TOKYO FILMeX 2002

トークショー「知られざるロシア映画を知る」

開催日 2002年12月6日(金)
場所 浜離宮朝日ホール
ゲスト Marlen Khutsiev(『夕立ち』監督)
司会 沼野充義(ロシア・東欧文学研究、翻訳家)
ロシア語-日本語通訳


■司会(日本語):皆さん、ようこそ。Khutsiev監督、ようこそ日本へ。今日のトークショーは、まず最初に、私からKhutsievさんに幾つか質問してお話ししていただきます。ここにいらっしゃる方は先ほど『夕立ち』を観られた方も多いと思いますので、いろいろ感想や質問もあると思います。後半は皆さんからの質問にKhutsievさんにお答えしていただこうと思いますが、時間が限られておりますので、質問をお持ちの方は事前に書いていただけますか(以下、質問の提出方法についての話は省略)。

■司会:今日ここにいる多くの方は『夕立ち』という映画をご覧になったと思うんですが、私もごく最近観て非常にびっくりしました。日本では、Khutsiev監督の映画というと、『私は20歳』という映画が知られています。これは7年前に岩波ホールで上映して、「60年代初頭のソ連に、これほどみずみずしい、叙情的かつ鮮烈な青春映画があったのか」と驚かされたんですが、今日の『夕立ち』はそのあとの作品で、『私は20歳』に比べるとちょっとトーンが変わっています。けれどもやはりまぎれもないKhutsiev監督の個性の刻印された、素晴らしい、しかも意外な映画です。意外というのは、プログラムにも書きましたけれども、この時代のソ連映画というのは、例えばTarkovskyの映画とかごく一部の有名な映画は知っていますけれども、こういう映画は作られていたということすらほとんど知らなかった。ですからこの時代のソ連映画は、まだまだ我々にとって知られざる宝島のようなものだと、そういう感じを受けたわけです。今日はまず、この60年代のソ連の文化状況、我々には遠い時代でよくわかりませんので、当時どのような文化的コミュニティがあって、どういう状況の中でKhutsiev監督が仕事をして、どんなふうにこの映画が作られたか、どういう発想があったか、そのへんの今日観た映画に直接関係することから伺いたいと思います。
◆Marlen Khutsiev(ロシア語):60年代というのは非常に素晴らしい雰囲気のあった時代ですね。もちろんソ連の中でのことですから、難しいこともいろいろあったわけですが、それにもかかわらず60年代の映画には高揚がありました。それは西側に知られていたわけではありません。外国の映画祭に出るというのは、籤に当たるようなものでした。多少は上映されたことがありますが、ほとんどのものは知られないままでした。今、沼野先生がおっしゃったように、本当に知られざる宝島と言っていいと思います。
皆さんはこのあと『再生の街』というVengerov監督の映画をご覧になるわけですが、この監督は私の親友でした。残念ながら5年くらい前に亡くなってしまいましたが。戦後、正常な生活を再建するために苦労した時代をテーマにした映画です。ご覧になればわかると思うんですけれども、一番最初は若い人たちが工場に通勤していくシーンから始まるんですが、それが突然ストップ・モーションになって、爆発音などを聞かせることで不安な雰囲気を出し、戦争が始まったことがわかります。そのストップ・モーションのあと、戦争そのものは見せないまま、続いてすぐ戦後の荒廃した廃虚のシーンになります。タイトルが流れているところでずっと歌が流れるんですが、その歌詞を書いたのは、Gennadi Shpalikovという戯曲家でも作詞家でもある人で、私も『私は20歳』で一緒に仕事をしたことがあります。音楽は、Isaak Shvartsという人が担当していて、これも素晴らしい作曲家です。Pyotr Toderovskyも担当していて、彼とも一緒に仕事をしたことがあります。この東京で、親友だったVengerovの作品と一緒に上映されるというのは、私にとって非常に嬉しいことです。
『夕立ち』という作品がどのように構想されたかについてお話ししたいと思います。オデッサで私の最初の作品を撮ったわけですが、夜、音楽の録音をやっていて、朝になってモスクワに電話をしたんですね。モスクワに家族が住んでいるものですから。長距離電話をかけるために郵便局に出かけたら、途中ですごい雨になりました。公衆電話のボックスを見ながら雨の中で待っていて、ちょっと思いついたんです。女の子が通り雨にあって雨が止むのを待っていて、私がその女の子に上着を貸して、女の子が上着を返すために私に電話をかけてくる、そういうストーリーを思いつきました。そのアイデアが非常に気に入ったんですが、そのあと少し変わって、上着を貸した男のほうが電話をかけてくるけれども、結局上着を取りにくるところまではいかないという話になりました。その男は、声は聞こえるけれども姿は見えないのです。もうひとつ私に思い浮かんだアイデアは、恋が破れるというものです。男女が出会って、お互いに気に入って結婚に至るというような映画はいくらでもあるわけですから、その逆をやってみたいと思いました。その女性がどうして男から離れていくのかを考えなければならなかったのですが、昔からの知り合いの脚本家、Anatoli Grevnevのところへ行って、一緒に仕事を始めました。他の監督に撮ってもらうつもりで書き始めたんですが、結局自分で撮ることになりました。脚本も監督もやるのでギャラが多くなると思ったのですが、結局多くなりませんでした。

■司会:今の監督のお話でよくわかった点があるんですが、この映画は今観ても非常に新鮮な感じがするんですね。それはある意味では、当時のソ連映画の約束事をけっこう大胆に破っているところがあります。例えば今お話があったように、電話はするけれど姿は見えない登場人物とか、普通だったらハッピー・エンドになるのがこれは最後には結局別れてしまうという、当時のソ連では、かなり型破りな映画だったと思うんですね。多分当時のソ連の批評界でも複雑な反応で、批判もあったと思うので、当時ソ連でどう評価されたかをお聞きしたいと思います。それから皆さんご存じと思いますけれども、Khutsiev監督のその前の作品、『私は20歳』も、体制側から非常に厳しく批判されて、改作を余儀なくされました。それでKhutsiev監督はそのあとも体制側から若干睨まれるような状態が続いていて、この『夕立ち』も、ヴェネチア国際映画祭に出品される予定が、彼は出国を許されなかったという経緯があります。そのへんのことをちょっと伺ってみたいと思います。
◆Marlen Khutsiev:たしかに『私は20歳』はKhrushchyovによって批判を受けて、1年かけて作り直しをしました。イタリア共産党の書記がどうしても出品してほしいと言ったので、ようやくヴェネチアに出品することができたんです。このときは、2番目の賞になると思うんですが、審査員特別賞をいただきました。この次の『夕立ち』もやはりヴェネチアに招待を受けたんですが、今度はどうしても上の方が出品を許可しなくて、出すことができませんでした。具体的に事細かに話していると一晩中つぶれてしまいますので、簡単にお答えしました。
◆司会:ただこの『夕立ち』が当時のソ連でどのような批評を受けたのか、ちょっと一言伺いたい気がするんですけれど。
◆Marlen Khutsiev:批評は様々なものが出ました。もちろん批評家の中には進歩的な人もそうでない人もいます。いろいろなものを先取りして評価するような人は、私の作品をいいと言ってくれましたが、その他にどうしようもない批評もいろいろありました。ある批評家は公開質問状を出してきて、それは「前の映画はなかなかよかったけれども」というので始まるんですが、実はその人はその前の映画を全然評価していませんでした。そんな調子で始まる手紙を書かれて、しかたがないので私は「この質問に答えることはできません」という返事を書きました。

■司会:Khutsievさんの作品としては、60年代の『私は20歳』と『夕立ち』が代表作で、我々にはそのあとの作品は知られていません。最新作として、これは日本の関係者もあまり観た人はいないんですが、“Infinitas”という作品があります。一般には公開されていないようですが、90年代の初めにベルリン映画祭に出品されているそうです。是非Khutsievさんの最近の作品として我々も観てみたいと思っていますので、どんな作品か一言お聞きしたいと思います。
◆Marlen Khutsiev:Infinitasというのはラテン語で無限という意味です。主人公はおじいさんです。外を歩いていて、いつのまにか人ごみにまぎれてずっと歩いて行き、ふと気づくと駅にいる。何駅か電車に乗っていると、いつのまにかその電車が古い汽車の車両になっていて、若い頃の時間へと呼び戻していく。そういう感じです。とある駅で下りると、知らない若い男性が立っている。ふたりは一緒に歩き始めて、野を越え山を越えてずっと歩いて行く。地平線の向こうに街が見えてくる。その街は主人公の生まれ故郷である。一緒に歩いていた若い男は、実は若い頃の自分である。その街で子供の頃の友だちや様々な人に出会い、あちこちで質問を受ける。いつのまにか過去の時代へと紛れ込んでしまって、ドイツのタンクが出てきたりする。駅で汽車が出発しようとしているのは、実は第一次世界大戦に出征していく列車である。主人公は、自分の人生の最後の境界線に立っているということを意識します。そこで、歴史や、自分に関係のある場所との結びつきを思い出す。境界を乗り越えるというところで「無限」というタイトルが生きてくる。最後に男は街から出て行くんですが、また若い男と一緒に歩いて行って、小川にぶつかります。若者はその小川を簡単に飛び越えることができるけれども、老人はなかなか飛び越えられない。自分の渡れるところを探して小川に沿って歩いて行くと、小川はどんどん広くなってしまう。若者は「元のところに戻ろう」と言うのですが、老人は「戻ってはいけない、前に進むことが大切だ」と言います。そういう説話的な、歴史的な作品です。
◆司会:伺っているととてもおもしろそうな作品なので、これも是非近いうちに日本で観ることができればと思います。
◆Marlen Khutsiev:あらかじめお断りしておきますが、これはものすごく長い映画で、3時間半あります。人生というのは長いものですから。

■司会:皆さんからたいへんいい質問がたくさん集まりました。ただ、今までの調子ですと、ひとつ質問しても15分くらいかかってしまうので、今どうしようかなと思っています。あと10分くらいで終わらないといけないものですから、ともかく「手短にお答えください」とお願いして、できるだけたくさん質問をしてみたいと思います。

■司会:[質問1]『私は20歳』は全体に明るい雰囲気だったんですけれども、『夕立ち』の方はちょっと翳りというか暗さを感じます。これはどういうことなんでしょうか。
◆Marlen Khutsiev:『私は20歳』は、基本的には希望ということをテーマにしていました。それに対して『夕立ち』の方は、幻滅というのがテーマになっています。だから、それに従ってまわりの自然なども少し暗い雰囲気になっているのかもしれません。

■司会:[質問2]ヒロインの女優がとてもチャーミングで素晴らしかったと思いますが、どのようにして見つけられたのですか。
◆Marlen Khutsiev:非常にしっかりしたものを持った女優を、本当に長いこと探しに探しましたが、なかなか見つからなかったんです。あるとき、彼女が何か仕事をしていたその脇をたまたま通りかかったんですが、しばらくお互い気づかずにずっと仕事をしていて、ふっと見たときに、背を向けていた彼女が振り返ったんですね。そのときに私は、この作品のヒロインを見つけたと思いました。自分のフィアンセを最終的には拒絶して振ることになる、そういう精神的な葛藤を表現できる女優が必要でした。

■司会:[質問3]映画を観ていて、昔のフランスのヌーヴェル・ヴァーグの映画を思い出しましたが、影響はあるのでしょうか。当時ソ連では、ヨーロッパの映画はどのくらい観ることができたのでしょうか。
◆Marlen Khutsiev:その質問はよく受けるんですが、基本的には影響はないと思います。国によっていろいろ体制の違いがありますが、それを超えてなおかつ共有している時代の雰囲気というものがあります。こういったその時代の雰囲気の影響が一番強いのではないでしょうか。
ある批評家に、Antonioniの影響を受けているという悪口を書かれたことがあるんですが、実はAntonioniはこれを作る前には観ていなくて、作ったあとで観ています。というのはやや不正確なので直しますが、『私は20歳』を終えたあとに、映画会館で私は初めてAntonioniの『太陽はひとりぼっち』を観ました。観ていて眠くなって眠ってしまい、目が覚めたらもう終わりでした。あとでAntonioniに会ったときには、このことは隠しておきました。
◆司会:今ふたりでコソコソ話をしていたんですが、Pasoliniの映画を観たときも居眠りをしたとおっしゃっていました。私も試写室でTarkovskyの映画を観ているときに、有名な映画批評家が隣で居眠りしているのを見たことがあります。

■司会:[質問4]映画政策と検閲の問題に関して幾つかの質問があるので、まとめて質問したいと思います。『私は20歳』に関しては検閲との対立があって、削除を命じられたり、いろいろなことがあったんですが、『夕立ち』に関してもそういった問題があったのでしょうか。それから、「最近のロシアをどう思いますか」というタイプの質問にも出てくるんですが、現在のロシアは、検閲がなくなって創造の自由がありますが、その結果映画にいい影響が出ているのでしょうか。
◆Marlen Khutsiev:ご存じのように『私は20歳』は、1年間にわたる長い検閲との戦いのプロセスがあり、その間ずっと「あれを直せ」「これを直せ」と言われていろいろやっていたわけです。『夕立ち』の場合は、ひとつのシーンが削除されました。それは、主人公のレーナが歩いていてそこに一人の狂人が近づいてくる、というシーンです。検閲では、政治的なものだけではなくて、ポルノや精神的なものに対する取り締まりもありました。今の時代は、お金のためならポルノグラフィでも犯罪物でも何でもできるようになったわけですが、これはある種のパラドックスであり、ある種の「お金による検閲」と言ってもいいと思います。その問題にどう対処するかは、若い世代の人たちの課題でしょう。

■司会:Khutsiev監督は最近77歳になられました。77歳とは思えないくらい元気な矍鑠たる姿で、これからもまだ活躍していただきたいと思いますが、77歳というのは我々の感覚からいうと喜寿ですね。ですからこの機会に監督の77歳のお祝いを一言申し上げて、これからも元気で映画を作っていただきたいと思います。
◆司会:(ロシア語でお祝いを言ったあと)もうひとつ質問にお答えしたいと言っています。
◆林ディレクター:じゃあ手短に。
◆司会:日本とロシアの関係について、ロシア市民として、といってもKhutsievさんはグルジア系なんですけれども、ロシア市民としてどのようにお考えかという質問です。
◆Marlen Khutsiev:……(熱く語る)
◆司会:関係というのは領土問題のことです。
◆Marlen Khutsiev:この問題は公正さをもって解決しなければならないと思います。日本側にとっても利益になるように解決されるのがいいでしょう。私は大統領ではないので、どう解決すればいいのかよくわかりません。
皆さんどうもありがとうございました。そちらにいる林さんのおかげで、今回この映画祭に招かれて東京に来ることができ、非常に喜んでおります。またお目にかかる機会があるといいですね。この質問はモスクワへ持って帰って、みんなに見せて「こんなにいろいろ書いてくれたんだ」と自慢します。


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作成日:2002年12月14日(土)
更新日:2002年12月16日(月)