The Last Time I Saw Tiu Keng Leng


[調景嶺9502]
新界東部にある調景嶺(Tiu Keng Leng/Rennie's Mill)は、国共内戦後、国民党軍兵士によってつくられた「落人村」で、国民党の資金援助を受けてきたところである[HK14a]。香港の中國回帰を前に、取り壊してニュータウンにするため、1996年夏に廃村になった。

私が初めて調景嶺を観たのは、劉鎭偉監督の“天長地久”(『アンディ・ラウのスター伝説』)の中である。この映画は、徐濠[(火火)/冖/糸]扮する現代の少女が、死んだといわれている父親(劉徳華)の過去を調べていくという形で、60年代のスター、劉徳華と劉錦玲の悲恋が語られる。調景嶺はふたりの故郷という設定であり、60年代の回想シーンの中で描かれている。村中に翻る青天白日旗(中華民国の旗)が異様な光景を呈していたが、その時は調景嶺のことを知らなかった。その後、偶然[HK14a]の記事を読み、調景嶺がどういうところで、どうして青天白日旗が掲げられているのかを知った。

[調景嶺9502]
“天長地久”では、調景嶺は実名で登場するが、特にイデオロギー的な背景はないと思われる。どちらかといえば、夥しい青天白日旗の視覚的なインパクトや、路地や舟着き場といった映画的な素材を利用するために、ここが舞台に設定されているようだ。若者たちにとっては、貧しくて退屈な田舎町という感じだったが、ごく普通の日常生活が営まれており、それなりに活気もあった。一方、徐濠[(火火)/冖/糸]が父親の故郷が調景嶺だと知って訪ねるシーンでは、劉徳華の住んでいた町はすでになくなっているという設定だった。おそらく、劉鎭偉がここをロケ地に選んだのは、調景嶺が取り壊されるという決定を受けて、失われていく場所をフィルムに残そうとしたのだろう。

1995年2月、初めて香港を訪れたとき、胡散臭い政治的背景への興味と、なくなってしまう前にあの異様な光景を自分の眼で見たいという気持ちから、調景嶺に行ってみた。MTRで觀塘まで行き、駅から少し離れたバス停から調景嶺行きの10Aの小巴(ミニバス)に乗る(HK$4.5)。当然のことながら旅行者など乗っていなくて、乗客は皆顔見知りのようで賑やかだ。市街地を抜け、しばらく山の中を走ると、乗客が皆降りたので、私たちもそこで降りた。実は終点はこの次の停留所だったようだ。

[調景嶺9502]
崖際のフェンスには、ところどころ青天白日旗が立っている。急な石段を海の方に向かって降りて行く。道の脇には、斜面にへばりつくようにバラックのような民家が建っている。途中にあった公衆トイレは、個室のない中国式トイレだった。観光客などいないので誰も来ないだろうと思って利用したが、よく考えてみれば、これらの家にはトイレがなくても不思議ではない。石段の脇のフェンスにもところどころ青天白日旗があるが、一面に旗が翻る光景は見られなかった。中國回帰を前に香港政庁が規制しているのだろうか。そんな中で、建物の壁に大きく書かれた「中華民國萬歳」の赤い文字が印象的だ。

青天白日旗がまばらにしか見えないと、ただの辺鄙な村という感じが強い。霧に霞んで見える景色は、原色の街といった香港のイメージとは程遠く、美しい。古びた石段のたたずまい、取り残されたようなのどかさは、少し金瓜石を思い出させる。

[調景嶺9502]
海の近くまで降りると、道の両側に食堂や食料品店が並ぶ、メインストリートらしき通りがあった。ここには、運動会で使う万国旗のような、ビニール製の青天白日旗が飾られている。“天長地久”の中に、自転車に二人乗りした劉徳華と劉錦玲がこんな道を走るシーンがあった。お昼どきなので食堂では人々が食事をしていて、民家からは時々麻将の音が聞こえてくる。北京語を話す人が多いと聞いたが、聞こえてきた会話は広東語だった。食料品店の店先で巨大な胡麻団子を見つけ、ひとつ買った(HK$3)。

人通りはあまりないが、出会う人は、明らかによそ者である私たちを、驚きや疑いや好奇心の入り混じった眼で見つめる。石段を歩いていた小さな男の子が、知らない人が珍しいのか、私たちを何度も振り返って見ていた。

フェリー乗り場は、“天長地久”に出てきたような立派なものではなく、田舎のバス停のように小さい。舟着き場には、青天白日旗が両側にずらりと並んでいる。香港島北西部の西灣河行きの小輪が30分おきにあり、乗客もけっこう多い。斜面にある村なので、人の交通手段としてだけではなく、荷物の運搬手段としても重要なようだ。着いた小輪から荷物を降ろし、また別の荷物を積み込んで出発する。山の斜面にへばりついた家々が遠ざかっていくと、30分くらいで西灣河に着いた。料金は後払いでHK$6。

[調景嶺9512]
私が二度目に、そして最後に調景嶺を見たのは、同じ年の12月、暮れもおしつまった頃である。もう一度来ることになるとは思っていなかったこの場所を再び訪れたのは、ここが“旺角[上/下]門”(『いますぐ抱きしめたい』)のロケ地であることがわかったからだ。最初の香港旅行から帰った後、“旺角[上/下]門”の張學友の故郷のシーンに、なんとなく既視感を感じ始めた。どことなく調景嶺に似ているような気がしてならない。確信を得られずにいるうちに、[HK64a]によりここでロケされていることがわかった。

“旺角[上/下]門”では、調景嶺という名前は出てこないし、青天白日旗も全く映らない。張學友は田舎から旺角に出てきた青年という設定なので、けっこう田舎であり、追いかけたりするのに都合のよい、路地が多くて入り組んだ地形といったことでここが選ばれていると思われる。特別なイデオロギー的意味が出ないように、青天白日旗を取り払って撮影したのだろう。この映画は、旺角(ロケ地は必ずしも旺角ではない)、大嶼山、張學友の故郷の村(調景嶺)の三箇所が主な舞台だが、都会の街、海辺という前者二箇所と対照をなすように山がちなところが選ばれたのかもしれない。王家衛は、“堕落天使”(『天使の涙』)のロケ地に関するコメントで、「なくなっていくものをフィルムに残したい」というようなことを語っていたから、なくなろうとしている調景嶺をフィルムに残そうとする意図もあったかもしれない。

[調景嶺9512]
よく晴れた土曜日の午後、同じ小巴を利用して調景嶺に向かう。終点で小巴を降りてすぐに、前とは様子が違うことに気づく。バス停の近くには車が何台か停まっており、よそ者らしき人たちとすれ違う。ドライブに来たという感じの若いカップルや家族連れもいる。住民たちも、それらのよそ者に対して無関心だ。前回感じられた閉鎖的な感じや取り残されたような雰囲気は、今回は感じられない。

一方、青天白日旗の数は、一面に翻るというのには程遠いものの、前回よりはずっと増えている。各家には立ち退き期限の書かれた紙が貼られており、交渉の結果や集会を知らせる掲示板もある。青天白日旗の増加は抵抗運動の現れだろうか。「目的のためには血を流すことも厭わない」というような言葉さえ見られる。

取り壊しが具体的に決まったことやそれに対する抵抗運動が、香港の人たちの注目を集めているのだろうか。なくなる前に人目見ようという人もいるのだろう。沖合いではすでに埋め立て工事も始まっている。

[調景嶺9512]
“旺角[上/下]門”で、張學友が崖の手すりのところからエアコンを投げ捨てる場所と、彼が振り向くと劉徳華が立っている場所は、終点のひとつ手前のバス停近くにあった。エアコンが捨てられた場所はゴミの山になっている。劉徳華が立っていたのは、倉庫の扉の前だった。このシーンは、LDのジャケットなどにもなっていてかなり有名だと思うが、実際は小さなしがない倉庫だ。

劉徳華が張學友に引き受けた殺しをやめるよう説得する路地や、ふたりで煙草を吸う犬のいる広場、張學友が劉徳華をまいて逃げる暗い通路などは、メインストリートの近くである。このあたりのシーンは、崖際の道や入り組んだ路地といった、斜面につくられた村の特徴をうまく生かして、魅力的に撮られている。

終点のひとつ手前のバス停には、KMBの白い巴士(90番)が停まっていた。バスを利用してここに来る方法は、私たちが利用した小巴のほかに、彩虹からKMBの巴士(90番)を利用する方法もある。張學友が降りてきた巴士は、このKMBの巴士だ。しかし私たちは、これではなく、行きと同じ小巴で調景嶺を後にした。

[調景嶺9512]
このときは資料がなく、“天長地久”のロケ地はわからなかったが、香港で購入したLDと写真を見比べてみると、劉徳華の家は、渡し舟乗り場の二階部分が使われていたようだ。劉徳華と劉錦玲が自転車に二人乗りして走る通りは、似ているものの映画の方が道幅が広いのでセットだろうか。

1996年になって、調景嶺の取り壊しのニュースは日本でもけっこう報道された。私はそれらの番組をほとんど見ていないし、調景嶺の歴史的経緯については詳しくないのだが、住民の反対の理由としては「かつて香港政庁は調景嶺への永住を認めたのに、それを撤回するのはひどい」というのがあるようで、それは確かにその通りだと思う。一方、調景嶺をニュースにしたがる人たちや、住民の味方のように振る舞って騒いでいる人たちは、自分たちが持っている反共的、あるいは反大陸的な感情を、調景嶺住民に勝手に背負わせて煽っているように感じられ、なんとなく釈然としないものがあった。

結局調景嶺は、1996年9月に最終的な取り壊しが行われ、村はなくなったようだ。しかしその時点では、なかば廃虚と化してはいても建物は残っており、まだ立ち退いていない人もいたらしい。その後ここがどうなったのか、今どうなっているのか、私にはわからない。次の機会にもう一度行って自分の目で確かめてみたいと思っていたのだが、1998年12月に香港を訪れたときにはもう調景嶺へ行くバスはなく、結局訪ねることはできなかった。


1998年9月7日現在、WWW上でアクセスできる調景嶺関連の情報は以下の通り。

  1. 【香港】リトル台湾「調景嶺」集
  2. 「台湾の村」調景嶺(ティムゲーレン)
  3. 香港の「台湾村」半世紀の歴史に幕

↑『As Films Go By -香港篇-』index


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更新日: 1999年1月25日(月)