、どの程度まで事実に基づいているのかということと、どういう情報源を使って事実を探ったのかということをお聞きしたいと思います。

Amos Gitai:まず、Marie-Joseと一緒に、イスラエルの人権団体が彼女たちの証言などをまとめたレポートをかなりの量読みました。それ自体は言葉でしかない、あるいは統計でしかない情報なので、それにいかに映画としての形を与えるかが問題でした。女性たちがどのようにして単なる商品となっていくのか、すなわち、どのようなやり方で彼女たちを威圧して自分を表現できなくしてしまうのか、どのようにして彼女たちを服従させていくのか、そのプロセスをどう映像化するのかが問題でした。たとえば、車のヘッドライトや懐中電灯を持っている人間をどう使うかといったことです。

Marie-Jose Sanselme:そういった証言を読むのは非常に恐ろしい体験でした。彼女たちは完全に希望を失っているのです。この映画では、売春という問題そのものを描くのではなく、むしろそのネットワークの根っこがどこにあるのか、そしてどうやって女性たちは商品に成り下がっていかざるを得なくなるのかということを追求したいと思いました。だからこそこの映画の中で、彼女たちは常にある場所から別の場所へと移動し続けているのです。その間彼女たちは、自分たちがどこにいるのかもわからない、国境を越えているということすら知らないのです。

観客5(英語):イスラエルでの反応はどうだったのでしょうか。特に、音楽を使いながら非常に暴力的なことが行われているシーンなどについて、どういうリアクションがあったのでしょうか。それから、Hanna Schygullaが出ていますが、彼女は映画の女優として知られています。Fassbinderも売春というテーマを何度も扱った監督ですが、そこに何か文化的なコネクションみたいなものがあったのでしょうか。

Amos Gitai:私の映画はいつもそうですが、イスラエルでは賛否両論の反応がありました。私はそうであるべきだと思います。映画というものが現実の文脈に結びついて存在しようとする限り、意見が分かれて当然だと思います。映画はただのショービジネスではなく、現実の反映であると私は考えています。
◆自分の国を本当に愛するということは、自分の国を問うことである思います。日本でも、大島渚が『絞死刑』という作品で在日コリアンの労働者階級の少年の死の問題を扱っていますが、これもまた自分の属する文化や社会に対する力強い結びつきです。そういう意味では、Fassbinderの作品は、常にドイツの社会、文化といった自分の属するものを追いかける作品であると思います。
◆Hanna Schygullaとは、10年くらい前に、何本もの映画で一緒に仕事をしています。昨年、パリのポンピドゥ・センターで私の映画の大きな回顧上映があり、Hanna Schygullaも来ていました。そのときに、この映画の彼女の役を書いてオファーしました。彼女のために書いた役です。

司会:お話に出ていたのは『ゴーレム』ですよね。ほかに何があるんですか。

藤原:Hanna Schygullaが出ている映画は『ゴーレム、さまよえる魂』と『石化した庭』と、それから演劇とで4本くらいです。

Amos Gitai:この映画の最後に聞こえている歌は、10年前にヴェネチアでやった演劇のために作った音楽をHanna Schygullaが歌ったものです。作曲はドイツのStockhausenで、歌詞は旧約聖書から起こした文章です。

1]上映前にAmos Gitai監督の挨拶があったが、残念ながら記録していない。出演者もスタッフも女性が多く、女性たちの活躍によりこの映画を撮ることができた、というような話。

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作成日:2004年12月1日(水)