TOKYO FILMeX 2002

『ケドマ』Q&A

開催日 2002年12月8日(日)
場所 有楽町朝日ホール
ゲスト Marie-Jose Sanselme(共同脚本)
司会 市山尚三
英語-日本語通訳 とちぎあきら、藤原敏史


■観客1(日本語):ユダヤ人たちがパレスチナ人のいるところにやって来て、ある意味では彼らを迫害するというか追い出したということを描いているのを、私はこの映画で初めて観ました。一番の目的ではないかもしれませんが、それをきちんと描いたというのも映画の意図のひとつだったのでしょうか。
◆Marie-Jose Sanselme(英語):この映画の意図のひとつは、どこかの場所から追い出されるということが並行して行われた歴史を描くことだと思います。ヨーロッパから追い出されてきた人たち、あるいはナチスの収容所から逃げてきた人たちは、イスラエルとパレスチナにやって来たことによって唯一救われたといえると思います。同時に、そこにいた他の民族の人たちは、結果的に追い出されることになった。そういうパラレルなことがそこで進行したということを描きたかったと思います。歴史的に非常に悲劇的なことが起こったこと自体は議論が必要なことであり、そのことに対して何か決定的な結論を出そうということではありません。人間がそのような状況に出会ったときに、運命に影響されてしまう。そして悲劇を生んでしまう。そのようなことをこの映画は描いていると思います。
◆もうひとつ、この映画の別の要素として、ここで使われている様々なテキスト、言葉が何に拠っているかについてお話ししたいと思います。この中に描かれている若い人たちは、ヨーロッパのキャンプから逃れてきた人たちですが、ひとつはそういう人たちの言葉や記憶です。それからもうひとつは、そこから追い出される結果になったパレスチナ人たちの文学です。例えば、パレスチナ人のテキストではTaufik Zayadという詩人の詩、ユダヤ人のテキストではHaim Hazazのテキストを使っています。こういったテキストや発言は、その当時の歴史を明らかにしていくものであり、しかもそのテキストから現れる彼らの声は、彼らが経験した絶望や怒りが爆発するエモーションを表している。そういう声を映画の中に取り込んでいると思います。

■観客2(日本語):私も7年前、イスラエルのゴラン高原のキブツで1年ほど働いていたことがあります。そして同時に、ガザ地区やヨルダン川西岸を訪れて、いろいろな人と話をして回りました。当時はラビン首相が暗殺される直前で、ゴラン高原をシリアに返還するという話がありました。キブツの中でも、ヨム・キプール戦争とかその前の戦争から戦っている中年以上の男性たちは、「もしゴラン高原を返還するようだったら、俺たちは戦うんだ」ということを真面目に言っておりました。女性の方は、ヨム・キプール戦争の時の空中戦とかそういったものを身近に見ている人たちで、「もし平和が成立し得るのならば、私たちはゴラン高原を返してもいい」とおっしゃっていました。映画を見せていただいて、言語というものがその地域で暮らす人々に与えるインパクトはかなり大きいと思いました。ヘブライ語、イディッシュ、ドイツ語、英語、ロシア語と、意思疎通が非常に難しい状態だったということも、ダイアログを成立させることが難しい条件だったと思います。しかし今、ガザ地区に住んでいる子供たちですら、毎日ヘブライ語の放送を聴いて、私がガザ地区を訪れるとヘブライ語で嬉しそうに話しかけてきたりする。それを見た中年のアラブ人男性が、「お前らヘブライ語なんか話してると首を掻っ切るぞ」というようなことを冗談で言ったりする。一方キブツのほうでは、高校生がみんなアラビア語を理解するほどの教育を受けている。そういった中で、対話ということをこれからどのように発展させていけばいいのか。お互いの生存権を認めるためにはどのようなことが必要なのか。おそらくこれは対話についての契機を考えさせる映画だと私は思うんですが、これからの和平プロセスについて、宗教的感覚も含めて何が一番必要なのかということをお伺いしたいと思います。
◆Marie-Jose Sanselme:私は政治家ではなくてあくまでも脚本家なので、どのような形で答えられるかわからないのですが…。ただ、実は私も2年前に、『キプールの記憶』という映画の撮影準備のためにゴラン高原に行ったことがあります。それは2000年のことなんですけれども、考えてみるとそれからもう時代はすごく速いペースで進んだと感じます。というのは、そのときはやはり和平に向けての、ゴラン高原を返還するかしないかという話し合いが行われていました。でもその後第二回目のインティファーダが起こって、現実は急激に、ドラスティックに変化してしまいました。すべての人が毎日のようにそこに関わらざるを得ないような大きな変化がありました。そういう意味でいうと、今日観ていただいた『ケドマ』という映画は、まったく新しいコンテクストの中で作られているといえます。2000年から非常に速いペースで変わってしまった、その新たなコンテクストの中で映画が作られたと考えてもらいたいと思います。
◆実は私自身も、4年間イスラエルに滞在していました。94年にイスラエルに来たんですが、そのときもやはり和平交渉が進んでいて、イスラエルの人たちもかなり楽観的な、ある意味では楽観的以上のある種の幸福感みたいなものに浸っていました。パレスチナ人との共存や、ヨルダンなどとの平和的な関係に対して、非常に楽観的な感じが強くあったんです。ところがその1年後、イツハク・ラビン首相が暗殺されて、状況は急激に変わっていきました。現在では、毎日ニュースを見ていても、ショッキングな恐ろしい事件が相次いで起こっています。しかしこの映画には、先ほどおっしゃったように、言語、それからコミュニケーションに対する問題意識が含まれています。そしてそれは、将来可能なアクションや対話の道筋を内包しているものだと思います。
◆すでにパレスチナにいたパレスチナ生まれのユダヤ人をサブラと総称しますが、ナチス・ドイツの収容所から逃れてパレスチナにやって来た人たちに対するサブラの人たちの対応のしかたは、決して好意的な親近感のあるものではありませんでした。すでにパレスチナに住んでいるユダヤ人はヘブライ語を話していたし、そういう意味で、言葉に対しての抑圧はそのときにもあったわけです。それは現在でもあるわけで、今でも毎日のようにイスラエルには新しい移民がやって来ています。そして彼らの最初の務めは、ウルパンと呼ばれるヘブライ語の学校に6ヶ月ぐらい行ってヘブライ語を勉強する。これはイスラエルの国民として、統合のためのプロセスとして必ず経なければならない。そういう意味では、『ケドマ』で描かれていることは決して現在と関わりのないことではないということです。また言語だけではなく、徴兵も同じくイスラエル国民として要求されます。

■観客3(日本語):質問を二つお願いします。ひとつは撮影監督のYorgos Arvanitisについてですけれども、今回Renato BertaからArvanitisに変わった理由は何でしょうか。またふたりの撮影現場での仕事の違いとか、作品に対するアプローチの違いがありましたら教えてください。もうひとつは、『セプテンバー11』というオムニバス映画について。この中のGitai監督のパートはたしかMarieさんが脚本を担当なさっていたと思うんですけれども、MarieさんもしくはGitai監督は、この『セプテンバー11』に寄せられた他の監督のエピソードについてどう思うか、そういった点について教えてください。
◆市山:多分最初の質問は、現場にメイキングの撮影に行っておられた藤原さんのほうがいいと思います。
◆Marie-Jose Sanselme:Amos Gitai監督はYorgos Arvanitisを撮影監督に使って本当に喜びました。Arvanitisはギリシャ人、地中海人ですので、地中海の光をたいへんよく理解していた。そういう光がある土地の自然の中に人間をどうやって置くかについても、非常に熟知し、修得している撮影監督です。それは本当に何者にも替えがたい、撮影監督としての力であるとGitai監督は思ったと思います。
◆藤原:現場の仕事ぶりですけれども、Yorgos Arvanitisはギリシャ人で、フランス語と英語が喋れるんですが、ヘブライ語はもちろんできないわけなんですね。Gitaiは撮影現場では、俳優に指示を出すときはヘブライ語で、Yorgosに指示を出すときには英語かフランス語で出します。俳優に指示した内容がYorgosには伝わっていないので、時々打ち合わせと違った動きを俳優がして、Yorgosはその俳優を直感的に追わなきゃいけないという状況にはなったんですけれども、Yorgosは今年でもう62か3だと思うんですが、非常に反射神経が鋭い人で、完璧に撮影監督をこなしていたと思います。あとやっぱりフィルタの使い方とか、Marie-Joseも言ったように、光の感覚であるとか大地の質感を見事に引き出していて、Gitaiは演出するときにヴィデオ・モニタですべてチェックしているんですけれども、Gitaiも非常に満足していたと思います。
◆Marie-Jose Sanselme:脚本家としての私の役割は、様々な選択肢をもらって、そのアイデアを生かしてまとめていくことです。 9月11日のプロジェクトに関しても、そういうことをやってきました。この9月11日の企画では、まず、過去の9月11日にどこでどのようなことが起こったかというのを集めました。(ここまで通訳はとちぎあきら氏)
◆(ここから藤原敏史氏が通訳)Amosが日頃よくやることなんですが、撮影の前日になって突然、それまでやろうとしていたのと全く違う内容に変更しました。テルアビブのエルサレム通りで起こったテロ事件についての、11分の長回しのシークエンス・ショットによる作品を作ろうということになりました。そのために本物の警察官や死者の宗教行事をする本物の人を雇ったりしました。一方私は、俳優たちのために様々なヴァージョンの台詞を書きました。Amosの映画の撮り方はいつもそうで、俳優たちが介入することで初めて脚本ができあがっていく部分があります。俳優たちがこの部分をやりたいとか言うのをアモスが選んでいって完成します。
◆(再びとちぎ氏が通訳)Gitai監督がいつも関心を持っているのは、メディアの役割ということです。イスラエルやパレスチナ、中東で起こっている紛争をメディアがどのように描いているかということに対する意識を、常に彼は持っていると思います。イスラエルは小さな国土にもかかわらず、おそらく世界で最も多くのテレヴィ・カメラが置かれているところです。つまり世界の注目、注視を一心に集めている土地であるわけです。それがアメリカで9月11日に起こったこととの比較において、ある種の皮肉なものを描いているのだと思います。
◆もう一点、テルアビブで9月11日について撮影したことは、Gitai監督の次回作にインスピレーションを与えたと思います。ちょうど撮影が終わったばかりの次回作は、一種のブラック・コメディなんですけれども、この9月11日についての短い作品は、その内容に大きなインスピレーションを与えたと思います。
◆(再び藤原氏が通訳)9月11日のプロジェクト自体はたいへん興味深いもので、9月11日という事件に対して、様々な国の映画作家たちが様々な視点で作品を作ったということは、とても重要だと思います。何本かの作品は非常に素晴らしいと思いました。特に1本挙げるなら、日本の今村昌平監督の作品が非常に好きな作品です。


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作成日:2003年2月4日(火)