TOKYO FILMeX 2004

トークショー「内田吐夢の魅力を語る」

開催日 2004年11月20日(土)
会場 東京国立近代美術館フィルムセンター大ホール
ゲスト 高橋洋(脚本家、映画監督)
篠崎誠(映画監督)
司会 市山尚三


司会(日本語):ご紹介することもないと思いますが、一応ご紹介します。高橋洋さんは、『リング』の脚本家として非常に有名な方ですね。つい最近公開されました『ソドムの市』という作品で長編監督デビューもされまして、さらに新作の準備をされております。これもつい最近出版された本なんですが、『映画の魔』というすばらしい本が出ています。買っていない方はぜひとも読んでいただきたいと思うんですが、この中にオールタイム・ベストテンというのが入っていて、『飢餓海峡』をたしか選んでいらっしゃいましたね。すべての日本映画の中のベストテンということで。ということもありまして、今回トークショーにお願いいたしました。
■篠崎誠さんは映画監督で、『おかえり』、『忘れられぬ人々』、『犬と歩けば』というような作品を監督していらっしゃいます。同時に、『刑事まつり』という短編のプロジェクトを去年から立ち上げて、いまだに続いています。内田吐夢に限らず、非常にたくさんいろんな映画を観ていらっしゃいまして、内田吐夢作品も非常にお好きだということでお呼びしました。篠崎さんに進行をしていただいていいですか。

『飢餓海峡』

篠崎誠(日本語):声をかけていただいて非常に迷ったんですが、高橋さんとお話しできるということで、いいかなと思いながら…。内田吐夢さんってあまりにも荷が重いと思ったんですね。もちろん戦前の作品も、『警察官』とかごく一部のものしか観ていないですし。なにしろ僕が生まれたのは昭和38年ですから、オンタイムで観ているものはないんですね。全部、浅草であったり、池袋の文芸坐であったり、名画座で追いかけている状況なので。それでどうしようかと思いながら今日に至っているんですけれど。
■内田吐夢ファンの方にはこの話がおもしろいかどうか困るんですが、僕は高橋さんが脚本を書かれた『リング』、監督は中田さんという方がやられていますけれど、これを観たときに『飢餓海峡』のことを思い出した。もちろん物語は全然違いますし、タッチも違うんですけれども、冒頭、海から始まるじゃないですか。『リング2』にはそれがもっと露骨に出ているんですけれども、モノクロの使い方ですよね。それを観たときに、そのときには『飢餓海峡』の話をしたことはなかったと思うんですが、絶対内田吐夢さんの『飢餓海峡』を観て、言葉は悪いかもしれないですけれども、それがトラウマのように高橋さんの根幹の中に残っていて、そこから出ているという印象を受けたんですね。ひと言で言ってしまうと、そのモノクロの海が不吉で、海自体や波がすごい恐い。ひょっとして現実の海を見て感じたのではなくて、『飢餓海峡』を観てすり込まれてしまったのかなという気が勝手にしました。

高橋洋(日本語):海から始めようという話をしていたときに、『リング』はカラーですけれど、『飢餓海峡』のあの海だというのはキャメラマンの方とも話して、シナリオにも、「水の粒子ひとつひとつが映るような恐さで海を撮ってほしい」というようなことを書いたりしました。ただ、『リング』の場合は舞台が大島で、太平洋ですよね。キャメラマンの人から、「『飢餓海峡』の海はねぇ、親潮と黒潮がぶつかっているからあの海になるんです」と、よくわからない理屈なんですけれど、黒潮では撮れないと言われて。たしかにちょっと健康的な海になってしまいました。

篠崎誠:僕が初めて観たのは、10代の終わりくらいだったかな、フィルムセンターで、何の特集だったかは忘れました。逝ける映画人追悼特集の中だったのか、内田吐夢さんの特集ではなかったと思うんですけれども、その中で観て、世間でいわゆる名作と言われているかぎかっこつきのものではないような、生々しいものを感じたんですね。高橋さんがご覧になったのは『飢餓海峡』が最初ですか。

高橋洋:そうです。もちろん劇場ではなくて、高校生のときですけれど、東京12チャンネルで白井佳夫さんが前説をやっていた『日本映画名作劇場』。「あなたは日本映画の本当のおもしろさをご存じですか?」という、恫喝するようなね。「知りません、知りません」…。それで新藤兼人さんの『鬼婆』とか、ふつう高校生が見ないものを毎週見て、ある日『飢餓海峡』を前編、後編に分けて2週連続でやりました。それがものすごい衝撃だったですね。「こんな映画があったんだ」という。
■たしか白井さんがそのとき前説で説明したと思うんですけれども、洞爺丸遭難のくだりとか、わざと16ミリで撮ってそれを35ミリにブローアップして、擬似ドキュメンタリーの手法ですね。ホラー映画などの手法にものすごく影響を与えているんですけれども、そういうことを初めてやったんじゃないですか。ニュースのように撮るんだという方法論で、あえて画質を荒らしてやってみせたというのは、初めてなんじゃないですか。
■ものすごく影響を受けてしまって、そのときはもう8ミリ映画を撮っていたんですけれども、「三國連太郎さんが森の中をさまようあのシーンをやろう」と、8ミリキャメラを回したりしていたんですね。それで高校を卒業したら、今度は「三國連太郎がさまよったあそこを歩きたい」ということで、下北半島めぐりをやった。映画を観たはずみで現地まで行ってしまったのは、『飢餓海峡』が初めてですね。そのくらい強烈だった。

篠崎誠:具体的にありますか、描写として自分の中で本当に…。三國さんが歩かれているところもそうですけれども。

高橋洋:主人公の三國さんが妄執に取り憑かれて一線を越えてしまうときの、モノクロのネガ反転。内田吐夢さんって、本当にいろんなことをやっているんですよね。いろんな実験を映画の中でやっているんですけれど、あのネガ反転の恐さというのはいいしれないものがありました。実際真似したんですよ、ちょっと失敗したんですけれど。でも、呪われたようにさぁっと画面が変わるあの感触はすごい感覚だった。
■あとね、内田吐夢さんの映画を観直すと、その都度自分でびっくりするんですけれど、『飢餓海峡』のクライマックスで取り調べがいきづまっていて、三國連太郎が「北海道へ連れて行ってくれ」と言い出すでしょう。「北海道へ行けば何もかもわかるんだ」と言って。観ている我々も、いったいなんで北海道へ行きたいと言っているのかわからないわけですよね。刑事さんたちも「何を言っているんだ」と、わからないんだけれどもとりあえず連れて行こうということで、最後の連絡船の甲板のシーンになります。そこで伴淳三郎の刑事が犬飼さんに声をかけて、「あれが恐山ですよ」と言ったときに、ちょっと僕の妄想で作っているかもしれないんですけれど、三國連太郎が「あぁっ」と、初めて自分がなんで北海道へ行きたいと言ったか理由がわかった。自分の無意識に気づいたというか。「恐山を見たかったんだ、この人は」と、3回くらい観たときに初めて、三國連太郎がそういう芝居をしていることに気づいてすごく感動したり、そういうフィルムだったですね。そこに行きたくなる映画なのかな。

『血槍富士』

篠崎誠:映画としてよくできているんですけれども、いわゆるよくできている映画というものからちょっと溢れ出る瞬間があって、それは内田吐夢の映画から一貫して感じるような気がするんですね。『血槍富士』も、久々に大きいスクリーンで観ましたけれども、最後に自分の主人を殺されたその死体を目の当たりにして、俯瞰気味で上のほうからドアップで片岡千恵蔵さんの顔を写して、千恵蔵さんがのけぞるんですよね。それまではわりと構図を端正にやっていて、これもキャメラは吉田貞次さんでしたっけ。吉田さんには10年くらい前に京都でお会いして、そのときは加藤泰さんのお話を伺いに行ったんですけれども、内田吐夢さんのお話もありました。自分はいかに内田吐夢さんから影響を受けたか。「映画で一番大事なのはロングショットなんだ。ロングをどういうふうに撮っていくのかがとても大事なことだ」と。その方が、後年、深作さんの『仁義なき戦い』を…。今日の『血槍富士』を撮られた方が『仁義なき戦い』のキャメラをやっているとは、とうてい同じキャメラマンとは思えないし、見えないんですけれども。端正に引きの絵やミドルサイズの寄りをやった挙句に、どこかに、「画面が歪んで顔が歪んでもいいからこの一点は」というところがあって、そこからいきなり映画がうねり出すような感じがします。

高橋洋:破調を恐れないというか、「ふつうこの路線でいったらこういうフレームの中で収めるものだよなぁ」という我々の感覚を、平気で踏み越えてくるところがありますよね。やはり名作に収まろうとしない凄みというか、そういう人で、ゆえに批評しにくいというか、評価を確立しにくい時期があったのかもしれないですけれども、やっぱり「今や新しい」としか言いようがないですね。

篠崎誠:本当にそうですね。

高橋洋:『血槍富士』も、昔フィルムセンターで観たときは、まだまだ見方が幼いというか、「なんで片岡千恵蔵はあんなに強いんだ」という素朴な疑問を持ったんですよね。ただ最後の立ち回りがものすごく恐かった。今回観直してみて、やっぱりふつうだったら負ける、勝てるはずはないんですよね。どうみたって片岡千恵蔵はたいした剣術も持っていない、技量もない下郎であって、相手は5人ですよね。勝てっこないんですけれど、何かで調子が狂ったというかね。何かでつまづきが起きて、「こんなはずじゃなかった」という感じで5人が次々と死んでいく、そのプロセスが本当に恐いですよね。そのきっかけになったのは、酒樽に刺さって酒が「ぴゅーっ」と、あそこで何かが狂っていく。どう考えても片岡千恵蔵は負けて終わるはずなのに、みんな「えっ? えっ?」って、自分の運命が信じられないというように5人が死んでいくのが恐いと思いました。

篠崎誠:槍の長さを映画で頭から出していますよね。最初移動撮影でずっと土手を歩いているところで、槍は当然フレームに入るわけですから、人と槍のシルエットで対比が鮮やかに見えるし。ちょっとコミカルなシーンで、舟に乗って、長い槍の持ち場に困って引っかかってしまうというようなことがあったり。あるいは大泥棒を結果的に捕まえるところなんかも、あの前はちゃんと覆いを被せているはずなのに、なぜか覆いがとれて、抜き身のまま出てくるんですよね。抜き身のままで出ないと劇作としては通じないんですけれども、あの白い刃がギラッと見えて、それに大泥棒が魅入られたようによろよろと柱にもたれるじゃないですか。そういう槍そのものの物質的な長さとかそういうものがちゃんと映っているんです。内田吐夢はロングショットで俯瞰気味に室内を撮ることが多いんですけれども、彼のクローズアップのあとにぱぁーっと抜くとものすごい俯瞰になって、単に技術的なことだけじゃなくて、ぱっと俯瞰になったときに、あの槍の長さがすごく際立つんです。

高橋洋:あれはすごく重要だと思うんですよね。最近変なチャンバラ映画を撮ったものでそういう見方をしちゃったんですけれども、やっぱり1対5って大変ですよね。そのときに槍をめくら滅法に振り回して、五人が近寄れない空間を作っているというのは、ある種エクスキューズというか、一度に五人を相手にしなくてすむという場を作り出しているんですよね。
■それでこのあいだ篠崎さんと電話でお話ししたんですが、一人目の侍をやっつけるときに、樽の奥のほうに追いつめて刺し殺しますよね。ああいうところはカットを割らないほうが追いつめられていく怖さが出るんじゃないかと、ちょうどご主人が樽の間に追いつめられるあの感じですよね、「ああいうふうにしたほうが恐いんじゃないかなぁ」とファースト・インプレッションでは思ったんです。けれども今回観直してみて、あそこでたった一人を相手にぐいぐいぐいぐいやったら、ほかの四人に斬られる。リアリズムで言ったらあれはあり得ないんですね。後ろに人がいて、いくらでも斬ってかかれるすきはあるはずなんですけれど、槍を突いていく片岡千恵蔵を素早くカットバックで見せているので、背後でほかの四人が何をしているか見えないんですよね。それでうまいこといっているというか、「ほかの四人は何やってるの?」という疑問を観客に起こさせない見事な編集であのチャンバラを成立させていて、かつ長い槍ですからあまり近くに寄れないというエクスキューズもあって。

篠崎誠:今度『酒と女と槍』という映画もありますけれど、あれは英語タイトルが“The Master Spearman”、槍の達人。そちらは大友柳太朗さんが槍の達人をやっているんですけれども、『血槍富士』の場合は決して達人が出てくるわけじゃないですね。自分でしゃにむに降りかかりながら、長槍の処置に困るような。でも、片岡千恵蔵さんが強烈な形相ですよね。はっきりいって槍も怖いんですけれども、かかってくる必死の顔を見ると、あれがやっぱりすごいと思いますね。刺された瞬間の悪い連中の顔も、ひとりひとりちゃんと死んでいく表情が見えるようになっている。それで酒びたりのシーンになっていって、ちょっと『酔いどれ天使』の最後みたいな感じになる。

高橋洋:あれは撮影当日に言い出したみたいですね。水びたしになるということはリテイクがきかないということで、異様な緊張感で全体をもっていくという…。すごい。

篠崎誠:あと一箇所、本当に映画としか言いようのない、なんでもないシーンなんですけれど。自分の娘が死んじゃったのでその身請けのお金をあげて女が助かって、「ありがとうございます」と言っている奥のほうでお殿様がひとり控えていて、バストサイズぐらいですかね、寄ると、ちょうど障子に薄陽が射しているんですよね。それまでずっと雨が降っていたというのもあるんでしょうけど、ふっと薄陽が射してくると、外から「下に、下に」という声が聞こえてきて、障子を開けてみる。当然そこはセットで作られていて、オープンと室内を目線だけでつないでいる。お殿様が見ているのと、みんなが手を振って去っていくのを、ただ単純に切り返して見せているんですけれど、違う空間を目線だけで見事につないでいる。
■もちろん内田吐夢さんは激しいシーンもすごいんですけれども、そういう何でもないシーンもすごい。こういうのは今誰もやれなくなっているんじゃないかな。そういうすごく繊細で端正なところと、破綻を恐れないというか、映画全体をまとまりよくするんじゃなくて、「ここはこの激情にまかせていくんだ」という感じですね。と言いながらも、映画はカットごとに切っていくわけですから、なかなかそういう単純な思い込みや激情は映らないはずなんですけれど、それがカットが変わってもちゃんとつながっていく。これは本当に何でしょうね。一本一本全然違うんですよね。数はそんなにたくさん観ているわけじゃないですけれど。

『恋や恋なすな恋』

高橋洋:今回観て、一番ぶっとんだのは『恋や恋なすな恋』でした。ものすごく影響を受けそうな予感がします。ご覧になっていない方がいると思うので、内容は言わないほうがいいというか、知らずに観たほうがいいと思いますが。こういう言い方をすると、いかにも珍品であるかのような匂いが漂うかもしれませんが、そうではなくて…。たしかに物の本を読むと、公開当時、興行的には惨敗したみたいで、内田吐夢監督もそれが非常につらくて語ることの少なかったものらしいです。浄瑠璃などが一般のお客さんにとって馴染み深かった時代でも、やっぱりこの映画にはついて行けなかったのかという、「そうなんだ」という思いもあるんです。ただふつうの映画の物語の接続のしかたと全然違うことをやろうとしていたんだという、その実験性のすごさというのは、今観るとはっきりわかります。この作り方が世の中に広がってきたらいいなと思うんですけれど。途中から書き割りになるようなのも含めて。

篠崎誠:木下恵介さんの『楢山節考』みたいに、あえて全部舞台劇のようにやってしまうとかいうことじゃないですよね。現実の空間で撮っているところと人工的に撮っているところが、布一枚で通底していたりするじゃないですか。すごいですね。冒頭なんて『陰陽師』より全然すごいと思いました。

高橋洋:それはもう、かかっているお金も全然違うと思うんです。リアリズムと言われるものでぐいぐい押していくかと思ったら、途端に蝶々が飛んできて…。

篠崎誠:また蝶々がいいんですよね。作り物なんですけれども。

高橋洋:たしかに蝶々って作り物でなければ無理なんです。

篠崎誠:今だったらCGとか使えるんでしょうけれど。

高橋洋:蝶々が飛んでくるところでがらっと変わってしまう。だからさっき言ったように、あるひとつのトーンの作品を作っていったら、ふつうそれを通さないとまずいと思うし、おそらくお客さんもそう思うんですよね。そこで異物が入ってきたら「あれっ?」って言って…。たぶんそれは公開当時あまり評判がよくなかったということと関係があると思うんですけれども、いまやそういうふうに表現のレベルをどんどん混交していっていいんだという考え方があることを、高らかに宣言する映画だと思いますね。

篠崎誠:そうですね。僕は逆に、今から二十何年前に『陽炎座』という清順さんの映画を、『恋や恋なすな恋』を観る前に観ちゃったので、こっちを観たときに、清順さん自身も歌舞伎はお好きなんでしょうけれど、「絶対清順さんはこれをやろうと思っていたんだ」という気がしましたね。要するに、人間をつきつめて追っていくという文脈として語られがちなんだけれども、それ以外に、映画としての新しい実験を…。小津さんにろ溝口さんにしろ、だんだん年を重ねて晩年になるにしたがって、自分の方法論をきっちり固めていくんですけれども、内田吐夢さんという方は本当にかなり若々しい実験精神があって。同時に、じゃあ人間は適当でいいということではなくて、ちゃんとリアリズムという人間を見つめるまなざしと、それをわかりやすいお芝居やカメラワークではなく…。ふつう人間を追っていくと、どんどんカメラがおとなしくなって、自然さに近づこうとするわけですけれども、そういう部分にあえて背を向けるような形で実験をし続けていて、本当にすごいと思いますね。

その他

司会:そろそろ時間が迫ってきましたので、何かありますか。

篠崎誠:もうこのあとの『たそがれ酒場』で…。

司会:今回上映する作品の中にも、『暴れん坊街道』とか『黒田騒動』とか、そんなに上映機会の多くないものもありますし。

篠崎誠:『酒と女と槍』というのも、槍自体がとても恐い。忘れた頃に出てくるんですけれども、槍がどこにもなくなったと思うとその瞬間に出てきて。内田吐夢さんの作品の中では千恵蔵さんが悲劇的な役割を負っていて、それこそ今日の『血槍富士』もそうですが、今度は大友柳太朗さんに悲劇を押しつける役目をしていておもしろいと思いました。大きい画面で観ないと…。『血槍富士』も、ヴィデオじゃわからないですね。最後に峠のところで槍がすぅっと、千恵蔵さんの姿ではなくて槍だけが消えていくというのは、映画館で観ないと絶対にわからないことで、やっぱり映画の画面ですよね。

高橋洋:あとは『妖刀物語 花の吉原百人斬り』。これはすごい。あれは影響を受けました。

篠崎誠:依田義賢さんのシナリオを読んでいて、今日はその話もしたかったんですけれど…。これはただもう観ていただければ。はっきりした映画なので。

高橋洋:『大菩薩峠』などと通底する輪廻、因果と言うんでしょうか、業の世界。

篠崎誠:糸車が回っている。

高橋洋:はい、真似しました。

篠崎誠:もう、ただ観て経験するしかない映画としか言いようがないですね。

映画人は語る
電影萬歳ホームページ
Copyright © 2004 by OKA Mamiko. All rights reserved.
作成日:2004年12月9日(木)