タイ映画祭2003

日タイ映画交流の黄金時代

開催日 2003年9月28日(日)
場所 国際交流基金フォーラム
講師 門間貴志(明治学院大学助教授)
司会 石坂健治


イントロダクション(石坂健治さん)
講演(門間貴志さん)
質疑応答

イントロダクション(石坂健治さん)

この映画祭も一週間経過しました。様々な角度からタイの映画に光を当てるという主旨でやっております。今日はちょっと趣向を変えまして、日本映画とタイ映画の関係を探るという日でございます。往年の日本映画3本立てということで、大映、日活、東宝という錚々たる大手の映画を上映しているところです。映画というのは、製作された国籍は割合よくわかるんですけれども、その映画の中に出てくる国、どこでロケされたか、あるいはどこで撮影されたかということについては、実はあまりきちんとした資料がありません。散逸しておりまして、記憶などをたよりにたどっていくという状態でございます。タイというところは実は映画がたくさん撮影されている場所でして、日本映画もタイのロケのお世話になったということが多々ございまして、このところを切り口として今日はお付き合いいただいているということになります。レクチャーでお話しいただきます門間先生は、通常の製作だけではなく、もう一歩突っ込んだ映画の研究といいますか、今申しましたようなテーマを含めた様々な日本映画、アジア映画の研究の第一人者でいらっしゃいます。昨年も香港と日本の映画の交流についてお話をいただいたわけですけれども、今日はタイ映画、そして日本ということについてお話をいただきたいと思っています。今日の特集のタイトルを「日タイ映画交流の黄金時代」と付けております。黄金時代というのはいつの時代だったのかというのは、本当はよくわかりません。たまたま60年代あたりの映画を今日お見せいたしておりますけれども、ひょっとしたらこれから黄金時代ということになるのかもわかりません。ついこの間も、浅野さんがタイ映画に出て、ヴェニスで賞を獲ったということがございました。昨年の「香港映画の黄金時代」というところから、キャッチコピー的に黄金時代というタイトルは借り受けております。詳しい話は門間先生にお願いしたいと思います。それでは先生、よろしくお願いいたします。


講演(門間貴志さん)

本日はタイ映画祭にお越しいただきましてありがとうございます。私は門間貴志と申しまして、今ご紹介いただきましたように、アジア映画を研究いたしております。と言いましても、今日は日本映画ですとか、そっちの話になりますけれども。

今、タイの映画の配給が非常に増えて、タイ映画自体も盛り上がっていますし、日本での上映活動も盛り上がっているようで、非常に嬉しく思います。もう十数年前になりますが、私はある映画館に勤めておりました。百貨店の中にあった映画館なんですけれども、あるとき東南アジアの物産をやるので、ホールで何かイヴェントができないかと言われました。手っ取り早いのは映画ということで、タイとフィリピンとインドネシアの映画を何本か集めて上映したことがありました。このアジアセンターの前身でありますアセアン文化センターがちょうど開設直前だったんですけれども、今そこにいらっしゃる石坂さんに相談をして、タイの映画も何本か借りたことがございますね。

ほとんどの日本の人は、タイの映画というのはどんな映画かわからないですので、アセアン文化センターでもたいへんだったようなんですけれども、一部に濃厚なファンというのは存在していたらしいですね。というのは、ある日、「Jintara Sukapatチンタラー・スカパットさんの出ている映画は、『メナムの残照』1本だけですか?」という電話がかかってきたんですね。誰かわかりませんが、女優の名前もそらんじているような電話がありました。それを受けて、すぐさま私も「Jintaraさんの映画はこの1本だけです」って答えるほうも答えるほうですけれども。そういう時代が本当に12、3年前のことなんですね。それで今またここで映画祭が上映されて、非常に僕も嬉しく思います。今言ったJintara Sukapatさんというのは、今回の上映でも『クラスメイト』とか『赤い屋根』とかに出ている方ですけれども、今はプロデューサーもやっているのかな、そういう偉い人になってしまいました。当時タイ映画の本はほとんどなくて、Jintaraさんのことを最初に活字にしたのは、評論家の宇田川幸洋さんだったかなと思います。

タイ映画の持っている内容の豊かさというものは、この映画祭でご覧いただいた方はもうおわかりになったと思います。アクションがありホラーがありメロドラマがあり、そして社会派があってドキュメンタリーがあって、監督の中には王族の方がいらっしゃったり、タイ映画自体が他の国とは違った特徴を持った、非常に豊かな映画であるということがおわかりいただけると思います。今日の話は、タイ映画自身ではなくて、横の軸と言いますか、外から見たと言いますか、外との関係ですね、横の軸でどういうことが言えるかを簡単にお話しさせていただきたいと思います。

まず、日本とタイの関係から簡単にお話しします。日本とタイとの国の関係はかなり古いわけですけれども、映画の関係もかなり古くからあったわけです。タイがまだシャムと呼ばれていた頃に、この国に最初に映画を持ち込んだのは日本人だと長らく言われていまして、昔タイでは、映画のことを「日本の影絵」という言い方があったわけです。その後いろんなタイの映画研究家が調べたところによりますと、本当は日本人じゃなくてどうもフランス人だったらしいということがわかってきたんですけれども、日本とタイの関係は深かったみたいです。1905年、明治の終わり頃ですけれども、タイで映画興行というものが本格化するとき、小屋を建てて映画館を経営していたのは日本人だった。映写技師を日本から招いて、バンコクで映画館を開いて、日本の映画、1905年ですから日露戦争の実録ニュース映画といったものを上映したのが、タイにおける映画館の始まりだったと伝えられています。

日本は、太平洋戦争、1941年12月の真珠湾攻撃以降、アジアに軍を進めていった時期があるわけです。そのとき日本は、欧米列強の支配からアジアを開放するという名目があったわけですけれども、タイに関してはそれは適用されないですね。タイは植民地ではありませんでしたから、開放するしないという問題はなくて、最初からもう独立国だったわけです。しかし、ビルマに兵を進める必要がありまして、そこでタイと条約を結んで、日本軍を進駐させたという事実があります。このとき実は多少戦闘もあったらしいんですけれども。ここで日本とタイとのある種の軍事同盟みたいなものがあるわけですね。しかし、タイは非常に外交のうまい国でして、日本と組んでいながら地下ではイギリスとも結んでいるような、巧みな外交を弄していたらしいんです。

その頃日本は、タイに日本の映画を広める、あるいは日本の国策を知らせるために、映画を使った文化工作を進めていきます。それはタイだけじゃないんですが、南方映画工作と呼ばれていたわけですね。そのときに、南洋映画協会、これは松竹と東宝、東和商事、中華電影の4つの会社が提携してできた国策会社ですけれども、そこがバンコクに支社を開設した。それが1942年(昭和17年)です。そこで日本のニュース映画や劇映画といったものを、向こうで配給していた時期があったわけです。このとき実は、今日上映された山田長政を扱った映画を合作する方針があったらしいんですね。これは東宝が企画しまして、タイの撮影所と組んで、山田長政を映画化しようと非常に盛り上がったんですが、結局、日本側がかなり強引だったりして、キャストもほとんどが日本人で占められていたわけですね。タイ側がすねてしまって、その話はご破算、実現しなかったことがありました。また当時は、タイにおいて、山田長政の知名度はそんなに高くなかった。実際知られているのは山田という日本名ではなくて、タイに帰化したときのタイ語の名前だったようです。そのほか当時は、タイにおいて記録映画を何本か作って、日本国内にタイを紹介することも多々ありました。『タイ国の全貌』、『立ち上がれタイ』とか、そういった映画があったようです。

ですから戦中から、日本映画とタイ映画というのは何らかの接点があったわけですけれども、戦後になるとそれが一旦途切れます。日本はほとんどの外国と、アジアもそうですけれども、関係を持っていたわけですけれども、それが終戦によって長い間途絶えてしまうわけですね。日本映画がタイに赴いてまた映画を作る面では、やはり戦後の黄金期、黄金期がいつかというといろいろありますが、単純に言うと日本映画が一番製作本数の多かった昭和30年代というふうに思っていただければいいと思いますが、その頃になります。それが今回こうして3本観ていただく作品のようなものになります。

ちょっと話はそれますけれども、タイという国は、外国映画のロケ地として非常に重宝されているという事情があります。これはもちろん映画だけではなくて、日本の観光ポスター、例えば沖縄の観光PRに裸の写真があるんですが、実はよく見るとタイの人が出た写真だったり、そういうことが多々あったりするわけですね。それからアイドルのグラビアが、今まではグアムとかハワイに行っていたのが、最近はタイに行く例もかなり増えているわけです。映画でみますと、わりあい頻繁にタイで撮っている国が、だいたい3つあると思います。統計をとったわけではないですが、主だったところではまずアメリカ、ハリウッド映画。それから日本映画。そして香港ということになるかと思います。東南アジア同士でのロケについては、私はちょっと勉強不足でわからないです。ひょっとしたらマレイシアの人がたくさん撮っているかもしれませんが、ここではそれは割愛いたします。

ハリウッドの場合ですと、だいたい2つパターンがありますね。タイを扱った映画と、タイでロケした映画の2つに分けられます。

タイを扱った映画は、皆さんもよくご存じですけれども、『王様と私』という、最初ではないんですんが、有名な作品があります。これは1956年の映画ですね。1946年にも同じ原作の映画がありますけれども、この2本に関して言うと、タイでロケはしていないですね。多分できなかったわけですね。これはタイの王室を扱った話で、タイ人からするとかなり不敬罪に近いような、国民感情を非常に害するような内容です。これはミュージカルとして舞台劇化されたあとに作られたわけですけれども、“Shall We Dance?”という歌で知られている、世界的に非常に有名な映画。Yul Brynnerユル・ブリンナーが王様を演じているわけですけれども、タイのことを知らなければ、それはそれで完結してしまう映画なわけです。けれども、やはり実際の王族ですから、タイ人としては許しがたいわけですね。もちろんこれは、今に至るまでタイの国内では上映が禁止されている映画です。

これが1999年に、周潤發チョウ・ユンファという香港のスターを使ってまた映画化される。これは『アンナと王様』という邦題で上映されました。おかしいのは、またこれをタイでロケしようと交渉するんですが、けんもほろろに断られてしまったわけですね。それでどうしたかというと、マレイシアに行って、巨大なセットを組んで撮影をするわけです。マレイシアの人はタイに対してどういう考えを持っているのかわかりませんけれども、とにかく場所を貸したという関係だと思いますが、それを撮る。それでまたタイの人が怒っちゃうわけですね。Yul Brynnerの頃の作品よりは、王様の描き方が、かなり開けた、開明的な王様というふうになっていますけれども、それでもこれは絶対にタイで上映されることはないと思います。

逆にタイで撮影する映画はどういう映画かというと、タイを描かない映画なんですね。タイを描く映画はタイで撮れなくて、タイでないところを描くときにはタイで撮るという逆転現象が起こっているわけです。一番知られているのは、ヴェトナム戦争物の舞台としてロケ地が選ばれたわけですね。たださきほど言いました『王様と私』以降、タイを描いた映画というのも、DiCaprioディカプリオの『ザ・ビーチ』に至るまでタイでたくさんロケされているわけですね。一方では、欧米人がタイに対するイメージをよいものとして受け止めて、観光PRに一役買っているという事情もあるわけです。タイの人は関わっていないけれども、あるいはタイの未開な部分を辛辣に描いたということがあったとしても、タイの風景とかそういうものがPRされるわけですから、欧米人がタイという国に対して観光に行こうという気になるという逆転現象があるわけです。例えばその一番のきっかけになったのが、007シリーズの『黄金銃を持つ男』。これはタイのどこでしたか、島でロケをしたんですが、設定はどうも中国のどこかの島ということだったわけです。風景が非常にきれいなところで、この島を巡るツアーが非常に人気があった時期が70年代にあったらしいですね。

それで、タイはどういうときに使われているかというと、さっき言ったヴェトナムの話になるわけです。ヴェトナムとアメリカの戦争ですから、ハリウッド映画がヴェトナムに行って撮るということは不可能なわけですね。ヴェトナム戦争というのは、60年代、70年代はタブーだったわけです。映画には撮れないわけですね。それはアメリカのマイナス面を描くからです。戦争が70年代後半に終結して、やっと80年代にアメリカ人自身があの戦争を振り返って、批判的な意味を込めた映画を作るようになってくるわけです。例えばその最初ぐらいですか、『プラトーン』という映画がありました。1986年、Oliver Stoneオリヴァー・ストーン監督です。これはシナリオの段階で、アメリカ軍が撮影に協力しないと断ってきたわけですね。批判的だったから。それでタイに行って、タイの国軍の協力を得て、タイの国軍の人がヴェトナム人の扮装をしてこの映画を撮ったということです。ちょっと遡りますと、『ディア・ハンター』という映画があります。これもタイでロケされているんですね。タイ人が出演している。

『プラトーン』がヒットしてから、ヴェトナムものがハリウッドで非常に流行ってきたわけですね。例えば1987年の『サイゴン』という映画。1967年頃のサイゴンの話ですけれども、これもタイで、タイの映画人が協力して撮っている。それから『グッドモーニング・ベトナム』(1988年)ですね[1]。これは1965年のサイゴンですけれども、実はプーケットで撮られているわけですね。もし『グッドモーニング・ベトナム』のヴィデオをお持ちの方がいましたら、スロー再生で観ていただくと、時々タイ語の看板が見えたりするんですけれど。Robin Williamsロビン・ウィリアムズがヒロインの女の子を追っかけるシーンがあるんですけれども、そこでちょっとタイ語の看板が見えたりするわけですね。ちなみに、この『グッド・モーニング・ベトナム』でヒロインを演じた女優はタイの役者なんですね。ヴェトナム人じゃないんです。さきほどから名前を連呼しているJintara Sukapatさんが出ているわけですね。この映画で彼女がヴェトナム語を喋るシーンはほとんどありません。つまりハリウッド映画ですから、英語を喋るわけですね。ですから、それがヴェトナム語なまりなのかタイ語なまりなのかということは、ハリウッドはあまり気にしなかったのかもしれません。

タイを舞台にした映画も実はありまして、『ランボー』というアクション映画がありますが、『ランボー3 怒りのアフガン』(1988年)。これはアフガニスタンが舞台なんですが、冒頭の20分ぐらいはタイが舞台になっていますね。つまり1本目、2本目で戦って疲れたランボーが、バンコクの仏教寺院に入って体を癒しているという場面ですね。タイで静かに暮らしているところに、かつての上司が捕まったとかそういうニュースがあって、アフガンに向かうという設定なんですね。タイといえば仏教寺院というイメージは、やっぱりどうしても出てくるわけです。

ヴェトナムに限らず、インドシナ半島を描く場合にもやっぱりタイが使われます。その一番の例がカンボジアですね。例えば『キリング・フィールド』という映画がありまして、これはポル・ポト政権に移行する頃の内戦時代のカンボジアが舞台です。最初の場面がプノンペンのホテルから始まります。このホテルは実はタイにあるホテルなんですね。全部タイで撮られているわけです。

とにかく政治的な状況で、あるいは内戦が続いているという状態で、アメリカのロケ隊が入れないときに、タイそしてフィリピンといった場所が選ばれて、そこでインドシナ半島を撮るということがずっと行われてきました。例えば『地獄の黙示録』という映画は、フィリピンで撮られていますし、それからStanley Kubrickスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』。これはなぜかどこにも行かずに、ロンドンのスタジオのセットで作ったという例もあります。それからヴェトナムは、『カジュアリティーズ』とかOliver Stoneの『天と地』とかいろいろありますけれども、全部がそうとは確認できませんでしたが、だいたいタイでロケされているパターンが多いと思いますね。

同じヴェトナムでも、ハリウッドでなければ入れる場合もあったんですね。例えば、1992年に韓国で『ホワイト・バッジ』という映画がありました。韓国軍がヴェトナムに参戦する話なんですけれども、このヴェトナムの場面は、実はヴェトナムでロケされています。これは、ヴェトナム戦争を撮った初めての外国映画だというふうに聞いています。1992年というのは、ちょうどドイモイ政策が始まった頃なんですね。ドイモイ政策で、外国人に対して開放的なことをしていこうというのがあったわけでしょう。それで韓国のロケ隊を受け入れたわけです。もちろんこの映画はヴェトナム戦争を批判する映画だから、OKになったわけですね。

ヴェトナム戦争といってもふたつありまして、最初のほうがインドシナ戦争、フランスと戦った戦争です。そのかつての支配国だったフランスが撮った映画があります。これは『愛と戦火の大地』という邦題で、原題は“Dien Bien Phu”。ディエン・ビエン・フーの戦いというのがありますけれども、そのディエン・ビエン・フーの戦いを再現したフランス映画。これもヴェトナムでロケされています。ディエン・ビエン・フーではないですけれども、国内でロケされています。そのときには、本物のヴェトナム軍がヴェトナム軍の役をしたらしいです。国軍の全面協力ですね。

そういう例もありますが、タイという場所は、ハリウッド映画にとってはヴェトナム戦争を再現するような、スペクタクルを再現するロケ地の提供地というのがひとつありますね。 もうひとつは、南国のアジアのパラダイスといった非常にステレオタイプなイメージ。これはさきほど言った『ザ・ビーチ』まで続きます。そういう映画がタイで非常に批判されるのは、タイの人間を未開に描いているとか、あるいはタイの文化を歪ませている。それは宗教的な問題、王室に対する不敬とかいったことがあって、タイとハリウッド映画との関係は、あまりよくない状況にあると聞いています。

今度は香港ですけれども、香港の場合は戦後非常に発展していって、50年代の終わり頃から香港映画も海外ロケを始めている。ですが、資本が少ないせいもあって欧米には行けないですね。行くのはアジア地域です。それは主にはシンガポール、マレーシア、そして日本と韓国、それからタイですね。雪のシーンが撮りたいときには韓国と日本へ行ったりとか、そういうことがあるわけです。香港の場合は、ヨーロッパでロケをするのは70年代までなかったわけです。それはイタリアに行って、李小龍ブルース・リーの『ドラゴンへの道』を撮ったのが最初なんですが、それまではアジア地域でのロケがほとんど。

その李小龍ですが、彼がアメリカに行って帰ってきて、1本目の主役の『ドラゴン危機一髪』という映画がありました。これは1971年の映画ですけれども、舞台がタイなんですね。香港の田舎からタイに出稼ぎに来た青年の役を李小龍がやっていて、それで華僑もいたんでしょうけれども、中国語を喋ったり、タイ語が聞こえてきたり、そういった映画なんですね。彼は工場で、実はその黒幕が麻薬の密売をしていることに気がついて戦うハメになる、そういったアクション映画なんです。やはり製作費が安いこともあり、タイで撮るというのは香港にとってもかなりメリットがあったと聞いています。

香港もヴェトナムを描くことが実はかなり多くて、特に80年代です。なぜヴェトナムを描くかというと、香港の返還が控えていて、やはりまだ中国に対する不信感とか恐怖感、あるいは嫌悪感がくすぶっていて、共産党は怖い。それで例えば戦争が終わってヴェトナムが陥落する、社会主義になるというのを描くことによって、中国への返還への不安を描いたというような分析も多々あります。例えば、1982年に許鞍華アン・ホイという監督が撮った『望郷 ボートピープル』という映画。これはヴェトナムのダナンが舞台です。ヴェトナムが統一されて、そこに日本人カメラマンが取材に行く話ですけれども、これは海南島なんです。タイじゃないんですね。そのあとタイでのロケが非常に流行するんですね。その許鞍華の映画も、ヴェトナム共産党に対して非常に懐疑的な視点で描いていますから、もちろんヴェトナムでは撮れないわけですね。

それから、呉宇森ジョン・ウーという監督が『ワイルド・ブリット』という映画を撮っています。これは1990年の映画ですけれども、3人の貧しい青年が一山当てようとして[2]、ヴェトナム戦争の時代のサイゴンに行くわけですね。そこでいろいろ戦闘に巻き込まれていく話なんですが、これもタイの政府が協力をして、600人の軍人を貸した。そして本物の軍隊を動員して作ったアクション・シーンがあります。

呉宇森はそれ以前、1983年にタイで全面ロケした映画が1本あります。これは1回お蔵入りになっていたんですが、そのあと1986年に『ソルジャー・ドッグス』という名前で出ます。この映画をコーディネート、通訳していたのが『ラブソング』を撮る陳可辛ピーター・チャンという監督なんです。陳可辛というのは、おかあさんがタイ人なんですね。タイ語ができるわけで、それで呉宇森の通訳をしたりしていたわけです。おもしろいのは、この陳可辛の存在によって、それ以降の香港とタイの映画がまた結びつきを強くしていくようなことがあるわけですね。これが香港とタイの合作を生み出していくことになりますね。ですから彼の登場によって、また香港がタイと非常に密接な関係を結んでいくような可能性があるんじゃないかと思います。

いよいよ日本の映画ですけれども、さきほどから黄金時代、黄金時代と言いましたが、日タイ合作の黄金時代があったのかというと、僕はないと思います。日本の黄金時代の映画が、たまたまタイでロケをする余裕があったというのが実情ではないかと思います。というのは、それまで日本では、タイの映画はほとんど上映されていませんし、タイの俳優も監督も誰も知らないんですね。ですから例えばアメリカが、日本には黒澤がいるから黒澤と合作しようという発想とはまるで違うわけです。やっぱり、ハリウッドじゃないですがロケ地がほしいんですね。昭和30年代だと、普通の人は海外旅行もできないですよね。ですから海外でロケするだけでも、かなり映画というものが豪華に見えるし、観光映画としても機能したわけです。それで香港と合作したりとかいうことがあったわけで、その延長線上にタイとの合作があると思います。

例えば今日の映画ですと、『山田長政 王者の剣』(1959年)、大映ですね。大映というのは、合作を早いうちからやっていた会社でして、例えば溝口健二に『楊貴妃』を撮らせたり、勝新太郎主演で台湾と合作した『秦・始皇帝』という映画があったりとかしますけれども、合作といっても提携ですね。というのは、この2本の映画、もちろん今回の映画もそうですけれども、キャストが全部日本人なんですね。タイとか台湾とかそういう俳優がほとんど出ないですね。出てもエキストラ程度。それから60年代になりますと、今日観ていただいた『波涛を越える渡り鳥』とか、タイでロケすることが流行ります。ほかにも中平康が『野郎に国境はない』、それから平山晃生の『お熱い休暇』。これは三木のり平が懸賞に当たってタイに旅行して、麻薬騒動かなにかに巻き込まれてという話ですけれども、そういう映画が幾つか撮られていくわけです。

さきほどご覧いただいた『波涛を越える渡り鳥』、これはタイのイメージが非常にいいかげんなんですね。これはシリーズもので、大ヒットした映画なんですけれども。国内の、例えば北海道であるとか九州であるとかいろんなところにロケに行くんですが、ロケ先がもう尽きてしまったわけですね。それで「1回海外へ行こうか」というわけで行ったのがタイだったわけです。あの時代だから撮れたような話ではあるわけですね。つまり戦争の影をまだ引きずっているわけです。タイと日本は戦争してませんけれども、やはり軍人が進駐したりとか、そこで生き別れになったという話が、今だったら作れないわけですけれども、そういう話なわけです。ここでもやっぱりタイ人の役をやるのはみんな日本人ですね。タイ人だけじゃなくて、中国人が出てきたり、非常にいろんな民族が錯綜しているような、にぎやかな映画なんですけれども。

小林旭という役者は、毎回ご当地ソングを歌うわけです。例えば『大草原の渡り鳥』であれば、北海道に行ってソーラン節を歌ったりとか。全部替え歌で歌うんですけれども。この映画でも『ブンガワン・ソロ』を歌うんですね。ところが『ブンガワン・ソロ』というのは、ご存じの方もいらっしゃると思うんですが、タイの歌じゃないですね。インドネシアの歌なんです。それを平気で歌ってですね…。タイもインドネシアも一緒だったということですね。ひょっとしたら『ブンガワン・ソロ』が先にあって、これを歌いたいからタイに行ったんだとしたら、それならなぜインドネシアに行かないのかとか、いろんなことがあるわけですけれども、それは日本側ではどうでもいいわけですね。

それから藤村有弘。この人は毎回このシリーズで手下役で出てきますけれども、中国人なのかマレー人なのかひょっとしてインドネシア人なのかタイ人なのか、全然わからない役なんですね。タイ人じゃないのかもしれませんが。まずジェラールという名前はタイにはいませんし、あの帽子はどう見てもモスリムの帽子だし、ひょっとしたらあれはハリマオとごっちゃになっているのかなと思いますが、どうでもいいんでしょうね、これも。金子信雄も毎回クラブの経営者で、今日もちょっと観てましたら、流れている曲がシリーズでいつも同じなんですね。日本とタイで同じ曲が流れているのも変ですし、カウンターにはなぜかアサヒビールがあったり、かなりいいかげんなんです。タイでロケしますということで話題になっている。ただシリーズの中ではそんなにヒットしなかったと聞いております。

それから『バンコックの夜』。これからご覧いただくんですけれども。これはタイとの合作じゃないんですね。日本と香港と台湾の合作なんです。去年11月に香港の特集をやりました。それは、キャセイ・フィルムという60年代に非常に映画を量産した会社なんですが、そこと東宝が合作を幾つか作ったわけですけれども、中でも香港の人気女優、尤敏ユーミンという方と東宝の宝田明、このふたりが組んだメロドラマのシリーズなんですね。それが3本撮られて、『香港の夜』、『香港の星』、それから『ホノルル-東京-香港』でしたかね。この3本やったわけですけれども、尤敏という役者がここで引退をしてしまって、シリーズが終わってしまったわけですね。ですが、やっぱりこの路線は東宝としては確保しておきたい。それでもう一度キャセイと組んで、そういうのを作りたかったんでしょうね。宝田明はもう30代の半ばになってしまいましたから、もっと若返りをということで加山雄三が選ばれた。そして尤敏はいませんから、もう一人張美瑤チャン・メイヤオという女優を引っ張ってきて、ここでまたコンビを作るんですね。それがこの『バンコックの夜』です。

日本と香港の合作なのになぜバンコクか、それはよくわからないわけですけれども、物語の前半は日本と台湾ですね。香港を経由してバンコクに行くんですね。後半はバンコクの話なわけです。こればバンコクでロケをしています。実はこの女優は、香港の女優ではなくて台湾の女優なんですね。台湾との三者合作というのは今言いましたけれども、加山雄三が演じる医師が台湾生まれの日本人なんです。それでバンコクの大学の研究所に赴任する前に台湾に寄るんですね。台湾で彼女とその祖父と会うわけです。その祖父が昔主人公の父と縁があった人なんですけどね。それで台湾のシーンが非常に多いですね。香港の映画だから香港のシーンがあるのかなと思ったら、トランジットの空港のほんの十数秒だけが出てきて、そのままタイに行っちゃって[3]、香港のシーンは全然ないんです。タイで、彼は出血熱の研究をする医師として働いている。そして彼女はタイの王族か貴族かわかりませんが、偉い人と結婚が決まってしまって、悲恋に終わってしまうという話なんですけれども、エンディングは『ローマの休日』のように目線だけでにおわせるという、非常にロマンティックな映画です。その舞台としてタイが使われている。これはタイの映画界と組んだというより、やはり香港との合作で、香港は独自にタイと何かルートを持っていたのか、そのへんは僕もよくわからないですが。

今回のパンフレットにもふれていますように、それから今そこのカウンターで、『映画で読むタイランド』という、僕は知らなかったんですが、これは今言ったことがもう書かれているので、興味ある方は読んでいただきたいんですが、合作というのは実はおかしなところで作っておりまして、70年代に日本のウルトラマンがタイで撮られていたことがあったんですね。僕もこれはちらっとしか観たことがないんですが。タイの神様のハヌマーンというのがありまして、それがウルトラマンに出てくるんですけれども、子供心に非常に怖いと思ったのは、ヒーローに見えないんですね。宗教心が非常に強い顔、ウルトラマンもアルカイック・スマイルといいますか、仏像に近い顔をしていますけれども、タイの神様はもうちょっと、日本の基準から見たら妖怪に近いような顔をしているわけでして、非常にカルチャー・ショックを受けたことがあるります。これはタイで非常にヒットして、というのは、これを作った人が、どうも円谷プロに昔修業に行ってたらしいんですけれども、円谷さんが彼を非常に気に入って、「タイの配給権はおまえに全部やる」って言っちゃったらしいんですね。それでタイで上映したら、会社が「聞いてない」って言ってもめて、訴訟問題になりかけたということがあったらしいんです。どうも続編があって、今度は仮面ライダーと一緒に出てくるという、わけのわからない映画だったようなんですが、それはまだ観たことがないので、どうなのか気になっています。

日本の場合はヴェトナム戦争はほとんどないですね。タイでロケするということはほとんどないですが、例外的に言いますと、1999年の『地雷を踏んだらサヨウナラ』という映画がありまして、これは一ノ瀬泰造のことを描いた映画ですが、カンボジアが舞台ですね。ですが、実際にはタイとカンボジア両方でロケしています。ヴェトナムのシーンはヴェトナムではないですね。これは、日本におけるタイで撮ったヴェトナムの唯一の例じゃないかと思います。実は昨年の冬にカンボジアに行ってきました。そこでガイドさんが、日本人には必ず言うんですけれども、「あの向こうで泰造さんが死にました」と教えてくれたりするんです。たしかにタイとカンボジアはつながっていて雰囲気が似てますから、そういうことが可能なわけです。いずれ例えばハリウッド映画が、ドイモイがどうなるかわかりませんけれども、ヴェトナムにおいてヴェトナム戦争を描くということが起こってくるかもしれませんね。

もうひとつ付け加えますが、90年代のアジア・ブームのときに、日本がタイでロケすることが非常に流行りました。ざっと挙げていきますと、『僕らはみんな生きている』(1993年)、『卒業旅行 ニホンから来ました』(1993年)、『熱帯楽園倶楽部』(1994年)。これ全部タイでロケされているんですね。ですが、『熱帯楽園倶楽部』はタイの話なんですけれど、最初の2本は、どこでもない架空の国なんですね。『僕らはみんな生きている』は、タルキスタンという変な国がありまして、そこで日本人ビジネスマンがクーデターに巻き込まれるという話なんです。これが長期のロケをタイでやっていますね。映画を観た方はわかりますけれども、看板は全部タイの文字になっています。ですから、見ればタイなんですけれども、タイとは言わないですね。『卒業旅行 ニホンから来ました』、これは織田裕二くんが演じる大学生が、卒業旅行に行ったら現地でスターになっちゃうという話なんですが、これもタイでロケされている。でも、物語の中ではチトワン王国という変な王国になっていまして、やっぱり全部タイ語になっていますね。

共通しているのは、非常に政情が不安定で、文化水準の低い、未開の国なんですね。日本人が想像している東南アジア全体のある種の公約数みたいなものを出しているわけです。ですが、その場合に「これはタイです」とは言えないですね。言うとタイの人も気分を害するわけですし、非常に侮辱になるわけですから、「これはどこでもない小っちゃな、どこか東南アジアのある国です」というふうに言ってしまう。どこにもないアジアを作り出すときに、一番のモデルになるのはなぜかタイなんですね。それはフィリピンでもなく、ヴェトナムでもなく、タイなんです。ヴェトナムであれば、社会主義ですからちょっと勝手が違うし、フィリピンであれば、日本人が思うようなエキゾチックさが足りないんですね。仏教がないとかそういうこともありますけれども。寺院があって、字が読めなくて、王族がいるっていうのはこういう話にぴったりなんですね。ですからモデルとしてタイが使われるというパターンが最も多いようなんです。

ついでに、タイは日本をどう描いたかという話を簡単にしますと、実はタイ映画も日本で幾つかロケをしたことがあるらしいんです。1978年のコメディ映画で、主人公が訪れる新婚旅行先がなぜか東京という話があるんですが、僕は観たことがありません。それから1989年に“Twilight in Tokyo”という映画があって、これは日本に出稼ぎに来たジャパゆきさんが、ヤクザの餌食となって麻薬中毒になってしまうという非常に悲惨な話なんですが、こういう映画もあります。それから今そこのロビーにポスターが飾ってありますけれども、『空を越えて殺す』という映画がありますね。これは何年の映画かわかりませんけれども、ポスターを見ますと、鳥居があって、富士山があって、JALの飛行機が停まっていて、JALのバッジをつけたスチュワーデスが写っているんですけれども、どうも日本を扱った映画らしいんですが、内容はわかりません。それから、日本の『子連れ狼』とか『幸福の黄色いハンカチ』は、タイでリメイクされていますね。これもいずれ何かの機会に上映できればいいと思っています。

それから合作をみますと、『メナムの残照』という映画。以前ここでも上映したことがあるんですが、戦争中に日本の軍人とタイの娘が恋愛をするというメロドラマです。これは何本かリメイクされているらしいんですが、一番新しいヴァージョンがやはり日本でロケされているわけですね。これは結局日本では上映されないで、ヴィデオが出ているだけなんですけれども。アジアの映画といいますと、日本人が非常に悪く描かれることが多いんですが、タイの映画ですとそれが非常に柔らかいですね。やはり戦争をした相手ではないというのもありますけれども。『メナムの残照』の場合は、小説がまず有名で、そして主人公の小堀という日本の軍人を、非常にかっこいい美男子が毎回演じるものですから、非常に人気のある映画だったらしいですね。昔、テレヴィドラマになった頃には、最終回が近づくと、テレヴィ局に「小堀さんを殺さないで下さい」というのが舞い込むことがあったらしいです。

そしてさきほどもちょっと話がありましたが、今年、浅野忠信くんが出演した“Last Life in the Universe”という映画があります。これは合作というよりタイの映画なんですが、タイの映画で、主人公が日本人なわけですね。これはバンコクにある日本文化センター、この交流基金の支部なんでしょうけども、ここの吉岡さんという人が主人公らしい。こういうことで、これはヴェネチアで賞を獲ったりとかそういう動きがありますから、実はタイと日本の映画の歴史というのはこれから作られる可能性があるじゃないかという気がします。60年代に撮られた幾つかの合作というのはあくまで日本側の動きであって、これが実際にタイで上映されているのかどうかわかりませんし、多分されていないんじゃないかと思います。日タイ両方で上映された合作映画といったことがこれをきっかけに起こってくると、例えば80年代における日本と香港の合作のように、日本とタイの映画がいろんなパイプを作って盛り上がっていく、そういう期待をいたしております。とりとめのない話で申し訳ないですが、これが日本とタイの関係、タイと外国の関係についての簡単な紹介です。どうもありがとうございました。


質疑応答

■観客1:最後のほうでお話しされた“Last Life in the Universe”という作品なんですけれども、そちらの作品ができた経緯をお聞きしたいのと、それから最近タイではポスト・プロダクションの水準がすごく上がっていて、特に香港なんかはポスプロをタイでやっていると聞くんですけれども、例えば日本の映画業界でも、これからタイでポスプロなどをしていくのか、ポスプロのタイと東南アジア、アジアだけでなくハリウッドとかヨーロッパとかとの関係について伺いたいんですが、よろしくお願いします。

◆門間:“Last Life in the Universe”については、私はほとんど情報を持っておりません。ここにいらっしゃる石坂さんのほうが詳しいかと思うので、ちょっとお話していただくことにして、ポスプロの話になりますが、実はかつては東南アジアの映画のポスプロは日本がやっていたんですね。東南アジアの映画の現像を依頼されて、完成したんだけれども、ちょうどその頃その香港の会社がつぶれてしまって、お金も払えず、宙に浮いたフィルムが倉庫に眠っているという話を聞いたことがあります。これがどうなったかはわかりませんけれども、もし見つかれば、知られざるアジア映画史の発掘につながる可能性がなきにしもあらずなんですね。ですが、やはり香港もそうだったんですが、映画の技術というのは非常に遅れていたわけですね。李小龍の『燃えよドラゴン』を作るときですら、アメリカからいろんな機材を持ってこなければできないという状態がありまして、ポスプロはハリウッドでやっています。香港自体もやはり技術が足りなかった時期があるわけですね。香港はなぜそれがよくなったかといいますと、やはり60年代の日本との合作といったことでテクニックが入ってくる。それはポスプロだけじゃなく撮影技術もライティングもそうです。ちょうどその関係が今タイに起こっているんじゃないかということくらいしかわかりません。やはり交流があると技術が伝わっていくというのは、昔から全然変わらないことだと思うんですね。例えば戦前の話でいいますと、ドイツと日本が合作をした『新しき土』という映画がありますけれども、あのときに初めて、ドイツからきた編集者がリップシンクロ、音をつなげる編集ですね、その技術を日本に伝えたりとか、伝えられた人が満映に行ってその技術を教えて、その人がまた北朝鮮に行って教えたとか。ドイツのナチから来たものが、日本を経由して北朝鮮まで行ってしまうということもあるわけです。今のタイが急速に技術が上がった直接の理由はわかりませんけれども、根底にはそういう交流というものがあるんじゃないかと想像します。

◆石坂:最初のご質問なんですけれども、“Last Life in the Universe”の舞台は、我々のJapan Foundationのバンコク事務所。タイではJapan Culture Center Bankokと呼ばれているところなんです。我々各国に文化センターがあるんですけれども、バンコクの支部はまだ新生でございまして、ホールと図書館とオフィスがあるというところなんです。そこの職員で今行ってます吉岡というのがいまして、今回カタログにも、タイの映画の最新情報を載せているんですが、この吉岡くんがタイ語もできることもあって、タイの映画界にたいへん食い込んで、特にニュー・ウェーヴと呼ばれている人たちとの親交が深まった。同僚で言うのもなんなんですが、この吉岡くんはたいへんハンサムでして、浅野よりハンサムですね。雑誌のグラビアとかモデルとかにも顔を出すような、現地ではちょっとした有名な日本人ということになってしまいました。そうこうしているうちに、このニュー・ウェーヴのまさに今盛り上がっているタイの人材が、何人か集まって作ったのがこの映画ですね。監督ですとか、脚本を書いたのはこれまた東南アジア文学賞というたいへん権威ある賞を獲った作家の方であるとか、そういう方々が集まって、「何作ろうか」といったときに、「文化的な仕事をしてバンコクに来ている日本人の話にしようじゃないか」となったわけですね。ですので、人的な交流のほうが若干先にあったと思うんですけれども、それを脚本家が物語にし、ロケをうちの事務所で行い、そしてヴェニスに出したら賞まで獲ってしまったということなんですね。もう配給は決まっているようでして、来年にも日本で公開になるみたいなんですけれども、うちの関連の映画ですので、なんとかここで1回ぐらいやりたいなと思ってるんです。そのときには吉岡くんと浅野さんとここに並べて、ご登場願いたいなと思っているんですが、まだこれは不確かな話です。

■観客2[4]:“Last Life in the Universe”の関連で石坂さんにお聞きしたいんですが、役名がKenjiさんていうんですけれど、あれは石坂健治さんからいただいたものでしょうか?

◆石坂:いや、それはないでしょう。私も親交はありますが、吉岡ほどはないので。日本人にありがちな名前ということだと思いますよ。

■観客2:門間先生にお伺いしたいんですが、さっきの渡り鳥でも、小林旭が流暢なタイ語を喋っていました。50年代、60年代の東南アジアとかを舞台にした映画というのは、日本の役者が現地の言葉を、流暢であったり流暢でなかったりするんですが、喋るというシーンが、今の海外ロケをした映画より多いように思うんですね。例えば『ブンガワンソロ』という映画がありますけれども、あれなんかでも久慈あさみなんかがインドネシア語をある程度喋っていたりします。戦後間もなく作られた海外を舞台をした映画で、現地の言葉を非常に流暢に喋らせているのは、どういう背景があるのでしょうか。必ずしも喋らなくてもすむというか、映画を作っていけると思うんですけれども。

◆門間:例えば今日の映画で言いますと、他の外国人の役をする人があまり喋らないですよね。金子信雄さんはなまっているけれど日本語を喋ったりとか、ジェラールも日本語を喋る。主人公はそれができるというと、かっこいいというイメージがひょっとしたらあったのかなという気がします。旭は語学も堪能であるとしたほうがヒーローとして際立つかなとかいった演出で、喋る喋らないを考えていたんじゃないですかね。よくわからないですけれど。ただ中国語を喋るという例はたくさんありますね、60年代ですと。戦前で言いますと、ハリマオを描いた『マライの虎』という映画がありますけれども、あれも日本人がインドネシア語[5]を喋ったり、インドネシア語で歌ったりする場面があります。これは戦後に始まったことじゃなくて、戦前からそういうことが行われていたと思います。

◆観客2:戦争で日本の兵士たちも東南アジアにたくさん行った。そういう東南アジアあるいは中国大陸の言葉に日本人の耳が馴染んでいて、懐かしいとは言いませんけれども、聞こえたほうがむしろ自然である。渡り鳥とかの映画もそうですし、『ビルマの竪琴』とか、森繁久彌なんかも中国語を流暢に喋っていたり。彼も戦争時代の背景みたいなものがあると思うんですけれども。不幸な形にしろ、戦争というものを通じて日本がアジアと出会った、その記憶がかなり濃く残っているので、映画もそういう演出がなされたのではないかという気がするんですけれども。

◆門間:それはそうですね。その時代に映画を観ている人も、外地から帰った人がたくさんいたわけで、世代的にいうと外国語ができる日本人、アジアの言葉ができる人というのは今考えているよりも多かったでしょうね。ですから出すほうが自然だったと思うんです。今の若い人がアジアの言葉ができるというのは全然違う事情で、今はアジアブームが背景にあって一からやる人がほとんどなわけです。今の映画では少ないのは時代の違いではないかと思います。

■観客3:門間先生にお伺いしたいんですが、タイでハリウッド映画を中心にした映画のロケーションがわりと多かった。例えばヴェトナムを舞台とした場合、カンボジアを舞台とした場合、インドシナを舞台とした場合で、タイでロケをした映画が非常に多かったという原因に、当時としても東南アジアの中では比較的政治的にも安定していて、しかもヨーロッパから来てもアメリカから来ても中国から来ても、比較的交通の便がよかったという面があるような気がするんですが、いかがでしょうか。

◆門間:おっしゃるとおりだと思います。やはり社会主義の国であるとか、内戦がある国では、ロケがしづらいですよね。多分保険もかけられないような状態。タイの場合は、政治的な意味では非常に安定しているし、王室を愚弄することがなければ、宗教的なことに触れなければ寛容だったと思います。逆にタイでロケをすることは外貨の獲得にもつながるということもあって、タイは比較的歓迎していたのではないかと思いますね。ただハリウッドがことさらタイのことを歪めて描いたりとか、未開人として描いたりとか、そういうことがあればタイも警戒しますし。それは例えば50年代の日本でもあったわけですね。占領時の日本というのは、アメリカ映画がたくさん入ってきましたけれども、制限があって、日本で興行をした収入をハリウッドに持って帰れないわけですね。持って帰れない場合どうするかというと、ハリウッド映画が日本に来て、ロケをして、そこに使えばいいということで、非常にロケが流行るわけですね。日本にしてみれば、外貨獲得かどうかわかりませんけれど、歓迎すべきことであったはずなんですが、やはりハリウッド映画は、天皇制を愚弄することはなかったかもしれませんが、日本の女性を官能的に描きすぎたりとかいうことで顰蹙を買ったようなことも多々あったわけです。これは全世界中同じような現象が起きているんじゃないかと思います。

■石坂:最初に申し上げましたけれども、映画というのは製作国は大事ですけれども、今日お話を伺っていまして、ロケ、撮影がどこでなされたか、あるいはどこでなされなかったかというところから、また新たな、例えば国際関係ですとか、国民感情ですとか、いろんなものが見えてくるという印象を持ちました。これからおそらく新しい時代の形としてタイと日本の映画の交流が広がっていくんではないかというお話もありましたけれども、こういった面も期待したいと思っております。門間先生、今日は長時間どうもありがとうございました。

記録者注
[1]『サイゴン』は1988年、『グッドモーニング・ベトナム』は1987年と書いてある資料もあります。
[2]一山当てようとしたのではなく、香港で殺人を犯してヴェトナムへ逃げたというのが正しいです。
[3]正確には、香港の空港が出てくるのは台湾より前です。バンコクへ行く途中、トランジットで香港に寄り、そこで加山雄三は行き先を変更して台北に向かいます。
[4]松岡環さんでした。
[5]マレイ語の間違いだと思われる。『マライの虎』はマレイの話で、戦前の映画である。マレイ語をもとにインドネシア語が作られたのは戦後である。



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作成日:2003年10月30日(木)
更新日:2006年4月15日(土)