外灘 [Wai4 Tan1]
バンド The Bund

■堀田善衛:『上海にて』[B133]

 そこでもとに戻って、かつての「冒険家的楽園」といわれた以前の上海のことを、中国の人はどう思っていたか。私は、かつて宣伝部で私の上役であったFさんという中国の人を思い出す。このFさんは貴州省の地主出身の人で、忠実で清廉潔白な国民党員であった。……
 あるとき、このFさんと私は黄浦江に添ったバンドを歩いていた。軽薄なところのある私はお世辞がいいたくなった。
「とにかく、重慶からここへ出て来られて嬉しいでしょう」
 するとこのFさんは、途端に眼をむいていった。
「どうして? 勝利は嬉しいが、こんな都会は、私は昔も嫌いだったし、いまはなおさら嫌です」と。
 Fさんは、黄浦江上にいるアメリカの軍艦を指さし、ついでアメリカ軍の宿舎になっていたブロードウェイ・マンションという二十数階のアパートメントを指さし、やがて腕をぐるりとまわしてバンドに立ちならぶサッスーン財閥のサッスーン大楼ジャーディン・マジソン会社や、香港上海銀行などの建物を示して、
「いつまでこれがつづくのだろうか、と私は思います」
 といったことがあった。……(《「冒険家的楽園」》pp81-82)
 私が、ばかに風通しがよくて、どの通りも見透しで、とにかくガラーンとしとるな、なんだかへんてこりんな感じだな、と思ったのは、要するにそれが中国へ復帰したということなのであろうと思う。
 極めて質素な中国が、ガワだけ西欧植民地主義がおったてた植民地風な、威張りちらしてそっくりかえった大建築物群のなかへおさまった、その一種異様な不調和感、私たちの方から見ての違和感のようなものが、私にそういう風に思わせたものであったろう。私はむかしのサッスーン・ハウス、いまの和平賓館のなかにも入ってみたが、豪華なシャンデリアの下を、詰襟の中山服や菜っ葉服を着た何かの機関の幹部たちが往来している光景は、たちまちかつての、馬斯南路の中共公館から出て来た綿入れ服の延安から来ていた人の姿を思い出させた。
 それが中国へ帰った、復帰した、ということは、要するに逆にいえば、中国の農村が上海に侵入して来た、ということなのだ。中国農村が上海を外国資本から解放し、その上海が農村に仕える、“服務”するものとなった。上海が農村を支配し、搾取するというのではなくて、農村が上海に侵入し、いわば、農村にひきもどされ、それにつかえるものとなった、ということなのだ。なんとなく田舎臭くなったな、とも私は思った。上海を解放した主力は、上海の労働者でも学生でもなくて、農民兵であった。上海の存在は、農村の方へ重くかかるようになり、その顔は、封鎖のつづくあいだという一時的なものかもしれないが、海彼へではなくて、内陸の方を向いている。黄浦江添いのバンドの建物を見ていて、私は中国の裏門、裏壁を見ているような気がした。本舞台は、内陸の農村なのだ。だから、この都市のにぎわいは、その質と内容を変えてしまった。どこにも吉普女郎ジープ・ガール(日本でいうパンパンのことをジープ・ガールといっていた)などというものもいなくなってしまった。現在のこの都市のにぎわい方の性質と、植民地風な建築様式とは、まったく不釣合なものに感じられる。妙にチグハグな感じがするのだ。恐らく新しい建築様式が求められているのである。中蘇友好大厦などに見られるソヴェト式なばかにごつい、堂々としすぎている建築様式も、ふさわしいものではないと思われる。
 しかしとにかく、上海が中国に帰り、世界のならずもの、“冒険家的楽園”が人民の所有になり、中国が中国をもつにいたった変革解放を眼にして、そこで私が途方に暮れたとあれば、問題はそういう私自身にあるわけである。(《「冒険家的楽園」》pp85-86)
 有名なホテルであったキャセイ・ホテルを含む、サッスーン・ハウスの親玉であるサッスーン一家の歴史を研究してみれば、恐らく西欧帝国主義のふくれ方とその手口と運命が明かになるであろうと思われる。……ともかく、この男が、上海の面貌を「近代化」するのに大いに働いた。キャセイ・ホテルメトロポール・ホテル、ハミルトン・ハウス、エムバンクメント・ビルディングなどをつくり、私たちがとめられた現在の錦江飯店、その前の日本十三軍司令部であったキャセイ・マンションズをもつくったのであった。上海には、こういう名物男みたいなものがいろいろといたのである。……英国の東洋貿易のチャンピオンであり、いまもそうであるバンドジャーディン・マジソン洋行は、かつて日本海軍が接収して、海軍武官府をおいていたが、そこは対外貿易局となった。恐らくこの対外貿易局は、もとのジャーディン・マジソンの建物に陣取って、香港その他のジャーディン・マジソン洋行自体と交渉をしているのであろう。同じことは、日本の正金銀行(いまの東京銀行)だった建物にいる中国人民銀行についても将来起るであろうと思われる。私は戦時中、猛烈なインフレーションのためにどうしても御飯が食べられなくなり、この海軍武官府にいた知人に、名目だけ、無給の嘱託ということにしてもらって、一時昼食を食わせてもらっていたことがある。ジャーディン・マジソン洋行・海軍武官府は、私にとって、昼食のための食堂であった。まるで、文字通り乞食であった。私は茫然として、この対外貿易局の建物を見上げていた。パレス・ホテルには、基本建設の主役である建築工程部華東工程管理局がいた。英国のアジア金融の総本山である香港上海銀行には、上海市人民委員会(市役所)と、中国人民解放軍上海市軍事管制委員会がいた。この建物の玄関には、英国の象徴である凶猛な感じのライオンの銅像があって、これの足をなでさすると金が儲かるという伝説があり、いつもピカピカに光っていたものだが、ライオンは姿を消していた。江海関(税関)は、上海市工会(労働組合)連合会になり、アメリカ総領事館は、放送局になり、英国総領事館は、英国僑民事務所になっていた。英国は中華人民共和国を、形だけにしろ、承認している。アジア各地に支店をもつ、英国製の豪奢な品々を売る百貨店、ホワイトアウェイは、国営上海市百貨店第三商店になっていた。ノース・チャイナ・デーリー・ニューズは、中国人民保険公司になっていた。私の住んでいた家の近くにあった中華洪門総会と称される、なんでも紅幇類似のものと聞かされていたギャングスター(?)たちの会館は、上海市国営貿易企業職工病房という病院になっていた。メドハースト・アパートメントは、冶金工業部となり、かつて武田泰淳がいた東方文化編訳館の建物は、共産主義青年団となっていた。そうして、私自身がつとめていた(?)国際文化振興会上海資料室のあった、これも英人所有のケリー・アンド・ウォルシュ書店ビルは、紡織工業部供鎖総局供鎖分局というものになっていた。ここで、つとめていた、というところに?印をつけたのは、当時インフレが烈しくて、なにひとつ仕事らしいことは出来ず、また無く、つとめているやらいないのやら、まるでルンペンみたいな有様だったからである。かつ、住居であった旧共同租界奥、愚園路のフラットは、家用器具公司のアパートになっていて、三階建てのちょっとしゃれたアパートだったのが、いささかうす汚れて、いかにも田舎から出て来た、あるいは上海での下積みのところにいた人が、いまは住んでいるらしいと推察された。(《たとえばサッスーン卿という男について》pp87-90)
 井上靖氏と二人で、先に述べたバンドといわれていた黄浦江添いの、港であって同時にビジネス・センターでもあるところを(いわば東京駅前にあたろうか) - 歩きながら、私はまた一九四六年の十一月中頃にこの町で起った、暴動のことを思い出していた。温厚篤実な紳士である井上靖氏の傍で、あの激烈であった暴動のことなどを考えることは、少々具合のわるいことであったが。
 一九四六年晩秋、そのとき私はいつものように放送局へ行こうとして、このバンドで電車をのりかえるために下車した。冷たい河風に吹かれて次の電車を待っていた。が、電車は来なかった。そうしてふと、通りを行く人々の、歩き、流れて行く方向がまったく一方的であることに気付いた。……
 ……そのうち、一時間前に罷市(ゼネ・スト)が指令された、ということがやっとわかった。電車が来ないわけであった。やがて、そのころは愛土亜エドワード路と呼ばれていた旧共同租界と旧仏租界の境界路であったところへ、この一方行進の大群衆が、ぜんぶ、曲って行くということがわかった。江海関(税関)の前あたりでは、もう人波が人道車道を埋めつくしていた。(……)それはもう怖るべき混雑であった。私は愛土亜路より二つ手前の福州路で曲り、ふと気付いて水道の栓をひねってみた。水は、出た。ゼネ・ストは水道にまでは及んでいなかった。この福州路でも群集のほとんどは一方行進であった。そうして、同じく、ほとんどが黙々として、すたすたと、速めに歩いていた。
 どこへ行くのか?
 やっと私は気付いた。彼等の大群衆は、男も女もみな愛土亜路にある警察本部へ行くのだ。警察を襲うのか? 流れ弾にでもあたったのではかなわぬ。私はそこ一軒だけやっていたソバ屋へ入って、あたりにいた人々に訊ねた。何が起ったのだ?(《暴動と流行歌》pp123-124)

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更新日:2001年3月29日(木)