私が初めて調景嶺を観たのは、劉鎭偉監督の“天長地久”(『アンディ・ラウのスター伝説』)の中である。この映画は、徐濠[(火火)/冖/糸]扮する現代の少女が、死んだといわれている父親(劉徳華)の過去を調べていくという形で、60年代のスター、劉徳華と劉錦玲の悲恋が語られる。調景嶺はふたりの故郷という設定であり、60年代の回想シーンの中で描かれている。村中に翻る青天白日旗(中華民国の旗)が異様な光景を呈していたが、その時は調景嶺のことを知らなかった。その後、偶然[HK14a]の記事を読み、調景嶺がどういうところで、どうして青天白日旗が掲げられているのかを知った。
1995年2月、初めて香港を訪れたとき、胡散臭い政治的背景への興味と、なくなってしまう前にあの異様な光景を自分の眼で見たいという気持ちから、調景嶺に行ってみた。MTRで觀塘まで行き、駅から少し離れたバス停から調景嶺行きの10Aの小巴(ミニバス)に乗る(HK$4.5)。当然のことながら旅行者など乗っていなくて、乗客は皆顔見知りのようで賑やかだ。市街地を抜け、しばらく山の中を走ると、乗客が皆降りたので、私たちもそこで降りた。実は終点はこの次の停留所だったようだ。
青天白日旗がまばらにしか見えないと、ただの辺鄙な村という感じが強い。霧に霞んで見える景色は、原色の街といった香港のイメージとは程遠く、美しい。古びた石段のたたずまい、取り残されたようなのどかさは、少し金瓜石を思い出させる。
人通りはあまりないが、出会う人は、明らかによそ者である私たちを、驚きや疑いや好奇心の入り混じった眼で見つめる。石段を歩いていた小さな男の子が、知らない人が珍しいのか、私たちを何度も振り返って見ていた。
フェリー乗り場は、“天長地久”に出てきたような立派なものではなく、田舎のバス停のように小さい。舟着き場には、青天白日旗が両側にずらりと並んでいる。香港島北西部の西灣河行きの小輪が30分おきにあり、乗客もけっこう多い。斜面にある村なので、人の交通手段としてだけではなく、荷物の運搬手段としても重要なようだ。着いた小輪から荷物を降ろし、また別の荷物を積み込んで出発する。山の斜面にへばりついた家々が遠ざかっていくと、30分くらいで西灣河に着いた。料金は後払いでHK$6。
“旺角[上/下]門”では、調景嶺という名前は出てこないし、青天白日旗も全く映らない。張學友は田舎から旺角に出てきた青年という設定なので、けっこう田舎であり、追いかけたりするのに都合のよい、路地が多くて入り組んだ地形といったことでここが選ばれていると思われる。特別なイデオロギー的意味が出ないように、青天白日旗を取り払って撮影したのだろう。この映画は、旺角(ロケ地は必ずしも旺角ではない)、大嶼山、張學友の故郷の村(調景嶺)の三箇所が主な舞台だが、都会の街、海辺という前者二箇所と対照をなすように山がちなところが選ばれたのかもしれない。王家衛は、“堕落天使”(『天使の涙』)のロケ地に関するコメントで、「なくなっていくものをフィルムに残したい」というようなことを語っていたから、なくなろうとしている調景嶺をフィルムに残そうとする意図もあったかもしれない。
一方、青天白日旗の数は、一面に翻るというのには程遠いものの、前回よりはずっと増えている。各家には立ち退き期限の書かれた紙が貼られており、交渉の結果や集会を知らせる掲示板もある。青天白日旗の増加は抵抗運動の現れだろうか。「目的のためには血を流すことも厭わない」というような言葉さえ見られる。
取り壊しが具体的に決まったことやそれに対する抵抗運動が、香港の人たちの注目を集めているのだろうか。なくなる前に人目見ようという人もいるのだろう。沖合いではすでに埋め立て工事も始まっている。
劉徳華が張學友に引き受けた殺しをやめるよう説得する路地や、ふたりで煙草を吸う犬のいる広場、張學友が劉徳華をまいて逃げる暗い通路などは、メインストリートの近くである。このあたりのシーンは、崖際の道や入り組んだ路地といった、斜面につくられた村の特徴をうまく生かして、魅力的に撮られている。
終点のひとつ手前のバス停には、KMBの白い巴士(90番)が停まっていた。バスを利用してここに来る方法は、私たちが利用した小巴のほかに、彩虹からKMBの巴士(90番)を利用する方法もある。張學友が降りてきた巴士は、このKMBの巴士だ。しかし私たちは、これではなく、行きと同じ小巴で調景嶺を後にした。
1996年になって、調景嶺の取り壊しのニュースは日本でもけっこう報道された。私はそれらの番組をほとんど見ていないし、調景嶺の歴史的経緯については詳しくないのだが、住民の反対の理由としては「かつて香港政庁は調景嶺への永住を認めたのに、それを撤回するのはひどい」というのがあるようで、それは確かにその通りだと思う。一方、調景嶺をニュースにしたがる人たちや、住民の味方のように振る舞って騒いでいる人たちは、自分たちが持っている反共的、あるいは反大陸的な感情を、調景嶺住民に勝手に背負わせて煽っているように感じられ、なんとなく釈然としないものがあった。
結局調景嶺は、1996年9月に最終的な取り壊しが行われ、村はなくなったようだ。しかしその時点では、なかば廃虚と化してはいても建物は残っており、まだ立ち退いていない人もいたらしい。その後ここがどうなったのか、今どうなっているのか、私にはわからない。次の機会にもう一度行って自分の目で確かめてみたいと思っていたのだが、1998年12月に香港を訪れたときにはもう調景嶺へ行くバスはなく、結局訪ねることはできなかった。
1998年9月7日現在、WWW上でアクセスできる調景嶺関連の情報は以下の通り。
■ ↑『As Films Go By -香港篇-』index ■