香港映画の黄金時代I
■■■「宝田明 大いに語る」
開催日 ● 2002年11月30日(土) 場所 ● 国際交流基金フォーラム ゲスト ● 宝田明(俳優) 聞き手 ● 藤井省三(東京大学教授)
四方田犬彦(明治学院大学教授)
(黄愛玲、黄淑嫻、門間貴志)司会 ● 石坂健治
● 宝田明氏のお話 ● 対談 ● 質疑応答
宝田明氏のお話
ご丁寧なご紹介をいただきました、わたくし宝田でございます。このたび国際交流基金のアジアセンター主催によりましてこういう企画が持たれましたことは、震えがくるほど嬉しゅうございます。きっかけを作ってくださいました大切な方がいらっしゃいまして、東大の教授でいらっしゃいます藤井先生から、大分前にご連絡を頂戴いたしました。NHKラジオテキストの『中国語講座』の中に、シリーズものが書かれております。それは、文化人とか芸能人の中国大陸あるいは旧満洲国での思い出を実際にインタビューなさって、その記事が書かれているわけでございますが、藤井先生から是非ということで、東大の構内で教授のお部屋を訪ねまして、お話をしちゃったわけでございます。教授のお部屋というのは初めて拝見いたしましたが、今も私の頭の中に、「本がこういうふうに並んでいるんだな」「意外と雑多なところがあるな」とか…。これから何か作品を作りますとき、もし私がプロフェッサーの役をやるなんてときには、俳優というのは観察が第一でございますので、唯一の参考書はよく観察をすることでございまして、お話をさせていただきました思い出というよりも、あの中のたたずまいといいますか、間取りとか、多少の汚れたところとか、いろいろと勉強になったことでございます。さっそく『中国語講座』の8月号に、手前味噌ですが私の思い込みでございましょうか、ページ数も少し余計に割いていただきまして、「宝田明が語った60年代の香港映画」ということで、藤井省三先生が書いてくださった。とても素敵に書いていただきました。こんなことがございまして、こたびのこの企画でございます。
11時半から『香港の夜』。昭和36年の作品でございますから、今を去ること41、2年前の話でございましょうか。まだ私が12歳…いや、そうじゃありませんな。最近どうも年をとりますとアルツハイマー気味でございまして、失念することも多いんでございますが。23歳くらいの時に撮った懐かしい写真。そしてただいまご覧いただきました『香港の星』。“香港之夜”、“香港之星”、そして7時半からご覧いただきます“香港・東京・夏威夷”(『ホノルル-東京-香港』)。『香港の夜』は、今お話にありました東宝の倉庫に眠っていて、フィルムはもうボロボロになっているんじゃないかと思うわけでありましたが、汗をかいて探していただいて。東宝のほうでも一生懸命探していただいたんでしょう。やっと私自身、観ることができました。
12時半ぐらいに入りまして小一時間、ちょっと終わりのほうは所用で観られませんでしたけれども、大勢の俳優さんが続々続々出てきまして。残念ながら今は亡きという方が大勢いらっしゃるんですけれども、みんなそれぞれ若々しく、芝居も溌剌としている。ただいまの“Star of Hong Kong”も、加東大介さん、沢村貞子さん、山村聰さん、亡くなられました方も多くいらっしゃいますが、団令子くんがとってもはりきってらして。団令子が東宝へ入りました時に、一番最初に私があだ名をつけましたのが「あんぱんのへそ」というのです。「あ、そうだそうだ。」あのまんまるい鼻がちょこんとついているのがあんぱんのへそだっていうんで、彼女はその後ずっと「あんぱんのへそ」で通っていったわけであります。一部は司くんが、そしてこの第二作目は団令子がてなことで…。ただいますぐそこに同僚の藤木悠という俳優が来ていましたが、残念ながら所用で帰らせていただきました。昭和28年に東宝に入りました同期生でございますけれども、一部、二部、三部とも一緒に出た仲間であります。また、当時千葉泰樹監督のチーフ助監督をやられた小谷という助監督も、今は監督で頑張っておりますけれども、「久しぶりに観たい」ということでただいま観ておりました。
やっぱり観終わりますと、千葉監督の堂々とした撮り方といいましょうか、照れもせず、今でいえば「もう見え見えだ」ということでありましょうけれども…。千葉監督の独特のひとつの映像技術、あるいはモンタージュというものが頭の中にすでにありまして、撮影中も、監督の台本を見ますとカット割りが全部きちんと記されておりました。それは「ここでトラック移動するんだ」「ここでアップだ」「誰の肩をなめて撮るんだ」と、細かいコンテが監督の台本にありました。最初に台本を渡されましたときにすでにコンテが記されております。ということは、最近の監督のように、何度も何度も、こっちから撮って、また今度はこっちから撮ってというようなことでやるのではなくて、監督の頭の中に映像というものがすでにモンタージュされている。「用意、スタート、カチン。」そのカチンコの音の頭とへそを取ってしまえば、つまりコンテどおりに編集さんが繋いでいけば、もうそれは一本の絵になっている。あとは音楽とかその他ですけれども、映像の上ではすでに処理されていたということで。最近はこういう監督さんは少なくなりました。
例外的にいえば当時黒澤明監督は、三船さんの顔を年中アップで撮りながら、もう一台は移動車で、三台目のカメラは少し引きのロングで撮っておくということで。同時に回しますから、いったんNGですと3倍になるわけで、常に掛け算でフィルムがロスしてしまう。モノクロのフィルムといえども高い時代でございましたから、黒澤監督の場合は常に東宝株式会社から苦情が出まして、始末書を書き書き、製作担当者は「まぁた書かされるんだ」というようなことでした。ご存じのように、何十万尺のフィルムを『七人の侍』で撮ったわけでありまして。
一方そういう監督もいれば、成瀬巳喜男さん、あるいは千葉泰樹監督といった、名匠巨匠といわれます方々は、とてもしっかり確立されているということであります。撮影の期間中も実にジェントリーでございまして、穏やかにニコニコ笑って、「そのぐらいでいきましょう」「じゃあこうしましょう」というように言われますので、我々もあがることもなく。千葉監督とはその後何本か撮りましたけれども、「千葉組」「千葉一家」といわれるような、特に私、藤木悠、司葉子でございました。亡くなりましたけれども、いまだに「千葉監督を偲ぶ会」というものを、当時の助監督、監督、役者どもがみんな集まって、年に1回催しているということでございます。
この『香港の夜』は、なぜ私に、あるいは企画はどうだったかといいますと、やっぱり皆さんご存じのように、戦前から大陸において活躍しておりました李香蘭さん(山口淑子さん)。長谷川一夫先生と一緒に、あるいは上原謙さんと一緒に、戦意高揚を含めた映画をたくさん作ってこられました。その当時は東和映画の川喜多長政社長、奥さんは川喜多かしこ夫人でございまして、フィルム・ライブラリーでがんばっていらっしゃった方でございますけれども、川喜多長政さんが東宝に非常に関与していらっしゃいました。東宝という会社に私が昭和28年に、当時の「ニューフェイス」という言葉でございますけれども、入ってまいりました。そのあと、たいへん恰幅のいい、ハンチングをかぶった、たいへん粗野な方が現れましたのが、大プロデューサーといわれる藤本真澄でございます。藤本プロダクションですでに『青い山脈』を撮り終え、意気揚々と東宝の大プロデューサーとして迎えられたわけでございます。藤本さんが私をたいへんかわいがってくれまして、藤本さんの作る映画にはたくさん出てまいりました。
よく銀座でご一緒したんですけれども、夜な夜な飲んでいるときに、藤本さんが「少し海外で映画をやるんだ」という話で。私はブロークンではございますけれども、中国語を多少話しますので。東宝も「第二の李香蘭」を作りたいという意向があったわけであります。当時、私の映画はすでに東南アジアに、かたや黒澤作品、かたや宝田明バオティエン・ミンの作品ということで…。私は甘い映画、当時のメロドラマによく出ておりましたので、それがたいへん受けまして、日本国内からいただくファンレターよりも、海外からいただくファンレターのほうが多いほどに、東南アジア、あるいは北米、南米のほうをずっと回っていたのであります。そういうことで東宝としましては、香港の女優の尤敏ユーミンさん、広東語でいえばヤオマンというんですけれども、これがキャセイという会社に所属しておりました。英語も話せる、そして正式な北京語も、広東語もということで、たいへん付加価値の高い女優さんでがんばっていらしたわけでございます。それと宝田とのコンビを組んでシリーズものを作るということで、笠原良三さんという脚本家、その後も数多くの作品を書かれた方でありますが、先年亡くなりました。笠原良三さんの作品で作り始めたというわけであります。
千葉監督はジェントルマンでございますが、台本の上では、香港側、東宝側の意向を超えて丁々発止とホン作りに励んだことでございましょう。実は第一作の『香港の夜』でございましたかね、丘の上でふたりがふっと逢うところ、最後のところでございますが、香港のヴィクトリア・ピークに近い小高い丘で、お昼くらいからリハーサルをしておこうと。サンセットが速いので、パッパッパッパッと決めたとおりにリハーサルを十分にしておいて、そして撮ろうと。そこは宝田と尤敏がベーゼをするシーン、キスシーンでございます。リハーサルまではよかったんですが、最終的なリハーサルが終わって、もう少し日が落ちるまで待とうという時になって、香港側の代表プロデューサーが、「実際に宝田と香港のスターである尤敏とのキスシーンを撮らすことはまかりならん」ということになりました。「そんなことはないだろう」と現場でオタオタしたわけでございます。もちろん千葉先生も怒り心頭に発しまして、「そんなことはない。私は今まで数多く撮ってきたけど、今この時代になってキスシーンをシルエットで隠すなんてことはもってのほかだ」と。あの優しい千葉先生が「日本のロケ隊、全部引き揚げろ」ということで、我々は九龍サイドのアンバサダー・ホテルに引き揚げていきました。そして千葉監督は東京に電話をいたしまして、「こういうことなら私は撮影を受けられない」ということで、「宝田くんたち、全部荷造りして待機しろ」という命令が下りました。「さぁ、果たしてどうなるか」と思いましたら、向こうが折れてまいりました。「じゃあ隠すぎりぎりまでは許そう」と、「それで少しこう回転してくれ。それで十分した意味になるだろう」と。なにしろ建前の国でございますから、建前だけでございますから。「まぁまぁそれなら」というので、千葉先生も大人でございますから、やっと溜飲されて撮影をしたというそんなエピソードもございます。
尤敏がふられて流した涙が、いまだにあそこの木を枯らしているという古木が一本あります。観光バスに乗ってヴィクトリア・ピークに行きますと、「ここが宝田明と尤敏が…。尤敏がふられて、尤敏の涙で枯れた木でございます」なんてやってるんで。私の母が団体旅行で行きましたらそんなことを言われたので、思わずバスの客席にうずくまってしまったということがありました。昔でいえば数寄屋橋の、後宮春樹と真知子の、あの菊田一夫の『君の名は』のような、いわゆる名所になっていたということでございます。
尤敏さんとは、私が一番気にいたしましたことはなんといっても、たいへん可愛らしい、利発な方でございますし、ありきたりの撮影じゃなくて…。撮影所に入るときに、「おはようございます。よろしく」と言って始めるのはいかにもありきたり。私は戦前満洲におりましたし、北京語は小学校時代から習っておりまして話せますので、帝国ホテルに宿をとっておりましたが、夜な夜なおしかけて行っては食事を共にしたり、なんとか撮影以外のところで仲良くなって、そして作品に臨もうと。お互いに借りてきた猫ってな感じでいるのではどうもしっくりしないだろう、芝居も丁々発止とはいかないだろうということで、主に神経を使ったのはそこでございます。時としてスタッフと撮影が終わったあと麻雀をやって、わざと負けてやる。すると彼女は「はぁー」っと笑って、「これは私の国のゲームごとだ。おまえなんか下手くそだ」と喜び勇むわけで、こっちはわざと負けてやっているわけであります。ちょっと小憎らしいときは、「おまえ死んだほうがいいよ。」このくらいの悪口を言えるくらいの仲になりました。「あなたこそ死になさいよ。」こういう感じで普段やっておりますので、撮影は実に和気あいあいでございました。
1年に1本、昭和36年、ただいまご覧いただきましたのは昭和37年。38年にお坊ちゃま加山が東宝に入ってまいりまして、加山のガキが弟役をやるというんで、これについてまいりましたのが、加山の…。上原謙も出ておりましたが。ハワイ・ロケがあるわけでありますが、小桜葉子さんというのが昔の女優さんで、加山のお母さんであります。本当は付き人を連れてくるわけなんですが、東宝というのは近代的な会社で、「付き人なんてとんでもない」ということで付けられないわけであります。ですが、強引に東宝に申し込んで、東宝はしぶしぶ、付き人っていいましょうか、看護婦さんの代わりにっていうんで母親がついてきたわけです。母親は現場に出ることもなく、昼頃になりまして、スタッフと一緒にロケ先でめしを食う頃になりますと、「大いでたち」をいたしまして、こんな蓮の葉っぱみたいな帽子をかぶって現場に来て、昼飯をかっくらって、そしてもういなくなっちゃう。夜ともなれば自分の部屋で一升瓶を空けて、がーっと10本くらい並べて…。もう亡くなりましたから、こういう悪口も言っておりますけれども。
そんなことで作品を撮って、その作品が終わりまして、今はなくなりましたが、帝国ホテルの脇にあります東宝のスカラ座とか有楽座という映画館でプレミア・ショウをやりました。ご多分にもれず、僕と尤敏が舞台挨拶をするときなどは、過去に日劇で李香蘭の舞台があったときに、日劇のまわりを十重二十重にお客様が囲んだという、それに勝るとも劣らぬお客様が大勢かけつけたことでございまして、東宝のドル箱となったわけであります。どこまで続くかわかりませんが、第四部、五部、六部と続けていこうという意気込みだったんですが、なぜ彼女が第三部でやめてしまったのかというのがひとつの謎でございまして。第四作のポスターも刷り上がっておりました。
実は3本目の映画が終わりまして、東京の帝国ホテルに私が訪ねましたら、「宝田、おまえ、私と結婚する意志があるのか?」と、今日はもう白状いたします、「あるのか」と向こうのほうからプロポーズされました。「いや。」私はまだいろいろやることもありますし…と思いましたので。それまで決して手はつけておりません。とにかく映画がうまくいけばいいんだということばかりしか考えておりませんでしたから。なんか愚図ついているので、「何があったんだ?」と言いましたら、「あなたがそういうことだったら私はあえて言うけれども、このあいだ香港に帰ったときにあるパーティ(注:宝田氏は「パーテー」と発音)があって、ある男の人からデートに誘われてプロポーズされた。」内心僕もあまりおもしろい気持ちにはなれません。とんびに油揚げさらわれたような。それで「どんな男?」と聞きましたら、「あなたみたいな感じの方じゃないの。あなたみたいな素敵な方じゃない。」「いや、男は顔とかルックスじゃないんだ、心だ」と。「写真持ってるだろ」と言いましたら、白黒写真をパスポートから出しまして、見ましたら、坂本九ちゃんみたいにあばたがあったわけです。「なんだこんな男」と内心思ったわけでありますが、「この人はどういう男の人だ?」「長く英国に留学して建築の勉強をしていて、イギリスから帰ってきてパーティがあって、香港の映画界の事情もわからず私が女優だってこともわからず人に紹介されて、ぼーんとポロポーズをされた。」「ところでどういうご家庭の人だ?」と聞きましたら、ご実家のお父上はミスター高。澳門の公営の賭博場の総元締めの御曹司だと。
私はこれはもうそれこそ玉の輿だと思いまして、「うわぁ、結婚しろ、結婚しろ。」「1年に1本でいいから、好きな映画を自分で選んで、自由に出たらいいじゃないか」と言って勧めたわけであります。彼女は傷心の思いで帰ったわけでありましょう。そしたら、「第四作は出ません」と向こうから連絡がありました。そこで私は東宝から袋だたきに遭い、「おまえが手をつけたに違いない。おまえがちょっかいを出したに違いない。何かしただろう」ということですが、私は彼女との、信義といいましょうか、信ということを大事にします宝田だけに、口を堅く閉ざして彼女が結婚ということは東宝には申しませんで、結局は私が悪者になりました。
けれどもその後結婚してたいへん幸せになられて。上海蟹のおいしいときには、友人たちと香港を訪ねて彼女を夕食に招いて、そのときに『香港の星』の中で歌った曲のテープを密かに持って行きまして、その大きなレストランで、「彼女が車から降りて、玄関に入った瞬間に大きく鳴らして」と、中国人の係に頼んでおきました。それを知らずに彼女が入ってきましたら、ばーんと自分の歌った、あれ日本語ヴァージョンがあります、日本語で歌ったのが出て参りまして。そうすると「あ、尤敏さんだ」というので、皆スタンディング・オヴェイション、立って、食べていた箸を置いて…。そして私のところに来て座って、そのときにはもう涙を流して、にこやかな顔で「あなた、ありがとう」と言ってくださったわけです。
そんなふうなお付き合いもするうちに、96年でございますが、悲しい訃報が入りまして、彼女が残念ながら遠い彼の岸へ足早に去って行ったということでございます。お子様も二人でございましたから、もう大きくなられて。香港返還の前でございましたが、たいへん大金持ちで、今香港には大きなビルが林立しておりますが、その五つ六つ七つ八つぐらい彼女がオーナーでございます。だから「僕が勧めた結婚はよかった」といつも言っているわけであります。なんとかを三日やったら止められないのと同じように、役者、特に女優を三日やったら止められないということがありまして、たいした女優じゃないのに続けているのも日本にはうんといますが…。好朋友、宝田の勧めにのって結婚したことは、彼女にとっては大きな道が開けたんじゃないかなと、私はそれが秘めた唯一の財産で、「良き友には良きアドヴァイスを」といつも思っているわけであります。
申し上げたい話は山ほどありますけれどももう30分が過ぎまして、これからはプロフェッサーお二方にご登壇いただいて、お話をさせていただくということになっております。一部をご覧になった方いらっしゃいますか(多数の観客が挙手)。あぁ、そうですか。もう色が変色しておりまして…。あのね、これはどう言っても手前味噌になりがちなんでございますけれども、やはり堂々としていたという気がします。決して手抜きはしていないということでありますね。多少甘いなというのは、いい年になってみるとそうですけれども、衒わず、照れることもなく堂々と撮っていた作品だったなと思います。
この作品の前、昭和32年に石坂洋次郎原作の『青い山脈』の前後編を、岐阜県の中央本線の中津川というところ、また隣の恵那という両市で撮影、ロケをしたわけでありますが、ついこのあいだ私は、12チャンネルの旅番組で、懐かしいところを訪ねるということで、前に泊まったお宿を訪ね歩いたわけであります。恵那と中津川の両市民の方々は、『青い山脈』をちゃんと言い伝えて憶えていらっしゃいまして、意外と若い方も憶えてらっしゃる。街中のちょっとした店でも、あのときの『青い山脈』のロケのスナップ写真が必ず額に入れられて…。恵那高校に行きましたら、そのグラウンドでも撮影いたしましたが、校長先生も先生もみんな替わられておりますけれども、学校の50年史、70年史に『青い山脈』のロケの記事が出ておりますし、こんな大きな写真、額8枚ほど校長室に、ばぁーっと、若かりし頃の『青い山脈』のロケ風景が出ているってなことで。
やっぱりあの当時の映画というのは、テレヴィもまだ家庭にございませんでしたし、唯一の娯楽作品として、特に地方なんか行きますと、自転車、あるいは廊下まで立って、お客様が背伸びをしながら観ていたという、そんな豊かな映画の時代が思い起こされます。昭和33年という年は、映画動員人口がピークを示した年でございます。NHKの実験放送が昭和28年でございまして、その後32、3年頃というのは、新幹線が走ったのはそのあとでありますし、まだご家庭にテレヴィがあるというのは本当に数えるぐらいで、街頭テレヴィの前に黒山になって見たようなこともございました。
そんなことで今振り返ってみますと、私も206本くらい映画に出ておりますけれども、その中でも香港の女優さんとの懐かしいフィルム、今回の催しであらためて観ることができて、私自身にとってもたいへんな喜びであります。その後私は台湾の映画に出演したり、また単身香港にまいりまして、香港の映画に出演したりしたことがございます。東南アジアでは大分いろいろ知己も多く、それぞれロケ先の現地の省庁の方々、皆お偉くなりましたけれども、当時の領事、総領事、大使等々も日本に帰られまして、あの当時ロケでお邪魔したときの話に、時として花を咲かせるようなこともございまして、とってもいい作品に出ることができたなと自負するほどでございます。じゃあこの程度にさせていただきます。
対談
■司会:それではここで、藤井省三先生と四方田犬彦先生に加わっていただくことにしたいと思います。藤井先生はこの企画の仕掛け人といったところでございまして、宝田さんのインタビューを、先生の研究室でこの5月にとられたというのが、そもそも今日こういうことができたきっかけでございます。中国映画、それから香港、台湾映画、もちろんご専門は文学でいらっしゃいますけれども、幅広くご活躍の方でいらっしゃいます。それから四方田犬彦先生は先ほどに続いてのご登壇ということで、重労働になりますけれども、今日は連チャンということでよろしくお願いします。
■藤井:皆さん、こんにちは。藤井省三でございます。たしか5月1日だったでしょうか。宝田さんとマネージャーさんとを乗せて運転手さんが東大構内まで入ってくださって。宝田さんはたいへんお忙しくて、ニューヨーク出張ですとか、四国にいらっしゃるとか、そういう日程をぬって、東大の文学部までおいでくださいました。90分だけとってくださるということで、こちらもいろいろ質問を用意して、香港から東大にいらっしゃっていた黄淑嫻メアリー・ウォン先生と一緒にいろいろご質問させていただきました。いろいろお話ししてくださいまして、先ほどのように尤敏さんの帝国ホテルにおける告白だとか、そういうことを伺っているうちにあっという間に90分が過ぎて、それでも終わりませんで2時間も超えてしまいました。後ろに座ってらっしゃるマネージャーさんが困ってらっしゃるので、お聞きするとそのあと八重洲で舞台の衣装合わせがあるということで、私も申し訳ないなと思いながらも、せっかくの機会だからひとつでも多く質問をと思って、結局2時間半くらいとっていただいた、そういう状況でございます。
今日第二部の『香港の星』をご覧になったときにお気づきだと思いますけれども、主人公の、宝田さんが演じてらした長谷川さんという商社マン、彼の会社が東南商事なんですね。まさに東南アジアの東南として、戦時中日本が中国を侵略し、東南アジアを侵略したそういう歴史があった。そして1945年の敗戦を受けて、もう一度日本が東南アジア、東アジアに復活していくときに、例えば政治的には、東南アジアあるいは韓国には賠償金を払う。実は中国、台湾には払っていないということで残っているんですけれども、東南アジアや韓国には賠償金を払うという形でもう一度入っていく。経済的には、香港にソニーが入っていって、品質のいい日本製品を買ってもらう。そういうふうな政治経済における、東アジアにおける日本のリバイバルというようなことがございます。この香港三部作の映画は、文化史的に日本がもう一度東アジアに復活していくイニシエーション、通過儀礼であったのではないかと思います。
そのときになぜ香港なのか。バンコクでもない、ソウルでもない、台北でもない、なぜ香港なのかということを考えますと、戦後中国大陸では共産党政権が成立して、共産党の独裁体制が固まります。これは現在でも続いていまして、私はペンクラブの獄中作家委員会の委員もしているんですが、毎月のように中国で誰かが捕まった、江澤民主席、これから胡錦濤首席になるんでしょうけれども、に抗議文を送ろうというようなお知らせが国際ペンクラブからやってきます。どういうわけで捕まったかというと、詩集を出版したとか、どこどこ市長の汚職事件を告訴したとか、日本でいえば、あるいは台湾や韓国でいえば当たり前のことをしただけで捕まる。そして何年もの刑に服さなければならない。そういう理不尽なことが中国で起きますと、詩人やジャーナリストの奥さんが駆けずり回って、「夫は不正はしていない」「正しい言論の自由を行使しただけだ」「憲法で保証されているはずだ」というような抗議を申し立てますと、またその奥さんも捕まってしまう。そのような非常に残念な状態が今の中国大陸では続いています。
また台湾においても、戦後、国民党政権が独裁体制を敷きました。国民党と共産党というのは、どちらもソヴィエト共産党の影響下で生まれてきた兄弟政党で、どちらもやり方は独裁体制で酷かったわけです。けれどもそれに対して台湾の場合は、民衆が血と汗を流して民主化と経済発展を進めてきて、80年代末には全面的な民主化が実現して、大統領も選挙で選ぶという民主国家になっています。しかしその台湾も80年代後半までは国民党独裁体制が続いていた。そうしますと、東アジアで自由な言論が許されていた、公共空間というものが成立していたのは香港であったわけです。その香港が、イギリスの植民地下ではあるんですが、自由な公共圏の空気を吸いながら様々な政治、経済、文化の窓口になり、そしてまた発信基地でもあった。
東宝がそういう香港で最もリベラルな映画会社であるキャセイと組んで、宝田さんを主人公とする香港三部作を作ったわけです。さらには、宝田さんのお話にもありましたように、あるいは先ほどの四方田くんと門間さんの対談でも出てきましたように、様々な日本人、特に戦前、戦中、中国とゆかりのあった日本人たちが、監督や俳優やカメラマンとして、あるいは音楽関係で協力したわけです。宝田さんの場合、お父さんが満鉄のエンジニアをなさっていたという関係で哈爾濱で生まれ育って、子供のときから中国人の近所の人たちと遊んだり喧嘩したりしたという、そういう満洲体験をお持ちです。中国語もできる、また中国に対する理解も非常に深い。理解といっても、頭で憶えたというより遊んだり喧嘩したりして、埃と汗でおぼえたという体験をお持ちのたいへん貴重な俳優さんがおられて、そういう方が香港と日本の合作に主演なさって、こういうたいへん素晴らしい作品を残してくださった。
これは香港を窓口にして、当時は中国大陸には行けませんでしたけれども、台湾や東南アジアで観られてきて、戦後の日本人というのは戦中あるいは戦前の日本人とは違うんだ、威張りくさって暴力を振るって侵略をしてきた日本人とは違う。涙もわかるし、汗をかいて働いているし、恋愛をしたり遊んだりしている平和な市民としての日本人が、この香港三部作を通じて東アジア、東南アジアに広まっていった。第一部『香港の夜』はずっと存在しないと言われていまして、キネマ旬報のバックナンバーなどで見て、「あぁ、こういう映画なのか」と想像していただけなんですが、今日初めて観まして、非常に感動したといいますか、これが日本が東アジアにリバイバルしていく40年前の姿だったんだなとしみじみと思いました。
■四方田:宝田さんからプロフェッサーと言われて、正直困ってしまいました。といいますのは、私の世代は、私はゴジラが撮られる前の年に生まれた人間ですが…。
■宝田:(昭和)28年?
■四方田:はい。『モスラ対ゴジラ』とか、そういうところに出てこられる宝田さんを見て育ったんですよ。ですから宝田さんは、科学者のイメージ、学者のイメージなんです。それはもう私だけじゃなくて、私の世代はみんな。科学者、理科系の大学院にいる人、研究所にいる人、そして日本と世界の平和のために学問をする人というのが宝田さんのイメージ。その宝田さんにプロフェッサーと言われたら私はどうなちゃうんでしょう。これはね、1950年代、60年代の漫画を見てください。宝田さんが漫画になったような科学者がいっぱい出てきます。理科系の学者で、地球物理学だろうがロケット工学だろうが、そういうことをやるキャラクターが宝田さん。
■宝田:へぇ、そうなんだ。私は『のらくろ』とか『冒険だん吉』の世界で育ったものですからあれなんですけれども、なるほどね。私がまさに東宝に入った年が、あなたが「おぎゃあ」と産声をあげられた年だというとずいぶんあれですが。このあいだアメリカのゴジラが日本でプレミア上映されたときに、ジャン・レノっていう俳優さんが出ていたんですね。私と挨拶をしたときに、誰だって言うと「あぁっ」て…。自分も小さい時に見たんでしょうね。まるで僕が生きているのが、シーラカンスか山椒魚みたいに思っているんですよ。「そんな人まだ生きてるの?」みたいなことを言うんです。スピルバーグも、小さい頃にゴジラを観た、あの「いつ出てくるか」っていう恐怖感、あれがずっと『ジュラシックパーク』につながっているんですけれども、もしスピルバーグに会っても彼はきっとたまげて腰抜かすんじゃないかと思います。ジャン・レノとは「是非今度一緒に映画を撮りたい」「おぉ、君と一緒に撮ろう」なんて。まぁ実現はしないと思いますが。
■四方田:今日は実はゴジラの話は禁句にしようと思っていたんですが、本人に会ったからやはり申し上げておきたい。ゴジラ50周年で、やっぱり宝田さんに出てもらいたい。国連の科学関係の長官かなんかそういう役ですね。みんなが待っていると思いますね。これはもう日本だけの問題じゃないし、アジアだけの問題でもない。
■宝田:まぁ、日本の総理とかには役不足でございます。だいたい見渡しますとあんまりかっこいいのはいないんで。今やっているプロデューサーが、来年ですか、「ゴジラ誕生50周年」、まぁ私と同期生みたいなものですから「そのときには是非ご一緒に」ということで、久しぶりに。25、6作くらい作っていますかね。まぁ今日はゴジラの話じゃないんで。
■四方田:でも今日の香港のシリーズを観ても、新聞記者、それから英語ペラペラの商社マン。ホワイトカラーのエリートのインテリの役ですね。
■宝田:そうですね。やっぱりあるところまで言葉ができないと、あっちには行けなかったんじゃないでしょうかね。もうソニーがどんどん表に出てきていましたね。それからなんといっても懐かしいのはエアラインとのタイアップですね。世界に冠たるパン・アメリカンだったわけですね。そしてヴィクトリア・ピークから下のほうを見ましても、今のような大きなビルは全然建っておりませんね。
■四方田:そうですね。タイガーバウムのところから見ても何もないですよね。
■宝田:昔から、九龍サイドから香港サイドを見ますと、ソニーが一番早く出ておりましたね。東芝も出ていましたが。大丸はそのあとでございますね。
■四方田:日本のいわゆる戦後の復興が終わりましてね、高度成長になって、いよいよ日本の、例えばトヨタとかダイハツの車を売りに行く、トランジスタを売りに行くと。そういった形でアジアに向かって出て行くというときに、日本の商社マン、軍人ではなくて堂々と物怖じをしない日本人というものが出てくる。そのある種の典型を演じられたという感じがします。威張ってもいなくて、でも堂々としている日本人というのがあそこで出てきたと思うんですね。
■宝田:最近逆に、中国大陸に行っても東南アジアに行っても、領事館、大使館関係の人たちが小さくまとまっちゃっているといいましょうかね、人物的になかなか大きい人が見当たりませんな。三船さんなら「なんだ、あの小役人」と言う、まさにそのとおりでね。なんか小粒ですね。堂々としていない。それはやっぱり…。
■四方田:映画を観なくなったからじゃないですか。
■宝田:そうですね。先生のおっしゃるとおり。
■四方田:『香港の夜』がいわゆる海外で撮影された最初の作品になるんですね。
■宝田:そうですね。私自身としてはそういうことになりますかね。
■四方田:どうですか。今からみると昔話ですけれども、最初に海外に出られて。千葉さんは日本側のスタッフですけれども、あちら側のスタッフとやりますよね。いろんなトラブルがあったと聞いているんですけども、どんな感じだったんでしょう、実際に。
■宝田:やっぱり芝居をする上でのトラブルですね。第一作はキャセイ側としても、自分のところの子飼いの女優をいかに守るかということでですね、相当あれなんですよ。こういう芝居をさせてもらっちゃ困る。つまり「宝田明に惚れさせるなんてことはとんでもない」っていうことになるんですよ。ところがああいうものはやっぱり女が惚れてこなきゃ駄目なんです。男が言い寄っているのはぶざまですから。やっぱり中国人は建前で話しますから、実生活は違うんですけれども、いざ映像になるとなると、建前をふりかざしてきますね。
■四方田:あの終わり方というのは初めから決まっていたんでしょうか。ハッピー・エンドになるという可能性もあったんでしょうか。
■宝田:次の作品がもう控えてますから、あれでハッピー・エンドになってしまうと次がうまくいきません。ですからなかなかうまい終わり方をしている。それでまた次の『ホノルル-東京-香港』になっていくわけですね。あれで結婚して子供でも産んだということになると、話はもう進みません。
シンガポールのすばらしい植物園でロケーションをしていましたら、園長さんがおみえになられて、こんな鉢に入った蘭を…。シンガポールの植物園の蘭は有名なんですね、世界的に。
■藤井:国の花ですよね。
■宝田:そうですね、国花ですね。見事な大輪の花が3つぐらい咲いているんですけれども、それを持ってきて、これは実は新しい品種なんだと。「命名されていないが、これはAkiraという名前でこれからシンガポールの植物園でずっと広げていきたい。」いまだにあるそうでございますが、そんなこともありました。ロケにまいりますと、もちろん中国系の新聞、それから地元の新聞、シンガポールに行っても香港もどこもそうなんですけれど、もう新聞が私と尤敏のことをずっと取り上げましてね。それはそれはロケは大変でございました。黒山の人だかりで、ロケを整理するというのはたいへんな思いをしたんですけれども。
■四方田:じゃあやっぱり香港のネイザン・ロードなんかは早朝ですか。
■宝田:あれは早朝ですね。でも今ほど観光客もウンカのごとくってことはなかったんですけれども。それはそれは香港警察に相当お願いをして、交通整理をさせてやったほどでございましたね。
■四方田:セントラルの長い階段のところとかありますね。あれなんか今でも残っていますけれども、あれもきっと撮影は大変だったと思いますね。カメラ・アングルもそうだし、人の…。
■宝田:その後の話で恐縮なんですが、『香港の白い薔薇』っていうのを先生ご存じだと思うんですけれども。これは台湾の張美瑤チャン・メイヤオという女優さんと、それから日本では山崎努、これをヒーローにして私はちょっと脇に回ろうということで、脇役をやりました。香港の香港サイドでロケをして、そこでもう私がいますと‘ばおてぃえんみん(宝田明)あー’と言われるものですから、「しょうがない、宝田どっか控えてろ」ってことで、盗み撮りということで四つ角の上のところにカメラを据えまして、そこからのサインで、宝田が店を出て逃げる場面だったんです。だーっと雑踏の中を逃げて階段を渡って左折して上まで行って、ということだったんです。ぱっとサインしたので、すぅーっと出て参りましてだぁーっと駈けて、もちろん僕一人で駈けていくわけなんですけれども、後ろからドンドンドンドンと足音がする。「あれ、予定にないなぁ。何が起きているんだろう。誰が追いかけてきているのかな」と思いまして、ふっと見ましたら制服を着た警官が二人、だぁーーっと追っかけてきてですね。「あれ、なんで芝居変わったのかな」と思いましてずっと行きましたら、広東語でしゃべりますけど、僕は広東語はわかりません。私は「今ロケーションをやっているんだ」「おまえなんで俺の顔を知らないんだ」と。偉ぶってますけど、「なぜ俺の顔知らないんだ」というようなことでですね、‘我是宝田明’と言ったら「あぁ」という顔をしたんですけれども、がしゃんと手錠をかけられてしまったんです。そこに護送車がやってきて中に入れられまして、広東語で訳わからないでいたら、運転手が後ろを向いて、「あ、宝田明だ」と言って初めてわかりまして、釈放されたわけです。迫真の演技だったですね。いろいろありました。香港へ行けばいまだにお店の古い方々がね、僕がふらーっと歩いていますと‘あー、ばおてぃえんみん’‘はーい、ばおてぃえんみん’と声をかけてくるんですね。香港のオカマにもう毎日追っかけられましたりね。たいへんでございました。
■四方田:撮影をしてかなりの時間香港にいらっしゃいますよね。そのときに自分たちの映画のクルー以外に、いろんな日本の映画人が来ていたと思うんです。日活から来てた人とか、あるいは韓国からの日本語ペラペラの映画人とか。そういう香港に映画を撮りに来た他の人たちとお会いになったことはありますか。
■宝田:もうひとつ別な会社があるんですが…。ショウ・ブラザーズ。あちらのほうにスタッフとしてカメラマンがやってきていた…。
■四方田:西本正さん。
■宝田:そうですね。私が香港でロケをやっているときに、森繁さんが社長物で来たんです。『社長道中記』とかなんとか、香港シリーズで来たんです。森繁さん、三木のり平、小林桂樹、加東大介…。
■四方田:『社長洋行記』ですね。
■宝田:あぁ、『社長洋行記』。それで同じホテルに泊まっているんですけれどね、人気度が私のほうが抜群で、あの人たち知らないんですよ。森繁さんは「俺たちが来た」なんてホテルでこうやってたって誰も振り向かない。だいたい中国の方は、ちょびひげ生やしているのは悪人に見えるんですね。社長シリーズはあまり海外では受けなかったですね。黒澤さんの作品か私の作品かっていうようなことだったですね。ですからどこへ行っても「宝田に負けたからもう駄目だ。部屋に帰ってひとりでウィスキー飲んでる」なんて言ってね。洋服屋連れて行くんでも僕の友人のところに行ったり、食事でも「ここおいしいから」というようなことで、そういう意味ではいいガイドを務めましたけれども。
■四方田:王引さんについて印象を教えていただきたいと思います。
■宝田:王引さんという方は名優中の名優でいらして、日本で言えば森繁さんとか山村聰さんとか。芝居の達者な、キャリアも十分の方でいらっしゃいましたね。撮影中も本当にお人柄が出ておりましてね、物静かな方で。日本にもセットのシーンでお越しいただきましたけれども、帝国ホテルに泊まっていても、散歩して回りの景色をずっと見て歩かれたり。本当に立派な方だったと思います。適役だったと思いますね。
■四方田:王引さんは50年代に映画監督していらっしゃるのをご存じですか。
■宝田:演出をなさったんですか。
■四方田:ええ。李香蘭で“金瓶梅”を。私、香港の電影資料館へ行って資料を探してきましたよ。
■宝田:何年ごろですか。
■四方田:55年です。
■宝田:山口さんがお出になられたんですか。
■四方田:主演ですよ。脚本もありますよ。香港でオタクやってきましたから。
■宝田:よくお出になられましたね。
■四方田:旦那がアメリカにいてなかなか会えなかったじゃないですか。それでパリに行って『蝶々夫人』をやろうかなといってうまくいかなくて、帰りの香港で「ついでだから出ちゃおう」という感じみたいです。ご覧になってないって言ってましたね。その監督が王引さんです。
■宝田:それはもう日本で上映したら幻の名画になりますね。私もこの後にキャセイからお話をいただきましてね、単身撮影に行ったことがあるんです。それは中国名では“最長的一夜”というんですが、大戦当時の従軍報道員ということで少尉という位で、一人傷ついて生き残って大陸をさまよっているうちに、ある中国人の部落の中に入って行くんです。そうすると、年老いた失明した老人が、自分の息子も兵隊に行ったので、声も似てる、背格好も似てるっていうんですっかり自分の息子だと思って我が家に連れ帰る。ところがお嫁さんやお母さんには違うということがわかる、日本の軍装のままですから。でも父親の思いを大事にするために、一番長い一夜をそこで過ごすという話なんですけれどね。これは香港映画で、樂蒂ロー・ティ、尤敏さんとはまた違った美女でございましたけれども…。
■四方田:もう亡くなりましたね。
■宝田:夫の陳厚ピーター・チェンが浮気者でしてね。
■四方田:本当にきれいですね。
■宝田:きれいな方でした。お鼻が天皇陛下の馬みたいにすーっと…。常に鼻の頭ばっかりパフをこうやって、余計白くなって陛下の馬のような感じ。ちょっとここに何かぷちっと出るともう、易文監督にぶつぶつぶつぶつ「明日撮影したくない」というようなことを言っているもので、僕はもうイライライライラして…。マネージャーも行っているわけではございませんし、本当に一人ぼっちですから。すると監督は“好、好”と言って翌日は撮影中止になる。まぁわがままな女優さんで…。
■四方田:尤敏さんはどうでしたか。さっき安藤先生にお聞きしましたら、そばかすがいっぱいあるので化粧するのが大変だったとか。
■宝田:そうですね、ちょこちょこっとそばかすがありましたかね。とにかく美しい人でしたよ。あんまり幸せなご家庭の出ではないんですけどね。尤敏が女優になっていると、肉親、特に母親が芸能ママみたいにしゃしゃり出てきて。ちょっとお金ができたからギャンブルに手をつけたとかそういう話がチラホラ聞こえて、一生懸命働かなきゃいけなかったというようなことを聞いておりました。結婚したことはとてもよかったと思います。
■藤井:四方田くんのほうから安藤先生というお名前が出たんですが、早稲田大学の現代中国文学の岸陽子先生、もうお帰りになってしまったでしょうか。ずっと朝からいらっしゃっていて。私は岸陽子先生には現代文学のほうでいつもお世話になっているんですけれども、今回のことを新聞の案内でご覧になったということでお手紙くださって。実は尤敏さんが日本にいらっしゃって帝国ホテルに泊まると、宝田さんが悪いことをしないようにということで、岸陽子先生のお母様、今年95歳になられるお母様が帝国ホテルで一緒に泊まって、監視役といいますか、お目付け役をしていたと。お母様もずっといらっしゃっていて、もうご高齢なので先ほどお帰りになりましたけれども。岸陽子先生は当時東京外大の中国語科の学生さんで、映画の字幕の翻訳をしていたというんですね、アルバイトで。その後も香港に留学なさって、留学している間尤敏さんの家によく遊びに行っていて、そうすると女優さんですから平日家にいるときはパジャマ姿でぶらぶらなさっていたと。そういうようなお話をさきほど伺いました。
■宝田:たしかに尤敏さんにくっついていろいろお世話していた岸陽子先生のお母様でいらっしゃいますが、まさかいらっしゃるとは思いませんでした。…とっくに亡くなっていらっしゃると思っておりましたので。そうしましたら93歳でしかもお元気で、思わず“好久不見”と言って、「奇怪だな」なんて話していたんですけれども、本当に懐かしい方でありました。そうしたら「あなたに尤敏が惚れちゃって」なんて…。
“最長的一夜”の映画をロケしておりまして、1ヶ月半ぐらいいたんです、私一人で。夏ちょっと暑かったら浴衣一枚あるいはちょっとこう着流しでですね、角帯に雪駄で香港の街を歩いていたんです。そしたら余計に目立っていたんですが。まるで東映の映画の主人公みたいに。
そのうちに、新関さんという総領事が「宝田くん、今度一回来ませんか」ということで、夕方撮影終わって小高い丘の公邸に駆けつけましてね。そうしたら年老いたご夫妻がいらっしゃいまして、最初に紹介されましたその方は亡くなられた梅原龍三郎さんでいらっしゃった。ご夫妻でおみえになっていて。10人くらい一テーブルでそれはまあおいしいお料理をどんどんどんどん出される。そのうちにあるところまでお料理が出されまして、「おい、新関くん、ところで今日あれが出てないな」と先生がおっしゃったんです。まるで叱るように。奥様が「あなた、あなた」と制していらっしゃって、私は何のことかなと思っておりましたら、「蛇が出てないじゃないか」と。その日は蛇料理がメニューに入ってなかったんですね。「先生、今は蛇は時期的に…。」「何を言ってるんだ。今が一番おいしいシーズンじゃないか。」梅原先生は目がお悪いんで、「目のためにどうしても蛇を食べたいんだ」「そのために来ているんだ」ということで。たいへんわがままともいえますが、「あぁ、わかりました」と言ってウェイターを呼んで指示しておりました。それから話がはずんで、1時間半後くらいにやっとできあがった蛇料理がずらっと出てまいりまして、それをおいしそうにバクバクバクバク食べてらして。僕らはこのくらいのを2匹くらい食べて。画家というのは蛇のおいしい時期をご存じなんでしょうね。おもしろいことがありました。
別のときに台湾でロケしておりまして、台湾の連中とお酒を飲み明かすわけですが、ゲテモノの、やや高級ではない台湾料理のところでした。このぐらいの丼の中にまるで鰻の甘露煮みたいなぺろっとしたのが出てくる。「これは何だ?」と言ったら、「これは魚だ」と言うので「そうか」と思って食べましたら、甘辛くおいしく、バクバクバクバク食べました。そのうちに半分以上食べましたら、みんなが誰も手をつけないでニコニコニコニコ笑ってるので、「あれ、もしかして蛇かな」と思いつつ、「こんなにおいしいんだったら食べちゃえ」と思って、がぶがぶ丼一杯食べてしまいました。その日夜ホテルに帰って寝ましたら、夜中まんじりともしないわけです。起きっぱなし。朝、顔を洗うために洗面に顔をうめましたら鼻血がぶぁーっと出ました。強烈でございましたね。こんな話、映画と何の関係もない…。今日のお客様が私をこうさせるんです。
■藤井:会場には、5月のインタビューの時に一緒にお付き合いしてくださった黄淑嫻メアリー・ウォン先生もいらっしゃっています。香港電影資料館の黄愛玲先生もいらっしゃっています。お二人の先生の方からもしご質問があれば…。(お二人、登壇)
あちらにおかけなのが黄愛玲先生で、今年の4月の香港映画祭で行われましたキャセイの特集の企画などをなさった方です。そして宝田さんのお隣が黄淑嫻先生です。どちらも黄という姓で、ご姉妹なんでしょうか。昔香港電影資料館におられまして、去年、一昨年、東大の文学部の研究員をなさって、今年の夏から香港の嶺南大学の専任講師をなさっています。
■黄淑嫻(北京語):宝田さんはたくさんの中国あるいは香港のお友だちがいると思いますが、映画の中の中国人、香港人のお友だちと、現実の生活の中の中国人、香港人のお友だちとは違いがありますか。
■宝田:地元の方々とは通り一遍のお付き合いもありますけれども、やっぱり映画人ですから、映画関係のスタッフ、キャメラマンとかですね…。どうしても僕はスタッフ指向がありますので、俳優さんよりはどちらかというとスタッフと仲良くして、飲んだり、語ったり、毎晩麻雀したりするのが多いんですけれどもね。香港もそうですが、台湾も、今テレビ局が4つありますけれども、そこの董事長はだいたい僕の老朋友(古い友だち)ですね。昔、映画時代の人がテレビの社長になって偉くなっていますね。香港ではやっぱり易文さん。“最長的一夜”を撮った監督で、残念なことにもう亡くなられているそうですけども。
■藤井:今のメアリーさんのご質問の、日本の映画界の人と中国、香港、台湾の映画界の人とどこか違うところがございますか?
■宝田:いや、モノ作りに関しては同じです。映画作りは第八芸術といわれておりますけれども、みんな同じです。私は戦後まで中国におりましたから、中国人の気質というのは小さい時から理解しているわけで、特に僕は入りやすい条件にありました。しかし、小道具さんとか衣装さんとか技術の細々したスタッフの方々も、モノ作りの人は世界共通だと思います。
■四方田:例えば『香港の夜』、『香港の星』に描かれている香港と、宝田さんがいらっしゃったときの日常生活の香港とは、どのくらいずれがあったんでしょうか。あのぐらいみんな西洋化されていたのかとか…。
■宝田:あの当時も、映画に描かれたものと現実とは多少落差があったような気がしますね。ただ香港は自由港ですし、酒にしても何にしても、我々が舶来物で高い高いと言っていたものが実は安い。ですから我々なんか行ったら、本当に意地汚いんですけれども、「うわぁ、ブランデーがこんなに安い」「ジョニー・ウォーカーは日本であんなにするのに、実際はこのぐらいの値段だったのか」ということで、高いブランデーでも何でもがぶがぶ飲んで…。衣類にしても、生地も安いし、あっという間に作れるし、靴もいいものが安いし、てなことで、ある種の階層の人はみんないい物を持っていましたね。
■四方田:東京よりももっと西洋化されていた…。
■宝田:もっと西洋化されていましたね。女性もどちらかというと男尊女卑ではなく、女尊というか、女性の権利が高いですね。尤敏との結婚を彼女に迫られても、年中さっと立って椅子を引いたり、あれが面倒くさい…。
■藤井:映画の宝田さんがちょっと椅子を引いたりするのは…。
■宝田:にわかおぼえのことでございます。
■黄愛玲(北京語):今日映画を観てとても嬉しく思いました。映画の中の、私が小さい時に見た香港の風景を懐かしく感じました。脚本のことを聞きたいと思います。脚本は主に日本人スタッフが作ったのでしょうか、あるいは香港の方の協力があったのでしょうか。
■宝田:最初におっしゃった、香港の風景が小さい時に見た風景でたいへん懐かしいということですが、今とは全然違う風景ですから、「あぁ、こんなもんだったんだ」と、動く映像で見ることができたのは、おそらく先生にとっても懐かしいことだったと思いますね。脚本作りのときに、両国のスタッフが打合せをしてやったのかという質問ですけれども、それには相当の時間をかけて、こっちのプロデューサーと笠原良三という脚本家が香港に行き、また向こうからこっちに来て打合せをするということで、相当打合せをして、第一稿、第二稿、やっと第三稿ぐらいで決定稿ができるという状況でしたね。キャセイ側としては、さっきも言いましたように、いかに我が社のお抱えの女優さんを立場上よくするか、優位に立たせるかということに腐心をするわけです。しかし、個人的に尤敏さんと私は、「何でもやろうよ」「いい映画を作ろう」という立場でやっていましたから、会社側がお互いに角突き合わせてやっているのとは違って、撮影のセットに入る前のところで、好關係(いい関係)を作ったつもりでございますので、本人はうまくやっていたと思いますね。決してギクシャクしたことはなかったと思います。
■藤井:事前の準備といいますか、友人関係、親友関係が映画の成功につながったということですね。
■宝田:そうですね。特に私は、精神構造は半分中国人で半分日本人だと自分でも思っておりまして、それは幼い時から小学校6年まであの気候風土の中で育って、まわりに喧嘩しあった中国人の仲間もいるわけです。ですから、表のけばけばしたところもあれば、裏のどんなところも恐がらずに入って行った。なかなか観光客とか日本人は入って行けないようなところが、どこの国でも香港にもあるわけですけれど、そういうところにも私は撮影がないときには一人でたったったったっ歩いてですね。広東語は喋れませんから、北京語がわかる人とは北京語で…。僕はあそこでの生活は快適でした。
■藤井:中国というのはたいへん広うございまして、ヨーロッパがすっぽり入っておつりがくるぐらいなわけです。宝田さんが生まれ育ったのは中国の一番北の、旧満洲、東北地方の哈爾濱。映画の撮影にいらしたのは中国の一番南のはずれの香港だったと。北と南の両極端の土地を体験なさったわけですが、北の哈爾濱、南の香港の土地の違いによる人情の差とか文化の差とかはどんなふうにお感じになったのでしょうか。
■宝田:旧滿洲のキャピタルは旧新京、今の長春でございますけれども、長春は行政とかそっちの方のところでありまして、哈爾濱は白系ロシア人がうんといる大都会。多民族の人間の集合体、たいへんエキゾチックなところでございました。そういう意味では、生まれ育った環境はコスモポリタンにならざるを得ないというところがあります。白系ロシア人、ロシア革命のときに逃げてきた方々がいるわけです。たいへん美しい人たちもいるし、インド人もいるし、もちろん韓国人もいるし、戦時中でございますから、大いに闊歩して歩いていた、民間人も含め威張っていた日本人もいたわけでありますから。また香港は、西洋の文化、物質文明もあるいは精神文明も引き込んだひとつの国際都市だったということで、この南と北の関係、私にとってはあまり違和感を感じませんでした。これが例えば旧満洲から台湾に行ったなんていうとまたちょっと違うでしょうね。
■藤井:哈爾濱というのはウスリー川(注:松花江(スンガリ川)ではないでしょうか)という大きな川が流れていますけれども、ウスリー川はかつてシベリアとの貿易、あるいはシベリア鉄道でモスクワを経由してヨーロッパとも繋がっている。さらにその鉄道が南に向いて朝鮮半島を抜けて釜山まで走って、釜山から国際定期便で下関に来る。そういう鉄道と川によって結ばれた国際都市、北の香港というようなところ。そういう意味では、北の香港で育って、南の香港というと変ですけれど南の香港で映画にご活躍なさったという宝田さんだと思います。
■四方田:ちょっと別の話なんですけれども、前に宍戸錠さんと話しましたら、錠さんは香港には行ってないんですが、香港の最近のアクション映画を観てて、「自分や旭がやったことは、やっぱりあれでよかったんだなぁ」というふうに言われたんですね。周潤發が出てきたとき、旭じゃないかと思ったと。
■宝田:あぁ、小林旭さんですね。
■四方田:だから「自分たちがやっていたことはちゃんと継承されているんだな」みたいなことを言われたんですね。そういう意味で、宝田さんと尤敏のあれが三作で終わってしまったことで、日本の香港映画の輸入とかそういったことが大幅に後退してしまったのではないかと。そのあと70年代の途中から、かなり遅れて李小龍ブルース・リーとかが入ってきて、香港映画というのは『Mr. Boo』、お笑いの広東語映画というイメージが出てくるわけです。ところが相変わらず香港ではメロドラマを撮っていたんですが、宝田さんがいらっしゃった頃は、そういうものが日本に来てたし、そういう香港映画のイメージがあったと思うんです。それが中絶しちゃったと思うんです。例えば『香港の夜』なんかは、その当時、中学生ぐらいの周潤發とかそういう人が観ているわけですね。だから、今の香港映画の俳優たちとかにもし何かご意見とか不満とかがあればおっしゃっていただきたいと思います。
■宝田:人類が生き続けるためには、ロマンチックなメロドラマ性といいましょうか、そうものはずっと続くと思うんです。人間と動物とのラブ・ロマンスなんてないですからね、人間が麒麟に恋焦がれて…とか。やっぱり人間、男と女しかいないわけです、地球上には。黒澤さんの作品だって、あそこに村の娘が出てきて若侍とロマンスがありますね。黒澤さんに、メロドラマという言葉は最近はありませんけれども、そういうものを一度撮らしてみたいなと、僕はかねがね思っていたんですよ。人類が生き続ける限りとにかく男と女、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という川端先生の作品からしたって、芸者と青年とのラブ・ロマンスですからね。ですから、五感で感じるものじゃなくて喜怒哀楽、このことはですね、やっぱり言葉、民族、文化、風習が違えども絶対に残っているものですからね。例えば成龍ジャッキー・チェンさんに一度香港で会いましたら、僕のことをシーラカンスと思ったんでしょうか、なんだか知りませんが、「あぁ、宝田明、あなたの映画を観て育ちました」と言ってくれましてね。やっぱりこういう映画をやりたいんだという希望をおっしゃっているんですよ。
■四方田:今の成龍は本当にメロドラマに行っちゃいましたね。
■宝田:ずいぶん前ですけれども、いい役を考えるから、宝田明さん是非出てくれというオファーがあったんですけれども、香港っていうのはギャラが安いんですよね。思ったよりは安いんですけど、他の仕事もあったものですから。さっきも言ったように、衒わず堂々と作っていくということが必要ではないかと思いますね。
■石坂:それにもかかわらず国際交流基金という、決してギャラの高くないところに出てくださいまして、さぞ宝田事務所のほうでマネージャーは困ったもんだと思ってらっしゃるのではないかと…。
■藤井:会場に門間貴志さんいらっしゃいますか。門間さん、一言ご質問ないですか。
■門間:お聞きしようと思っていたのは今言われちゃったんですが、「今香港映画からオファーがあったら出ますか」とか、「今の香港映画をどう思いますか」ということが聞きたかったんですが。台湾の映画に出てらっしゃるのは僕は知らなかったんですけれども、何本ぐらいでどんな映画だったか教えてください。
■宝田:台湾映画の一番最初はね、“愛[イ尓]如骨”といいました。「骨まで愛して」っていうのかな、日本流に言えば。これもしっかりした監督さんでございました。それからもう一本企画があって、行って撮影に入ったんですけれども潰れてしまったというようなことがありました。
台湾は、おやめになった李登輝総統が副総統時代から、よく総統府までつめかけて行ってお目にかかって、いろいろお話を伺いました。あの方は日本の最高学府を出られた方でいらっしゃいますし、日本語は実に堪能でいらっしゃいます。台湾省出身の方がやっと総統になられたわけでございますけれども、吉川英治の文学がたいへんお好きでいらして、『宮本武蔵』などは持っていらっしゃる。「どうやって日本から手に入れましたか?」と言うと「いやぁ、特別なルートがありますよ」なんておっしゃっていたんですが。台湾へはお酒が1本しか持ってまいれません。3本持って行ったら2本は預けとかなければいけないわけですが、私は金箔の入った日本酒を5、6本持って行きまして、私の名刺に「李登輝総統閣下」と書いて瓶に付けますと、「あぁ、お前知ってるのか」ということで、こけ脅かしにそれを使って…。もちろん総統府に持って行くんですが、そうしますとたいへん喜ばれました。
昭和52年から、私の学校と、軍付きの学校がありまして、そこと姉妹校を提携しましてね。軍直轄の学校と姉妹校を提携して向こうで公演をやりまして。台北、高雄、台中、台南で公演をやりました。私の学校の卒業生が機材も全部持って行って。夜のほうは一般公演でございますが、昼間は陸海空三軍の将兵に全部開放するということで観ていただきまして。総統府のすぐ裏に、國軍英雄館というのがあるんです。これは台北にも高雄にも台南にもあるんですが、軍関係の将官、将兵が泊まるホテルで、そこに宿をとりました。もちろん日本人では我々が泊まるのが初めてなわけです。最上階の将軍の部屋なんて、5つ6つある部屋が日本円で1000円くらいで泊まれるということで、軍が按配してくれたわけで。私は台北に入るときはいつも、どこに泊まるんだという入国のあれに國軍英雄館と書きますと、あそこは軍が強うございますから…。まあそんなこともありました。あまりいいお答えにはなりませんでしたけれど。
質疑応答
- ■観客1:3本観させていただきました。最後の『ホノルル-東京-香港』ですか、その作品が一作目二作目と比べるとちょっとコメディ・タッチで、かなり雰囲気的には違った作品に私は感じました。その中で、尤敏さんと東京である程度親しくなって、香港へ行って公園でデートするシーンがあって、そのあと宝田さんがうまくいったと感じて小躍りして歩くシーンがあるんですが、あれはアドリブだったのか、それともちゃんと監督から指示をされたのか、そのへんをお聞きしたかったんですが。
- ◆宝田:なかなかオタクでいらっしゃる…。やっぱり三作目ともなりますとね、少し遊び心が…。最初は少し硬めだったと思うんですよ、お互いにギクシャク、作る側も演じる側も両者ともにですね。役者の慣れもありますし、そういう意味では少しリラックスしたところで、あれは台本に指定されていたことではなくて、勝手にやったら千葉さんが「ふー」と笑って、「それでいこうよ」てなことになったわけであります。ゴジラも何作目かになりますと、子供が「しえー」なんてやって顰蹙を買ったことがありますが。「慣れの果て」というんでしょうか。でももし続いていれば、ぐっと手綱を締めて路線を引き締めたことがあったかもしれません。
- ■観客2:せっかくのヒット・シリーズなんですから、尤敏さんが引退されても、映画会社としては女優さんを変えてもっと作ろうというような話があったんじゃないかと思うんですけれども、それはどうなんでしょうか。
- ◆宝田:宝田と外国の女優、あるいは宝田じゃなくて、例えばここに加山が入ってきたわけですけれども、加山と…。でもあんまり加山じゃヒーローという感じじゃないですね、残念ながら。だから会社も「尤敏が駄目なら」てなことになったのかもしれませんね。続けるつもりでいたわけですから、会社としてはね。密かに結婚という知らせがあって、そのあと途切れてしまったのはある意味では残念ですね。ほかにも素敵な女優さんがいっぱいいたし、日本の映画界を、あるいは宝田というものを踏み台にして、もっとステップアップしてもらえばよかったわけでありますよね。でもそれがなされなかったというのが残念ですね。それほど東宝としても、尤敏の結婚ということは予想だにしなかったことだったので、ある種の製作意欲が喪失するほどのショックを受けたのかもしれません。
- ■観客3:今日は宝田さんにお会いするために、はるばる京都からまいりました。もしよかったら確認したいことが三つほどあるんですけれども。香港に行ったときに、哈爾濱にいたときとあまり感覚が変わらなかったとおっしゃったんですよね。もちろん地方的な差はあるんですけれども、当時の宝田さんにとっては香港はどちらかというと中国の一部分としてみていましたか。そういうふうに理解していいですか。
- ◆宝田:僕はね、「あぁ、故郷に帰ったな」と思うぐらいに、馴れ親しんだ…。そのとき僕は、旧満洲も香港も同じ中国、中国人という感じでいましたから。その中に入っていくのは、もう僕の精神構造がそうですからすーっと入っていける。ほかの誰よりも簡単に入って行けたと。違和感も幾つかはありますけれども。
- ■観客3:確認の2番目ですけれども、私は尤敏さんの演じる香港映画は何本か観ましたけれども、だいたいほかの女優さんが歌姫で、尤敏はどちらかというとあまり歌は歌わない。でも香港三部作を観ると、私は今まで2本しか観ていないんですけれども、中国語で歌を歌っていたんですよね。そのときもちろん宝田さんがそばにいましたよね。本当に本人が、きれいな声で歌っていましたか。どうしてこういう質問をするかというと、日本がこういう映画を製作するのには、第二の李香蘭を作りたいというのがありまして、お嬢様が歌もお上手とかそういう思い込みがあって、尤敏さんは歌わないかもしれないけれども日本との合作映画では必ず歌ってほしいというのがあったかもしれないと私は思ったんですけれども。本当に上手でしたか。
- ◆宝田:今この世にいらっしゃいませんからあれですけれど、でもお上手でしたよ、はっきり言って。もしかしたらね、アメリカ映画だったらどこか声のきれいな人で吹き替えをするでしょう。でもあれは完全にあの人の声です。映画の中で中国語で歌っている、あれの日本語ヴァージョンはレコードであるんです。
- ◆観客3:それもご本人が歌ったんですか。
- ◆宝田:ご本人です。私、コロンビアのレコード・スタジオへ行って、言葉をずいぶん直しました。あんまり上手に歌うと中国の人が歌っていると思えないでしょ。そこそこ、八分の出来ぐらいでちょうどいい。あんまり上手かったらおかしいと思って、あのぐらいがちょうどいいんじゃないかと思って、ある種、妥協いたしました。でもご本人がハイトーンでも全部歌いました。もちろん声の音域は前もって調べていますから。あれを一音か半音でも下げたりするとまた曲相が違ってくるかもしれません。
- ■観客3:最後に質問ですけれども、さっきおっしゃった“最長的一夜”の映画の内容について非常に興味を持っています。東宝とキャセイの合作映画はあわせて7本ありましたけれども、ほとんどが日本人の監督と脚本で、この1本だけが中国人の監督と脚本ですよね。さっきも物語についてちょっとおっしゃったんですけれども、舞台は戦争中の大陸で、日本人が彷徨する間に目の見えない老人に自分の子供だと思われて、その一夜一緒に過ごしたというお話ですよね。その詳しいお話、結末はどうなりましたかとか、そういうお話を教えていただきたいです。
- ◆藤井:それはカタログに書いてありますので、のちほどご参照ください(注:書いてありません)。
- ◆ご質問の中で、香港を中国と認識しておられたかというのの関連で、さきほど『香港の星』を観ていましたら、尤敏さんが「国籍が違う、国籍を越えて結婚するのは難しい」と、英語で宝田さんに三行半といいますか、別れを告げるんですが、そのときに国籍のことをnationとかnationalityとかそういう言葉を使わずに、ethnicity、民族性という言葉を使っていました。あれは中国大陸とか、香港が英国の植民地である、あるいは台湾が独立した政権を維持していたという、そのへんの配慮があったのかなとも思いました。ethnicityというのは非常に印象的でありました。
- ◆ご質問で、なぜ三つでやめてしまったのか、代わりを立ててやらなかったのかというのがありましたが、私も本当にそう思うんです。やはり帝国ホテルでの対話といいますか、たしか「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていただろう」というのはパスカルの言葉だったと思うんですが、もしあそこで尤敏さんから「結婚してくださる?」と問われたときの宝田さんが、「うーん、3年後にね」とか答えてくださったら、日本香港合作映画史は変わっていただろうと。もう二、三部できていたんじゃないかと…。
- ◆宝田:そうですね。もうちょっと待たして、引いときゃよかったですな。失敗でした。今気がつきました。さすがにプロフェッサーはいいことをおっしゃいますね。先生は会社の営業のほうに入られたらいいのかもしれませんね。
- ◆“最長的一夜”は、日本でもどこかアートシアターみたいなところで封切られればいいなと思っているんです。私はあれの完結を知らない、観ていないんです。香港でこの前映画祭をやりましたね、6月に…、電懋週間、キャセイの映画祭をやったんです。そのときに“最長的一夜”があることを先生からか教えていただいて、香港に飛んで行きたかったんですけどね。東宝の支社がいまだに香港にあるもんですから、その支社長に電話して、なんとかヴィデオ化して日本に送ってくれないかというようなことをお願いもしたんですけれども。僕はあれ観ていないんです。あれは私一人で行きまして、こんな分厚い北京語の台本をぼーんと渡されてですね、好きな酒も控えて夜な夜なとにかく中国語と取っ組み合いでした。女優さんはわがままな女優さんでしたけれども…。エンディングは、結局あの中国人はお父さんの夢をかなえるということで、日本兵ということは教えないまま別れていったんじゃないかと思いますね。あの当時は日本軍というのは憎まれる存在ですから、母親もお嫁さんも、御注進というか、どこかに伝えたいわけでしょうけれども、それをぐっと我慢しているところが彼らの同情といいましょうかね、そこがいいところで。不安な一夜を過ごすうちに、新婚時代の思い出が回想で入ってきたり、田舎の田んぼで一緒に働いた思い出が入ってきたり。最後どういう別れ方をしたかというのはちょっと失念しちゃってるんです。對不起。
- ■石坂:それでは最後に宝田さん、締めのコメントをいただけましたら。
- ◆宝田:こんなにも大勢、ご熱心に朝早くからお運びいただいて、28日も観ていただいて、また今日さらに観ていただく…。こんなに大勢いらっしゃるということは、お一人のご覧いただく方のお気持ちは、おそらく×20人、30人あるいは50人くらいのものじゃないかなと思います。ですからこのようなお気持ちは、ここに1000人くらいいらっしゃるんじゃないかと思えるほど嬉しゅうございます。こういう企画を取り上げてくださいまして強力に推し進めてくださいました当アジアセンターはもちろんでございますけれども、ここにいらっしゃる先生方のご尽力、本当に感謝いたします。折があればこういうものをどこか地方でも、せめて何大都市といわれるところでやっていただいて、このようにお話しできる機会をもてればありがたいなと思います。
- ◆四方田:次は香港でやりましょう。
- ◆宝田:香港でやりましょうか。そのときは私のほうで旅行のツアーを組みますので。ツアーで行って、昔のところを訪ね歩くのもいいかなと思います。よりお詳しい方々がたくさんいらっしゃいますから、夜な夜な歩いたり飲みに行くところは私がご案内いたします。いい企画が生まれればと思います。このあと『ホノルル-東京-香港』をご覧いただける方、何人かいらっしゃるでしょうか(多数挙手)。うわぁ、僕も観ようかな。自分の過去通ってきた華やかな昭和30年代の数多い作品の中でもこの三作品を取り上げていただいて、このような催しをもっていただいたこと、本当に忘れることのできないいい思い出をいただきました。今日はどうもありがとうございました。
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