大世界 [da4 shi4 jie4]/ダスカ
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■金子光晴:『どくろ杯』[B42]
……抱え車夫が、金持の令嬢と恋愛をして、尊卑にしばられた世間常識の型を破った事件が、上海中の人気と賞讃をよんで、毎日の新聞のトップ記事となっていた。……当分のあいだ、人々は、黄陸一対のその後の消息で明けくれていたばかりか、大衆娯楽場の「大世界」では、芝居に仕組まれて人気を呼び、映画になって、さらにはてばてまでひろめられた。車夫の地位が、それほどのおどろきを呼ぶほど、人外な、みじめなものだったことを物語ることにもなる。(《上海灘》pp132-133)
蘇州をうち切って上海へ帰ろうという時になって、慾が出て、城外の天平山を一覧することになり、坂路が多いこととて、手輿に乗り、ながい柄にしなしな揺られてかなりな長路を小半日がかりで目的の地に着いた。天平山と名はいかめしいが、樹もろくに生えていない裸の丘で、一宇の寺院があり、卓にむかってやすむと小坊主が例によって香茗ちやと水瓜の種一盆をはこんできた。しかし、ここでのおもいがけぬ収穫は、中国の映画のロケーションにゆきあたったことだ。現代ものの、しかも軍国調の映画で、主役になる青年将校のメークアップの濃厚さ、アメリカ映画をお手本にした、キッスシーンのこのときとばかりの主役の演戯は、将校の顔が女優の口紅で赤隈になるばかりの熱の入りかたである。……その筋は、当時北上をつづけつつある蒋介石主席の連戦連勝と、正義と開放をうたった宣伝もので、上海の大世界などで私たちがこれまで二度三度となくみせられたのと同類のものである。(《火焔オパールの卷》pp188-189)
■金子光晴:『絶望の精神史』[B244]
どこの国でもそうだが、とりわけ中国のなんでもない民衆のなかには、どうしても愛情をもたずにはいられないような、いかにも大国の民らしい人間がいる。そういう人につらい思いをさせたくないためにも、日本軍に侵略を中止してもらいたいとおもう。
たとえば、往年上海で、田漢や、唐槐秋とあそびあるいて大世界ダースカの屋上へあがったとき、僕は急に便意を催し、田漢にさがしてもらって、くらい納屋のような便所へはいった。便所の中はうすぐらく、あちらこちらに、大きな樽がおいてある。その樽に腰かけて、用をたすのだ。
みると、僕とむかいあって、一人の老人が腰かけている。黙ったまま、二人は用をたしている。老人はやがて、唐紙をとり出し、ゆるゆると二つに折っては、折り目から裂き、またそれを折って、四枚にした。なにげなくそれをながめていると、四枚のうちの二枚を、しずかに手をのばして僕のほうにさし出す。僕も、うなずいてそれをうけとったが、僕は、まだその老人の姿と、むずかしく説明するほどの行為ではないが、知る知らぬを越えた淡々とした好意のあらわれに、中国人の心の広く大きいものを感じたのが忘れられない。田漢たちに話すと、とんだりはねたりしておもしろがって笑った。(《焦燥する<東洋鬼>》pp157-158)
■堀田善衛:『上海にて』[B133]
ある夜、私は中野重治氏とつれだって、むかしは大世界ダスカと呼ばれ、いまは上海市人民遊楽場と呼ばれているところへ出掛けた。ここは、いわば浅草六区のありとあらゆる演芸を一つのビルにつめこんだようなところである。芝居、映画、軽業、漫才、なんでもある。入口でなにがしかの金を払えば、何階のどこで何を見てもいい。演芸の種目にはなんのかわりもなかった。そうして、以前、ここはスリ、カッパライ、淫売、ポンビキ、ときにはこの中で堂々とアメリカ式ホールドアップが行われたこともあった。
入口のところに、歪んだ鏡がいくつかしつらえてあった。ばかに肥って見えたり、棒のように痩せて見えたり、上半分肥って下半分は痩せていたり、その逆だったりというふうに写る、例の変形鏡である。生活を愛することにかけては達人である中野氏は、これらの鏡に写った異形の者を眺め、しきりとたのしんでいた。私はといえば、私もいろいろと身振りなどをしてみてはいたのだが、内心では、実に心からびっくりしていた。というのは、その鏡の列の手前のところに、この遊楽場での失せ物、遺失物のリストがかかげられてあったからである。あたりまえのことだと人は言うであろうが、むかし上海で失せ物が出て来るなどということは、まずなかったことだからである。私はほんとにびっくりしていた。誇張をして言うならば、この万人が万人に対して狼であった都会に、これだけの変化をもたらしえたものは、何なのだろうか、とほとんど茫然とした。これほど、とは思っていなかったからである。何がこういう変化、変革をもたらしえたか、革命である、中国共産党を中軸とした民衆だ、と答えてみたところで、私自身にとってもそれは答えというにはあまりにもつかみどころがなさすぎるのである。(《町あるき》pp109-110)