虹口 [hong2 kou3]/ホンキュウ

■金子光晴:『どくろ杯』[B42]

 日本の銀行員の若妻で、まだ上海慣れない女が、虹口ホンキュウマーケットの近くで、苦力たちの手ごめにあった話が話題をよんだことがある。……(《上海灘》p131)
 私たち三人は、日本人のたまりの虹口文路をぬけて、北四川路に出ると、北へ、北へ、車を走らせた。……(《上海灘》p133)
 ……よごれ浴衣を着て、上海の町を蹌踉としてあるいているこの人達は、一定の職もなく、虹口あたりにごろごろしていて「上海の芥ごみ」とよばれる、大金の夢ばかりみながら、果報は寝て待つ、博徒ではない貘徒の走り使いの役にも立たない連中であった。(《上海灘》p135)
 メキシコ弗を手に入れると、その当座だけ私たちは、元気づいて、上海に着いた夜、宇留河のパンさんが歓迎のこころざしでつれていってくれた、洋風な広東料理「新雅」へ先ず夕食をたべに行った。石丸の老婆が先立ちになってつれてゆかれたドッグレースや、四個シーコばくちで、悪銭は小出しに消えていった。……(《猪鹿蝶》p142)
 ……虹口日の出旅館という日本旅館には、先頃まで、帝展で特選になったばかりの前途有望な新進画家の上野山清貢という男がいて、私に、蘇州河を遡って水路を蘇州までゆく旅をおもい立ったが、心細いからいっしょにゆかないかと誘いかけたが、私は、優等生とはゆく気になれないし、優等生に費用までおんぶしてゆくのはしみったれたおもいをしなければならないと、それこそけちなひがみから、拒ってしまったが、舟でのぼる旅には心がのこらないでもなかった。しかし、そのとき、よくよくうすら寒そうな私のレーンコートのうえから、ものもわるくなさそうな厚い外套をかけてくれた、上野山の好意はありがたく、ずっとその外套を着て、寒さをしのぐことができた。……(《猪鹿蝶》p151)
 そんなあいだにも、いろいろなことがあった。共産党出版物の創造社に、蒋介石政府の役人が踏みこんで、噂をきいて駆けつけてみると、椅子はこわれ、戸棚のものはぶちまけられて、派手派手しい乱暴狼藉のあとだった。責任者の鄭伯奇が呆然としていた。張子平や、茅盾のような花形作家の本はみんな、そこの社から出ていた。(《胡桃割り》p159)
 宝山玻璃廠という日本人の経営するガラス工場が、北四川路を出外れた、江湾チャンワンに近い郊外にあって、秋田は、そこの女主人をパトロンにして、ときどき絵をうりつけていた。その工場のガラス吹き職人で、高田という胸のわるい日本人が、私たちの仲間にいた。ガラス吹きは、長命できない仕事とされていて、高田もその例にもれず、酒と女の不摂生な生きかたが、あらためられない不倖な人間だった。このむやみに細長くて六尺あまりもある足長島は、血を吐きながら、際限もなくのみ、止め処もなしのおしゃべりであった。彼は、毎晩、月宮殿ムーン・パレスの「桃山跳舞場」でおどっていた。私が秋田の持っているどくろ杯のことを話すと、異常な興味をもち、狂暴な眼つきになって、「秋田先生にお願いして、是非それをみせていただけるように、先生から話してください」とたのみこんだ。なにもたのみこむほど重大なことではない。お望みならば、これから見にゆこうと、彼をつれて、余慶坊にもどってみると、秋田は、不在だった。私は、どくろ杯のしまってある場所を知っているので、勝手にとり出して見せると、高田は、息をのんで、じっと眺め、大きなてのひらの上で杯をまわして、いつまでも手放そうとしなかった。……(《胡桃割り》p169)
 金ができたので私は、なおも粘って湖北にゆくという秋田を説きおとし、一まず帰国させ、内地で十分養生して、再挙する時を待つように、納得させて、結核性疾患の七ヶ所もある彼をこの不健康な土地におくことは、自殺するとおなじだと、おなじ北四川路福民病院の若い医師にたのみこんで早々帰国をすすめてもらった。私の手元へも若干のこして、ぽん助がもってきた金で、上海から、東京までの旅費はがつがつに足りた。(《火焔オパールの卷》p196)
 上海へかえってくると、その歳もおし迫ってきて出発を急がねばならなかった。あわてふためいて、上海日本人クラブの二階に画を並べたが、在留邦人も退屈しているとみえて、人があつまり、単価が安いので金高はあつまらないが、それでもこちらの予想にほど近い収穫があった。魯迅や、魯迅が校長をしている神州女学校の女の生徒までが買ってくれた。(《旅のはじまり》p219)

■金子光晴:『詩人』[B116]

 時代の花形の前田河広一郎が、『改造』の小説を書くために上海へやってきた。彼は、毎晩虹口ホンキューあたりをのみ歩きながら、
「君は、どっちかと言えば、浮浪インテリで、当然プロレタリアに解消すべき人間じゃないか。僕たちの仲間にはいりなさい」
 と、強硬に勧誘した。上海の創造社の連中とも交渉があった。立役者は鄭伯奇や、詩人王独清、作家には張資平、茅盾がいた。内山書店には、そんな連中が誰か来ていた。パン・ウル(宇留河泰呂)がお河童で、上海の街をふらふらしていた。魯迅と郁達夫は、いつも肩を並べてあるいていた。(《日本を追われて》pp159-160)
 ……行く先は、一つ先の港、香港だった。僕はそのために「上海風俗画」の展覧会をやって金をつくった。魯迅が二枚買ってくれた。一枚は唱詩人(女の歌手)の画だったが、彼は「これは、日本の女の顔ですね」といった。(《日本を追われて》p161)

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更新日:2001年4月4日(水)